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ダブルチョンボの合わせ技で一本勝負…あぁ、無情の「イ-ハト-ブ」…が、実は本当だったというお話し…1抜けた、2抜けた~底抜けた!?

  • ダブルチョンボの合わせ技で一本勝負…あぁ、無情の「イ-ハト-ブ」…が、実は本当だったというお話し…1抜けた、2抜けた~底抜けた!?

 

 「これじゃ、まるでエイプリルフ-ル(4月1日)ならぬ“ノベンバ-フ-ル”(11月1日)じゃないか」―。月初めのその日に相次いで勃発した“椿事(ちんじ)”に私は思わず、わが目を疑い、ついには卒倒してしまった。地方行政の基本原則…二元代表制の両翼を担っているはずの花巻市と花巻市議会の「ダブルチョンボ」である。

 

 朝起きるとまずパソコンを開け、花巻市のHPを点検することが議員時代からの習い性になっている。その日、ふるさと納税の11月分の返礼品の追加分として、象牙の印鑑がリストに加えられていた。密猟などによって、アフリカ象が絶滅の危機にさらされているという新聞記事が記憶の片隅に残っていたせいかもしれない。一瞬、ワシントン条約との関係で大丈夫かなという思いが頭をよぎったがその時はそのまま、やり過ごした。そして、夕方に何げなくHPを開いてみると、あれっ、その記述がそっくり、消えてなくなっているではないか―。あの“エアガン”騒動(8月9日付当ブログ「真夏の夜の“ミステリ-“…上田城、ついに落城か!?」参照)の悪夢がむっくりと目を覚ました。

 

 ワシントン条約(絶滅のおそれのある野生動植物の種の取引に関する条約)は1975年に発効し、現在は日本を含めた182か国とEUが締約国に名を連ねている。象牙の国際取引は原則禁止とされ、今年夏に開かれた第18回締約国会議ではケニアなどから「国内市場の完全閉鎖」が求められるなど、象牙取引をめぐる環境はますます厳しさを増している。今回の会議では完全閉鎖は見送られたものの、日本などに対して密猟や違法取引(密輸)をなくす対策の実施状況の報告を義務付けた。象牙は印鑑やアクセサリ-、数珠(じゅず)、彫刻品などに加工され、とくにアジアでは古くから貴重な工芸品として珍重されている。現在、日本国内の在庫は取引禁止以前に輸入されるか、特例として持ち込まれた象牙がほとんどで、その加工や販売に違法性はない。

 

 今回、ふるさと納税の返礼品に出品されたのは市内の印房店から申請があった直径15ミリメ-トルの丸型印鑑や実印と認印、銀行印が三本セットなった数量限定品で、たとえば10万円の寄付に対しては三本セットが返礼されることになっていた。応募開始前に不都合に気が付いたため、“エアガン”騒動の際に申し込みが殺到したような”実害”はなかった。突然、リストから削除したことについて、定住推進課の菊池郁哉課長は「法的に問題はなく、他の自治体でも同じ品を提供していることもあったので…。ワシントン条約については正直、無知だった。ただ、前例(エアガン騒動)もあるので、今後は担当職員全員で慎重に精査したい」と話している。

 

 一方で、花巻市当局がHP上にリストアップしたちょうどその日、インタ-ネットのプラットフォ-ム・国内最大手の「ヤフ-」はショッピングサイトやオ-クションサイトでの象牙関連商品の取引を禁止する措置に踏み切った。楽天やメルカリなどの同業種も2年前に出品から撤退している。「以前、当社のサイトを通じて取引された象牙が外国に違法に持ち出されたケ-スがあった。条約の精神を無視することはできない」というのがヤフ-関係者の言だが、「民」と「官」との認識の乖離(かいり)には「どてびっくり」(ノックアウト)である。つまりは“エアガン”騒動の時もそうだったが、過度な返礼品(地場産品)競争がずさんな選定につながったということなのだろう。と、話はここで打ち止めになるはずだったのだが…

 

