HOME > ヒカリノミチ通信について

たったの11人…オンライン「新図書館意見交換会」

  • たったの11人…オンライン「新図書館意見交換会」

 

 「このテレワ-ク時代にたったの11人とは!?」―。コロナ禍で延期になっていた新花巻図書館に関する市民との意見交換会がオンライン形式で28日から始まった。ところが、午後6時半からのこの日の会議への参加者はわずか11人。しかも、WC(ワ-クショップ)などで顔なじみの“常連”がほとんどで、百年の計とも言われる「未来の図書館」への無関心ぶりが浮き彫りになった。意見交換会はこの後、31日(日)と2月6日(土)の2回予定されており、多くの人の参加が待たれる(いずれも午前10時から正午まで)

 

 市川清志・生涯学習部長の経過説明の後の質疑応答で、私は住宅付き図書館の駅前立地という市側の構想について、「場所の論議は残されているが、住宅付きという条件は白紙撤回されたという認識で良いのか」と念を押したのに対し、市川部長は「その通りだ」と答えた。その上に立って、私は①WSでのアンケ-ト調査でも「住宅付き」に賛成する人はひとりもいなかった。図書館のようなビッグプロジェクトを政策立案する際、最も重視されなければならないのが市民感覚。市民に一番近い現場職員が市民目線に鈍感ではなかったか、②この構想が打ち出された昨年はコロナ禍に振りまわされた1年だった。その中で、中心市街地活性化や定住促進などまちなかの「賑わい」創出に主眼を置いた当該構想自体が変更を迫られたのではないか。そうした観点からの議論は部内でなされたのか―などについてただした。(「上田」(東一市長)強権支配(=つまりはパワハラ)に屈したのか、と聞きたかったのが本音だったのだが、何となく第一線の苦渋を思いぱかって、言葉を飲み込んだ)

 

 これに対し、市川部長は言葉を選びながら、こう答えた。「市民の感覚を予想できなかったという指摘は謙虚に受け止めたい。ただ、当時は人口減少問題が喫緊の中で、賑わい創出も将来のまちづくりを考えるうえで避けては通ることのできない課題だった。しかし、現下のコロナ禍の中では従来の図書館のあり方が再検討を迫られているのも事実。今後の計画づくりではデジタル化の模索などを積極的に進めていきたい」―。

 

 それにしても、地球規模でのアクセスが可能な文明の利器を手に入れたにしては「11人」とは余りにも少な過ぎはしないか。私にとってのこの日の最大の謎は実は、この数字であった。コロナ神の”悪だくみ”なのか、この世の民人は上から下まで右から左まで、みんな催眠術にでもかかったみたいに「思考停止」に陥っているんじゃないのかなぁ。いや~、他人ごとじゃなくって……

 

 

 

(写真は質疑応答に臨んだ市川部長。パソコンの右端には11人の参加者の名前が淋しく並んでいた=1月28日午後8時ごろ、自室のパソコン画面から)

 

第2回「図書館と私」オンライン講演会…不具合をお詫び

  • 第2回「図書館と私」オンライン講演会…不具合をお詫び

 

 「図書館のあり方をみんなで考えよう」―。「新花巻図書館―まるごと市民会議」主催の第2回「図書館と私」オンライン講演会が24日開かれ、当会発起人のひとりで、絵本専門士の牧野幹さん(66)が「本からのおくりもの」と題して豊富な読書体験や読み聞かせの実践を通じた“図書館論”を披露した。

 

 ところが…。「幼少時、『青い鳥』(メ-テルリンク)や『8人のいとこ』(オルコット)などに夢中になり、想像と妄想の世界をさまよい歩いた。最初に本屋で買った本は全5巻の『少年少女のための次郎物語』。あの時の感動は」―と順調に滑り出した講演の音声が約10分後に突然、聞こえなくなるというアクシデントに見舞われた。その後、修復を試みたが、最後まで音声が乱れてしまった。思わぬ形で文明の利器の危うさを思い知らされた。オンライン参加ややサテライト会場「賢治の広場」に集まっていただいた30数人の皆さまに今回の不具合をお詫びします。

 

 牧野さんは花巻市生まれ。岩手大学教育学部を卒業後、県内の小学校に勤務。退職後、平成27年に読書推進団体「こども広場・マグノリア」を設立。翌年、絵本専門士として認定された。現在、県内を中心に子どもから高齢者まで幅広い年代を対象に読み聞かせや絵本の紹介する一方、「賢治の広場」を中心に賢治作品を織り込んだおはなし会を3カ月ごとに開催している。こうした「読書人生」の後半部分を十分にお伝えできなかったため、講演内容を別の形で告知したいと考えます。ご理解のほどよろしくお願い申し上げます(文責:「まるごと市民会議」事務局長、増子義久)

 

 「禍福は糾(あざな)える縄の如し」―。ズルシャモ(ずる賢い私のこと)はこんな時、実はこの言葉を反芻し、一切反省しないことにしている。逆にコロナの“正体”を知る良い機会になったかも……。人間界をこれほどまでに翻弄するGOD(神)とは!?

