「(宮沢)賢治はスペイン風邪について、詳細なカルテ(病歴)を残していた。当時の記録が少ない中での貴重な医療史の一断面」―。コロナ禍をきっかけに賢治の看護記録が注目を集めている。スペインインフルエンザ(スペイン風邪)は1918年(大正7)年から3年間にわたって世界中で猛威を振るい、当時の世界人口の3割が感染。最大で4千5百万人が死亡し、日本でも約45万人が犠牲になった。たとえば、地元紙にはこんな記述がみられる。「盛岡市を襲った流行性感冒は、市内の各商店、工業を休業に追いやり、多数の児童の欠席を見たため、学校の休校を招いた。厨川(くりやかわ)小学校で2名の死者を出し、さらに罹患者2万を超ゆ…」(大正8年11月5~6日付「岩手日報」)
賢治の最愛の妹トシは日本女子大に在学中の大正7年末に体調を崩し、東京帝国大学医学部付属病院小石川分院(当時)に2ケ月余り入院した。母親イチと賢治はすぐに上京し、母親が一足先に帰郷した後も付きっきりで看病に当たった。当時、賢治は22歳、トシは19歳の大学3年生だった。賢治はこの間、トシの病状を書きつづった手紙を父親政次郎に送り続け、その数は45通に及んでいる。最初に疑われた「(腸)チフス」が否定され、スペイン風邪が病因だとする経過がその書簡から読み取ることができる。
●「今朝、無事着京致し候。昨日は朝38度夜39度少々、咽喉を害し候様に見え候」(大正7年12月27日付、トシの病状報告)
●「チブス菌は検出せられざりしも、熱型によれば全くチブスなり。気管支より上部に病状あること。則(すなわ)ち肺炎なること」(同年12月29日付、主治医の診断)
●「腸チブスの反応なく、先(まず)は腸チブスに非(あらざ)る事は明に相成り候。依(よっ)て熱の来る所は割合に頑固なるインフルエンザ、及び肺尖(はいせん=肺の上部)の浸潤によるものにて、今後心配なる事は肺炎を併発せざるやに御座候由…」(大正8年1月4日付、主治医の診断)
●「尚私共は病院より帰る際は予防衣をぬぎ、スプレ-にて消毒を受け帰宿後、塩剥(えんぽつ=塩素酸カリウム)にて咽喉を洗ひ候」(同日付の近況報告)
トシはその後帰郷して療養を続け、いったんは教職に就いたが約2年半後に「肺炎性結核」で病没した。賢治が後を追ったのはその10年後で、“不治の病”と言われた「急性肺炎」が死因とされている。賢治やトシが生きた時代は主治医が最初、“誤診”したように腸チフスがもうひとつの脅威だった。賢治の代表作『虔十(けんじゅう)公園林』の中にこんな一節がある。「さて虔十はその秋チブスにかかって死にました。平二も丁度その十日ばかり前にやっぱりその病気で死んでゐました」
「毒婦」「無垢の殺人者」…。賢治がトシの看病に当たっていたちょうどその頃、海を隔てた米ニュ-ヨ-ク・マンハッタンの沖合にある「隔離島」に、こんな汚名を着せられた若い女性が収容されていた。“チフスのメアリ-”と呼ばれた、腸チフスの無症候性キャリア(無症状患者)の「メアリ-・マロ-ン」(1869~1938)である。その数奇な人生をまとめた『病魔という悪の物語』(金森修著)によれば、料理人だったメアリ-は雇い主の家族など50人以上に感染させたとされている。公共の福祉(公衆衛生)か個人の自由か…賢治の”カルテ”にしろ、メアリ-の“病魔”にしろ、100年前の記憶はそのまま、いま現在のコロナ禍の困難を教えているような気がする。金森さんはこう書いている。「感染ゼロ県」の住人のひとりとして、身につまされる文章である。
「この生物学的な恐怖感が私たちの心の奥底に住み着き、いつその顔を現すかはわからないような状況が、人間社会の基本的条件なのだとするなら、未来の『チフスのメアリ-』を同定し、恐怖を覚え、隔離し、あざけり、貶(おとし)めるという構図は、いつ繰り返されてもおかしくはない。もし、あるとき、どこかで未来のメアリ-が出現するようなことがあったとしても、その人も、必ず、私たちと同じ夢や感情をかかえた普通の人間なのだということを、心の片隅で忘れないでいてほしい」
(写真はスペイン風邪の際、当時の内務省衛生局(現厚労省)が作成した啓発ポスタ-。「マスクをかけぬ命知らず」などと印刷されている=インタ-ネット上に公開の写真から)