 同じ11月1日発行のはなまき市議会だより「花の風」を開いて、またのけぞってしまった。広報広聴特別委員会(瀬川義光委員長ら9人の議員で構成)の委員たちが持ち回りで担当する「連載シリ-ズ」の第5回目に「地球温暖化/今世紀末には海面は1・1m上昇する」という大見出しがおどっていた。野生動植物にとっても「温暖化」は大敵である。すわ一大事と、本文を読み進むうちに本当に卒倒してしまったという次第である。「1・1m」の数字の根拠がどこにも出ていないという摩訶(まか)不思議に遭遇したのである。

 

 今年9月下旬、国連の「気候変動に関する政府間パネル」(IPCC)は「有効な対策が取られないまま、地球温暖化が進むと今世紀末に世界平均の海面水位は最大で1・1m上昇する」とする認識を公表した。私が調べた結果、数字の根拠はこれしか見つからなかった。ところが、このことに関する記述が本文には一行もなかったのである。

 

 新聞記者の端くれだった私にとって、「見出しは新聞の生命線」という思いが強い。専門部署の整理部(当時)が記事の内容をいかに見出しに凝縮させるか…悪戦苦闘している姿をいまも思い出す。「まずは見出しで読ませる」―が新聞メディアの鉄則なのである。ましてや、記事にないことを見出しに取るような事態に際しては「お詫びして訂正します」という謝罪文の掲載は必至で、場合によっては当事者の処分に発展することも少なくなかった。つまり、本来はあり得ない「想定外」が今回、実際に起きたということである。筆者は広報広聴特別委員でもある共産党所属の久保田彰孝議員。時代を先取りする前向きな姿勢には敬意を表したいが、「フェイク」(嘘)は許されない。次号でその経緯を明らかにすることを期待したい。

 

 それにしても、と近頃つくづくと思い知らされる。宮沢賢治の理想郷「イ-ハト-ブ」をまちづくりの基本に掲げる我がふるさとの土台はとうに崩壊してしまっているのではないか……と。それとも、我われ市民の方がなめられているのだろうか。まったくもって、あぁ、無情である。

 

 

 

(写真は密猟や密輸で絶滅の危機にさらされるアフリカ象の象牙の山=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

 

《追記》~泣きっ面にハチ…本当だった「あぁ、無情!?」

 

 免停中の花巻市の消防士(26)が6回にわたって、救急車の運転(救急出動)をしていた事実が8日明るみに出て、上田東一市長ら幹部が深々と頭を下げる姿がテレビに映し出された。HP上に掲載された経緯によると、この消防士は今年6月末、東北自動車道でスピ-ド違反を犯し、罰金刑を言い渡されていた。花巻市交通安全対策協議会が主催する「交通安全コンクールチャレンジ100」に、この消防士が参加していたことから発覚した。当ブログで言及した「イ-ハト-ブ」の崩壊が図らずも証明されるという皮肉な結果になった。このニュースはあの”エアガン”騒動に続いて、全国のメディアで一斉に報じられた。コンプライアンス(法令遵守)に厳しい上田市長は以下のようなコメントを発表したが、後日のために全文を掲載する。なお、今年1月には同市の別の消防士(21)が女性に乱暴(強制性交等未遂)した疑いで逮捕されるという事件も起きている。

 

 「市民の安全・安心を守るべき立場にある消防士が、免許停止期間中の救急車の運転を含む重大な交通違反行為を行ったことは、市民の皆様の信頼を大きく損ねるものであり、心よりお詫びを申し上げます。誠に申し訳ございませんでした。花巻市としては、本件に関する警察の捜査に協力するとともに、捜査の進展を見守りつつ当該消防士に対しては厳正な処分を行い、また、消防職員の運転免許の保持・有効期限の確認を徹底するなどの再発防止策を講じ、職員一丸となって職務にまい進し、一日も早く市民の皆様からの信頼を回復できるよう努めてまいります」

 

 

 

 

 

 

即位礼と啄木、そして“ジョ-カ-”の登場

  • 即位礼と啄木、そして“ジョ-カ-”の登場

 