 

 

 

(写真はオンラインで講演する牧野さん。ぐいぐいと引き込まれて行ったのだったが…=パソコンの画面から)

 

「小町さゆり」さんって、もしかしてコロナ禍の“救世主”!?

  • 「小町さゆり」さんって、もしかしてコロナ禍の“救世主”!?

 

 「10,269」という数字を見て、目が点になった。17日付当ブログ「“人生図書館”…『お探し物は図書室まで』」(青山美智子著)に対する翌18日1日だけのアクセス件数である。ブログを開設して10年以上になるが、こんなけた外れの数字はもちろん初めてである。パソコンのカウントミスではないかと思ったが、待てよ…。羊毛フェルトが趣味の主人公、司書の「小町さゆり」さんがさりげなく差し出す「想定外本」と本の付録と称するお手製の羊毛フェルト、そしてさゆりさんが仲介役となって、あちこちとつながる人間模様―ひょっとして、人と人の分断が広がるコロナ禍のいま、人々が一番求めていたその人こそが、“小町さゆり”という「人格」ではなかったのか。そう思うとストンときた。

 

 本書には様々な職種の男女5人が登場する。「さゆりさんって、どんな人?」―。以下、前掲ブログに登場した「正雄」を除いた4人の目に映った「さゆり」像や本のリスト、各人にプレゼントされ本の付録の数々を紹介したい。「縁(えにし)の妙」といったらいいのか、こんな人がそばにいたら、コロナも豪雪もつかの間、忘れることができそうな気がする。私自身の趣味で言えば、さゆりさんこそが「コロナ女神」ということになる。選書に関してはプロだから当然のこととして、ではなぜ羊毛フェルトなのか。さゆりさんは涼し気な顔でこうのたまう。

 

 「てきとう。カッコいい言い方をするなら、インスピレ-ション。それがあなたをどこかと通じさせることができたのなら、それはよかった。とても、よかったです」―。私が歩行器を押す86歳の入所者の老婦人にも羊毛フェルトを伝授しようっと。猫好きなばあちゃんはきっと、羊毛から猫を誕生させるはずである。

 

<朋香 21歳 婦人服販売員>

 

 「ものすごく…ものすごく、大きな女の人だった。太っているというより、大きいのだ。顎と首の境がなく色白で、ベ-ジュのエプロンの上にオフホワイトのざっくりしたカ-ディガンを着ている。その姿は穴で冬ごもりしている白熊を思わせた。ひっつめられた髪の頭の上には、ちょこんと小さなおだんご。そこにはかんざしが一本挿してあり、先には上品な白い花飾りの房が三本揺れていた」

 

・エクセル習得の相談に訪れた朋香に示された想定外は『ぐりとぐら』。付録はフライパンの形をした羊毛フェルト

 

<諒 35歳 家具メ-カ-経理部>

 

 「そこに座っていたのは、とてつもなく大きな女の人だった。はちきれそうな体の上に、顎のない頭が載っている。ベ-ジュのエプロンに、目の粗いアイボリ-のカ-ディガン。肌も白く服も白く、『ゴ-ストバスタ-ズ』に出てくるマシュマロンみたいだ」

 

・アンティ-クの雑貨店の開業を目指す諒が目を真ん丸にした想定外は『英国王立園芸協会とたのしむ 植物の不思議』。付録は毛糸玉みたいな猫。茶色い体に黒い縞(しま)。横たわって眠るキジトラ猫

 

<夏美 49歳 元雑誌編集者>

 

 「カウンタ-の中に、白くて大きな女の人がいた。年齢はよくわからないけど五十歳ぐらいか。特注なのか、海外のビッグサイズなのか、着ている白い長袖シャツはおそらくそのあたりで普通に売ってはいないだろう。アイボリ-のエプロンをかけ、ぱんと張った肌もシミひとつなく真っ白で、なんというかディズニ-アニメの『ベイマックス』みたいだった」

 

・絵本を求めていた夏美の目の前に現れた想定外は星占いの『月のとびら』。付録はころんと丸い、羊毛フェルト。青い球体に、緑色や黄色のまだらの模様がある。地球?