 「天皇陛下万歳」という発声と21発の祝砲―。「即位礼正殿の儀」(10月22日)の光景をテレビで見ながら、ふいに“狂気”の予感のようなものが体を貫いたように思った。その前日、公開されたばかりの米国映画「ジョ-カ-」(トッド・フィリップス監督)を見たせいかもしれない。「ふんわりと進んだ代替わり/消費される天皇制」(22日付朝日新聞)という見出しが新聞におどっていた。まるで祝祭儀のように粛々(しゅくしゅく)と営まれた「令和天皇制」への移行は一方で、“ジョ-カ-”の出現をいつか許してしまうような「終わりの始まり」ではないのか、とそんな気がしたのである。

 

 時はさかのぼり、明治天皇(1852―1912年)の暗殺を企てたとして、幸徳秋水ら12人が死刑に処せられた「大逆事件」(1910年5月~)の直後、石川啄木は『時代閉塞の現状―強権、純粋自然主義の最後および明日の考察』の中に以下のように書き付けた。100年以上も前の啄木のこのメッセ-ジは日本やアメリカだけではなく、世界の現状を射抜いて余すところがない。

 

 「我々青年を囲繞(いぎょう)する空気は、今やもうすこしも流動しなくなった。強権の勢力は普(あまね)く国内に行わたっている。現代社会組織はその隅々(すみずみ)まで発達している。――そうしてその発達がもはや完成に近い程度まで進んでいることは、その制度の有する欠陥(けっかん)の日一日明白になっていることによって知ることができる。…そうしてまた我々の一部は、『未来』を奪われたる現状に対して、不思議なる方法によってその敬意と服従とを表している。元禄時代に対する回顧(かいこ)がそれである。見よ、彼らの亡国的感情が、その祖先が一度遭遇(そうぐう)した時代閉塞の状態に対する同感と思慕とによって、いかに遺憾(いかん)なくその美しさを発揮しているかを」


 「かくて今や我々青年は、この自滅の状態から脱出するために、ついにその『敵』の存在を意識しなければならぬ時期に到達しているのである。それは我々の希望やないしその他の理由によるのではない、じつに必至である。我々はいっせいに起ってまずこの時代閉塞(へいそく)の現状に宣戦しなければならぬ。自然主義を捨て、盲目的反抗と元禄の回顧とを罷(や)めて全精神を明日の考察――我々自身の時代に対する組織的考察に傾注(けいちゅう)しなければならぬのである」

 

 いささか長い引用になったが、啄木のこの予言が名優、ホアキン・フェニックが演じる殺人鬼“ジョ-カ-”として、私たちの目の前にいま立ち現れたのではないのか―。夢想、いや妄想と言われれば、あるいはその通りかもしれない。しかし、その一方で私の脳裏には今次の台風襲来に際し、一部の自治体が避難所へのホ-ムレスの受け入れを拒否したというニュ-スが去来して離れない。そう、「天皇制」という制度はかつて、“非国民”という名の疎外者を内に抱え込むことによって、その権威を維持してきたことはすでに歴史が証明するところである。そして、装いを新たにした「令和天皇制」とそれを演出した政治の側も実はこの種の「外部」に支えられることによって、初めて成立するものなのであろう。そんな思いに私はとらわれていた。

 

 ベネチア国際映画祭で最高賞の金獅子賞を受賞した「ジョ-カ-」は実に不気味な映画である。笑いを振りまくことを生きがいにしていた善人の道化師がいつしか、無差別殺人を繰り返す狂気のカリスマに変貌していく…。何が主人公のア-サ-・フレックをそうさせたのか。現在のアメリカ社会が抱える貧富の格差や弱者への迫害などが背景に描かれているが、ア-サ-の狂気はそれだけでは到底説明することはできない。米国での公開時には不測の事態に備えて、警察や軍隊が警戒に当たったといういわくつきの作品である。評価が真っ二つに分かれる所以(ゆえん)である。

 

 「狂っているのは自分か、それとも世界か」とア-サ-がつぶやく場面がある。その両方だと私は思う。善と悪を超えた地平線上にオ-ロラのように現れた、もうひとりの人間像がぼっ~とかすんで見えるような気がする。ひょっとすると、それは「内なる狂気」を意識する自分自身なのかもしれない。啄木の時代閉塞感とまるで平安絵巻でも見るような令和の代替わり、そして史上最強のヴィラン(悪役)となった“ジョ-カ-”の登場……。この三様の光景が頭の中をぐるぐると回っている。一体、何故なのか!?映画館に二度足を運んだが、このナゾを私はまだ、解けないでいる。

 

 沖縄文化の象徴―首里城が炎上・焼失した。琉球処分や沖縄戦などの受難史を刻み込んだ歴史の喪失…。時代が抹殺されるようなそんな世紀末の光景を、私の混乱した頭は思い浮かべている。余りにもせっかちな思い込みであろうか―

 

 

 

 

(写真は玉座「高御座」(たかみくら)に立つ天皇陛下に向かって、万歳三唱をする安倍晋三首相と祝砲を放つ自衛隊の祝砲部隊=10月22日午後、皇居で。インタ-ネット上に公開の写真より)



 

男と女の“棺桶”リスト

  • 男と女の“棺桶”リスト

 

 

 「女房に先立たれた夫は大体、2年以内に死ぬらしいぞ」(2019年1月29日付当ブログ参照)―。歯に衣着せぬ盟友のジャズミュ-ジシャン、坂田明さん(73)からこんな“ご託宣”を受けてからさらに時が流れ、ふと気が付けば本日(10月29日)が14回目の月命日である。ということは、坂田さんの定理に従えば、私の余命は最大であと9か月ということになる。「老い先」のことはなるべく考えないことにしていたが、チコちゃんから「ボ~っと生きてんじゃね-よ」(NHKの人気番組「チコちゃんに叱られる」)と一喝(かつ)され、我に返った。折しも、こんな自分にお灸(きゅう)をすえてくれるような映画が公開された。

 

 「最高の人生の見つけ方」(犬童一心監督、10月11日公開)は、人生のほとんどを家庭のために捧げてきた主婦・幸枝(吉永小百合)と、仕事一筋に生きてきた大金持ちの女社長・マ子(天海祐希)が主演。がんの余命宣告を受けた2人は病院で偶然に同室となる。人生に空しさを感じていた2人は難病で入院中の少女が残した…「死ぬまでにやりたいことリスト」をたまたま手にする。幸枝とマ子は、残された時間をこのリストに書かれたすべてを実行するために費やす決断をし、自らの殻を破っていく…。「人生の中の幸せの時間というのは永遠には続きません。だからこそ、できるだけハッピ-に見える時間を作るようにしました」と犬童監督は語っている。何となく勇気をもらったような気持になった。

 

 実はこの映画には“元祖”がある。米国で2007年に公開され、世界中で大ヒットした同名の映画(ロブ・ライナ-監督)である。がんで余命半年を宣告された大富豪の剛腕実業家(ジャック・ニコルソン)と勤勉実直な自動車修理工(モ-ガン・フリ-マン)がこっそり、病院を抜け出し、人生最後の旅に出るという場面で映画はクライマックスを迎える。ところで、「The Bucket List」―つまり、“棺桶リスト”がこの映画の原題である。まさに、言いえて妙(みよう)。チコちゃんの言うように、ボ~っと生きている暇なんてない。

 

 「何でも手に入れることができた人間が本当に欲しかったものは?」、「最後に見つけた本当の幸せとは?」…。この二つの映画に共通するテーマである。さ~て、わが男やもめも我流の“棺桶リスト”を作ってみることにするか。と、ここでまた頭を抱えてしまう。「果たして同じ境遇の相方がすぐに見つかるかなぁ」。とりあえずは以下の手引書をわきに置きながら、じっくり考えて見ようと思う。“棺桶リスト”を完成させないままに哀れな人生に幕を閉じることになるのか、それとも何か奇跡が起きるのか……

 

 

【男たちの棺桶リスト】

 

・スカイダイビングをする
・ライオン狩りをする
・万里の長城をバイクで走る
・ピラミッドを見る
・香港に行く
・壮厳な景色を見る
・エベレスト登頂
・世界一の美女にキスをする
・泣くほど笑う
・見ず知らずの人に親切にする

 

 

【女たちの棺桶リスト】

 

・スカイダイビングをする

・お金持ちになる

・ももクロのライブに行く

・日本一大きなパフェを食べる

・他人のために何かをして喜んでもらう

・さかあがりが出来るようになる

・パパとママにありがとうを言う

・ウェディングドレスを着る

・好きな人に告白をする

・宇宙旅行をする

 

 

 

 

(写真は日本版「最高の人生の見つけ方」のポスタ-=インタ-ネットに公開の写真から)

 

 

 

 

なんぼ何でも、これじゃなぁ~議会報告会の動転劇、悪夢再来!!!