 

<浩弥 30歳 ニ-ト>

 

 「あらためて見ると、たしかに胸元に『小町さゆり』のネ-ムホルダ-があった。小町さんは一心不乱に手を動かしている。近づいてのぞきこむと、やはり、小さなぬいぐるみらしきものを作っているようだった。四角いスポンジの上で、丸めた毛玉に細い針をぐさぐさ刺し続けている」

 

・デザイナ-志望の浩弥が面食らった想定外は『進化の記録 ダ-ウィンたちの見た世界』。付録はグレ-のボディに白い翼。緑色の尾がおしゃれな小さな飛行機

 

 

<著者の正体>~青山美智子さん(51)って、どんな人!?

 

 千葉県育ちで愛知県出身。大学卒業後、オ-ストラリアへ渡る。シドニ-の日系新聞社で記者として2年勤務ののち、上京。雑誌編集者を経て執筆活動に入る。現在、神奈川県横浜市在住。夫・息子と3人暮らし。2017年年8月、単行本『木曜日にはココアを』(宝島社)で小説家デビュ-。同作品は、同年12月に第1回未来屋小説大賞受賞。収録作の第2章「きまじめな卵焼き」は、2018年年開成中学入試で国語の長文問題として出題された。小説家を目指したきっかけは、中学生のときに氷室冴子の『シンデレラ迷宮』を読んでから。主要作品に『猫のお告げは木の下で』、『ただいま神様当番』など(ウキペディア)

 

 

 

(写真はお子さんとくつろぐ素顔の青山さん=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

“人生図書館”…『お探し物は図書室まで』

  • “人生図書館”…『お探し物は図書室まで』

 

 「お探し物は、本ですか?仕事ですか?人生ですか?」―。こんなキャッチコピ-に引かれて、さっそく取り寄せたのがこの本…『お探し物は図書室まで』(青山美智子著)。昨年秋、有志と一緒に「新花巻図書館―まるごと市民会議」を立ち上げて以来、この種の関連本にはアンテナが敏感になっている。「人生に悩む人々が、ふとしたきっかけで訪れた町の小さな図書室。悩む人々の背中を、不愛想だけど聞き上手な司書さんが、思いもよらない本のセレクトと可愛い付録で、後押しします。明日への活力が満ちていくハ-トウォ-ミング小説」という宣伝文に、ウンウンとうなづきながら一気に読み終えた。

 

 「朋香 21歳 婦人服販売員」、「諒 35歳 家具メ-カ-経理部」、「夏美 40歳 元雑誌編集者」、「浩弥 30歳 ニ-ト」、「正雄 65歳 定年退職」…多彩な人生模様がたとえば、コミハ(コミュニテイハウス)に隣接するちっぽけな図書室を舞台にあっちへこっちへと急転換する。その演出を司(つかさど)るのは羊毛フェルトが趣味の司書の「小町さゆり」さん。可愛らしい名前とは裏腹に大柄なさゆりさんは「正月に神社で飾られる巨大な鏡餅」(本文)のような体をレファランスコ-ナ-に沈め、つんつんと毛玉を針で刺し続けている。

 

 毎日が日曜日になってしまい、“熟年離婚”の危機も意識せざるを得ない正雄に対し、妻は「囲碁でも習ったら…」と若干の嫌味を込めてつぶやく。こんな過去を遠い昔に通過した私自身にも身に覚えのある“蜂の一刺し”である。おずおずとさゆりさんのもとを訪れた正雄は手渡されたセレクト本の一覧をみて、驚いた。『げんげと蛙』…、囲碁関連の数冊の本の最後にこんなタイトルの詩集がリストアップされているではないか。草野心平の作品だとは知っていたが、どうして定年退職者の私に!?そしてそっと、手渡されたのは何とカニの羊毛フェルト!?。一体、どうなってるの?作品を渉猟(しょうりょう)するうちに、正雄は「窓」と題するもうひとつの不思議な詩に遭遇する。ネタバレになるので、これ以上のたねあかしは控えるが、社会の内と外とを隔てる「窓」という存在を考えながら、正雄の想像力は際限なく、広がって行く。詩はこんな書き出しで始まる。

 