  • なんぼ何でも、これじゃなぁ~議会報告会の動転劇、悪夢再来!!!

 

 「議員になることで精いっぱいで、その辺のこと(議員の解職など)の法的な根拠については恥ずかしながら、つまびらかではありません」―。23日から3日間の日程で開かれている「市民と議会との懇談会」(花巻市議会報告会)の席上、私は若干意地悪な質問とは思いつつ、地方議会の解散や議員の解職を定めた「リコ-ル(解職請求)」(地方自治法第13条)について質問した。5人の参加議員は困惑した表情で互いに顔を見合わせ、しぶしぶマイクを握ったのが冒頭発言の古参議員だった。真っ正直というのか、余りにもあっけらかんとした発言に逆に虚を突かれた。己が身を置くそのポジションについての「無知」をさらけ出してなお議席にしがみつく…さ~て、その正体が暴かれた動転劇の顛末(てんまつ)とは―

 

【第1幕】~病院の巻

 

上田(東一)市政の看板政策は「病院」と「図書館」という二大プロジェクト(10月2日付並びに8日付当ブログ参照)である。半年後に迫った公益財団法人「総合花巻病院」の旧県立厚生病院跡地への移転をめぐっては、当初予定された23科目から4減の19科目でスタ-トすることが最近になって明るみに出た。この事業には当市はじまって以来、最大規模の19億7,500万円の補助金が支出されることがすでに議会で承認されている。しかし、規模縮小に連動して補助金の額にも変動が出てくるのが当然である。そんな疑問にこんな返答が返ってきた。

 

 「正直言って、その補助金の減額などについての議論は議会内ではまだ、起きていません。ただいま指摘を受け、大変大事なことだと思うので、何らかの機会をとらえて当局の見解をただしたいと思います」―。これじゃ、台本作りも他人まかせの学芸会と同じではないか。いや、小学生たちだって、脚本はみんなで知恵を出し合ったつくるはず。一事が万事である。当局の下請けと化したこの体たらくでは「議会無用論」がささやかれても仕方があるまい。

 

【第2幕】~図書館の巻

 

 「新花巻図書館整備基本構想」(2017年9月)が公表されて、すでに2年以上が経過したが、その全貌がいまもって見えてこない。映画「ニュヨ-ク公共図書館」を見て、その「知的インフラ」の重要性を再認識させられた直後だけに、私は図書館構想に対する議会の取り組みを問いただした。その返答にまた、腰を抜かした。「そろそろ、実施に向けた基本計画が出てくるころだと…。運営の方法などについては我われ議員側にも知らされていません。いずれ、当局の出方を見ながら」―。私のイライラも限界に近づきつつあった。「これだけの大きな事業に対し、ただ手をこまねいているだけでよいのか。特別委員会を設置するなどして、議会としての独自の対案を示すべきではないのか」

 

班長だという議員が制するようにして口を開いた。「貴重なご意見と受け止め、今後、議会として検討させていただきます」―。この手の慇懃無礼(いんぎんぶれい)な言葉はこれまでも随分、聞かされてきたような気がする。そういえば、どこかの新聞の川柳欄にも「土下座って舌を出しても分からない」という皮肉が載っていたなぁ…

 

【第3幕】~蚊帳(かや)の外の巻

 

 ある住民が手狭になった地元の学童保育の拡張計画について、質問した。「当局側に確認している現段階ではそうした計画はありません」とある議員がきっぱりした口調で言った。もうひとりの住民が手を挙げた。「実は私は学童保育の運営に携わっているひとりだが、60人の定員を80人まで増やすという計画がすでに地元には伝えられていますが…」―。会場にざわめきが広がった。蚊帳の外に置かれた議員たちをあざけ笑う、“嘲笑”(ちょうしょう)のように私には聞こえた。居並ぶ議員たちはバツが悪そうに下をうつむいていた。

 

 

 「おもしろうてやがてかなしき鵜舟(うぶね)かな」―。一連の動転劇を見ているうちに、芭蕉のあの名句が口の端に浮かんだ。鵜匠(うしょう)に操られる鵜たちの哀れな姿が二重写しになったのである。リコ-ルを本気で考えなくてはならないかもしれないな、と段々そんな気になってきた。宮野目振興センタ-での報告会に出席した議員は以下の通り(敬称略)。議会報告会は25日までの3日間、全市内15か所で開催される。

 

 横田忍(市民クラブ)、藤井幸介(無所属=公明党)、高橋修(市民クラブ)、本舘憲一(花巻クラブ)、藤原伸(明和会)

 

 

(写真は住民の参加者がわずか10人と空席が目立った会場=10月23日午後、花巻市西宮野目の宮野目振興センタ-で)

 

 

《第4幕=番外編》~ブラックユ-モア?、いや、これは悲劇、いやいや悪夢そのものだ!!!

 

 「自治体経営を考える/花巻/市議と高校生、話し合う」(岩手日日新聞)―。議会報告会最終日の10月25日、地元紙にこんな見出しの記事が掲載された。若者たちでつくる市民団体の呼びかけで、市議と高校生とがまちづくりを模索するワ-クショップを開催したという内容だった。「自治体経営を考える」というテ-マで、現職市議4人と地元高校生ら12人が参加。予算編成や事業の見直しをなどについて、行政手法を疑似体験する様子が写真つきで紹介されていた。

 

 市議の顔ぶれを見て、ふたたび腰を抜かしてしまった。4人のうち2人が以前、公職選挙法違反(寄付行為の禁止)の疑いで話題になった人物で、もう1人が今回の”慇懃無礼”居士(班長)だったからである。花巻市が進める「消防団員育成強化」事業の一環として、登録店を利用した団員に対し、料金割引などの特典を与えるという制度で、2人が経営する店も登録指定を受けていた。平成29年9月定例会の決算特別委員会で、私がその事実関係をただした結果、当時の消防本部の担当者は「恩典そのものが寄付行為に当たる」と法律違反を認め、登録を除外した事実を明らかにした。

 

 傍らのテレビは菅原一秀・経済産業相が同じ公職選挙法違反容疑の責任をとって辞任したというニュ-スを流し続けている。コンプライアンス(法令遵守)を鼻先でせせら笑うような愚劣な輩(やから)があちこちに生息している。「どの面(つら)さげて、自治体経営だと?!」―。この倒錯した光景はもう「悪夢」そのものでしかない。(コメント欄の「悪夢の光景」を参照)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

男やもめの…“ハシゴ映画”顛末記

  • 男やもめの…“ハシゴ映画”顛末記

 

 妻が先立って早や1年3カ月になろうとしている。その当日―「7月29日」は私の市議引退後の市議選の投開票日に当たっていた。連れ合いと生業(なりわい)を同時に失った私はもはや、“両翼”をもぎ取られた航空機も同然だった。真っ逆さまに墜落するしかないと思った。事実この間、墜落こそは辛うじて免れたものの、絶えず地上すれすれの低空飛行を続け、いまに至っている。死に損ないの情けない余生ではないか…。とそんなある日、「妻に先立たれ、夫は不眠に…」という新聞(10月12日付朝日新聞「患者を生きる」)の大見出しが目に飛び込んできた。その内容にドギマギした。ほぼ同世代の記事の主人公(81歳)はまるで、私自身の分身みたいだった。こんな苦闘の日々がつづられていた。

 

 「年中、話をしていた存在がいなくなってしまった。胃の調子が悪く、食べられないし、眠れないんです。朝、目が覚めて『おい』と声をかけても、隣にいるはずの妻はもういない。喪失感は大きかった」―。近所の内科で精神安定剤として出された抗不安薬をのむ日々が続いた。あるきっかけで「遺族外来」に足を運んだ。検査を終えた後、担当医師は「総合的にみると、うつ病ですね」と告げた。その医師によると、うつ病は全人口の3~7%の人がかかるとされ、家族の死別を経験した場合、1年後に15%の人がかかっているという調査もある。とくに、夫や妻といった「配偶者」を失うことは人生最大のストレスで、遺族外来を受診する40%がうつ病と診断されているという。

 

 こうした心身の反応を医学的には「悲嘆(グリ‐フ)」と呼ぶらしい。担当医は「組み上げた積み木の真ん中にあった『配偶者』という肝心なピ-スがなくなり、積み木が崩れた状態。回復にはその積み木をもう一度組み直していくプロセスが必要だ」と語っている。記事中の先輩やもめは訪問看護師のすすめでジム通いを始め、いまでは友人と海外旅行をするまでに元気になったらしいが、人の生き方は千差万別である。「そう簡単に問屋は卸してくれない」―経験者の私が言うのだから間違いない。グリ-フを乗り越え、生きがいや役割の再発見に至るまでには数カ月から数年かかるというデ-タもある。私も週に3回程度、ジムで汗を流しているがまだまだ、悪戦苦闘の真っ最中である。

 

 妻と死別した当初は新聞記者と市議会議員という「人間相手」の稼業からいきなり、真空地帯へと急降下させられような思いだった。無人の荒野…、かつての濃密すぎる人間関係にいっときは解放感を味わったものの、しばらくたつとまた「人恋し」さが募ってきた。手っ取り早いのが小説であるが、この年齢(79歳)になると、活字を追うのが若干、苦痛になる。と、またまたそんなある日、私はハタと膝を打った。「そうだ、映画があるじゃないか」―

 

 10月中旬のある日、私は隣町の映画館へと向かった。「万引き家族」でカンヌ映画祭最高賞の「パルムド-ル」を受賞した是枝裕和監督による初の日仏共同制作作品ー「真実」、ハリウッド映画のリメイク版「最高の人生の見つけ方」(犬童一心監督・脚本)、作家・太宰治をめぐる3人の女たちを描いた「人間失格」(蜷川実花監督)の豪華3作のハシゴを敢行したのである。生と死、愛と憎しみ…。いずれの作品も私好みの人間模様である。こんなぜいたくな映画三昧(ざんまい)は学生時代以来。上映時間は合わせて6時間を超すが、感情移入しているつかの間は、鬱鬱(うつうつ)たる“日常”から離陸できる貴重の時空間である。

 

 「戻らなくていいですよ、家庭に」、「愛されない妻より、ずっと恋される愛人でいたい」、「死にたいんです一緒に、ここで、今」、「壊しなさい、私たちを」、「傷ついた者だけが、美しいものを作り出すんだ」―。太宰の正妻・(津島)美知子と『斜陽』のモデルとなった愛人・(太田)静子、太宰を道連れに入水自殺を図った最後の愛人・(山崎)富栄…。目の前のスクリ-ンから3人の女たちの切ないセリフがもれ聞こえてくる。「人間は堕(お)ちる。生きているから堕ちる。なあ太宰、もっと堕ちろよ」―かたわらでは『堕落論』の親友、坂口安吾が絡んでいる。そんな太宰のデカダンス(虚無・退廃)に酔いしれていた時、とつぜん我に返った。

 

 「男やもめにゃ蛆(ウジ)がわき、女やもめにゃ花が咲く」―。老い先短い老残のわが身を振り返りながら、私は自虐(じぎゃく)じみた独り言をブツブツとつぶやいていた。「映画の主人公みたいな芸当はとてもできない小心者。この歳(とし)ではいまさら、寄り添ってくれるパ-ト-ナ-もいないだろうしな。”事実は小説(映画)よりも奇なり”…例の俚諺(りげん)もしょせん、私などには当てはまりそうにない。いっそのこと、先輩やもめに見習って、遺族外来とやらの世話になってみるとするか(モゴモゴ)」…………

 

 

 それにしても、太宰治ってちょっと、格好が良すぎるんじゃないのーー

 

 

 

(写真はハシゴ映画のひとつ「人間失格―太宰治と3人の女たち」のひとこま=インタ-ネット上に公開の写真から)