 

波はよせ
波はかへし
波は古びた石垣をなめ
陽の照らないこの入江に
波はよせ
波はかへし
下駄や藁屑(わらくず)や
油のすぢ

(詩集「絶景」より)

 

 「図書館だと、本が好きな人が探しに来るという話になってしまうなと思って。何か違う目的で訪れた人が成り行きで導かれて、たまたま本と出会えるのはいいなと思い、図書室という設定にしたんです」―。著者の青山さんはインタビュ-でこう語り、こんな風に続ける。「コロナで一番変わったのは、仕事のあり方だと私は思っています。安定した仕事なんてないとか、何かを失ったように見えても本当に大切なものをなくしたわけじゃないとか、コロナの中で私は感じました。逆に、どんな状況になっても、変わらないものもあって、それをもう一度見つめ直したい。変化して対応しなければならないこと、普遍的で変わらないこと、その二つを考えながら書きました」

 

 ベストセラ-作家として知られるス-ザン・オ-リアンの著書『炎の中の図書館―110万冊を焼いた大火』の中で、アフリカのセネガルでは誰かが亡くなると、「図書館が燃えた」と表現するということを教えられた。記憶とか背負わされた個の歴史とか…人間の全存在が「図書館」そのものだということなのかもしれない。だとするならば、わが老人コミュニティ-こそが「人生の交差点」―、つまり「人生図書館」そのものにふさわしいのではないか。コロナ禍で悩んでいる世迷い人たちよ、来たれ、わが“人生図書館”へ――。そこには人生の羅針盤や困ったときの“お守り”がいっぱい詰まっているはず…そう思うと少し、元気が出てきた。

 

 25年前の今日17日、阪神・淡路大震災が発生した。そして、約2ケ月後には東日本大震災(3・11)から丸10年を迎える。コロナ禍の陰に隠されるように、この二つの大災厄の記憶は忘却の彼方に葬り去られたかのようである。

 

 

 

(写真は人気沸騰の『お探し物は図書館まで』)


 
 

「老老」日記…老人コミュニティーと“自己責任”

  • 「老老」日記…老人コミュニティーと“自己責任”

 

 「花っこがあれば、やっぱりにぎやがだな」―。「きれいだな」という言葉を期待していた私は一瞬、拍子抜けしてしまった。窓の外では途切れることのない雪がしんしんと降り積み、目の前のテレビはコロナばかり。「憂鬱(ゆううつ)は花を忘れし病気なり」と詠んだ「植物学の父」・牧野富太郎の生地、高知県佐川町が“植物のまちづくり”を手がけている(1月8日付当ブログ「首長の“通信簿”の雲泥の差!?」参照)という事実に「そうか、こんな時こそ、花か」とハタと心づいたまでは良かったが…

 

 私が“Yばあちゃん”と呼ぶ86歳の老婦人の歩行器の介添えが日課みたいになっていたある日、「世の中なして、こんたに住みにぐぐなったんだべな…。おら一日中、独りぼっちだす」とポツリともらした。さっそく、スーパ-に走り、野菊の束を買ってきた。ぺたんと床に腰を下ろし花をそろえながら、ボソボソとつぶやいている。「なあ、にぎやがになったべ。色っぺもちょうどいいな。おらな、猫っ子も大好きだ。むがす、10匹以上飼っていだごどがある。子猫が死ぬたんびにお墓をつぐって、毎日手をあわせだもんだ。おらは猫に守られでいるがら、長生ぎしてるんだな」―。部屋に2種類の猫のカレンダ-がつるしてあった。方言使いの名手でもあるばあちゃんの“孤独”の底がすこし、見えたような気がした。

 

 「高齢者住宅 情報開示拡大/廃業増 退去迫られたケ-スも」―。こんな大見出しの記事が今月4日付「読売新聞」に載った。「高齢者住まい法」に基づいて2011年度に制度化された民間賃貸住宅「サ-ビス付き高齢者向け住宅」(サ高住)の苦境を伝える記事だった。「自立・自活」ができる“元気老人”を受け入れるのが原則だが、コロナの影響もあって定員不足から倒産や廃業に追い込まれるケ-スが後を絶たない。全国のサ高住で暮らす高齢者の約3割は要介護3以上が占めるというデ-タもある。私が入所している施設でも定員30人のうち、まだ3分の2が空室のまま。入所者の動揺はこんな末端にまで広がりつつある。

 

 とそんなある日、歩行器を押して食堂に向かおうとしたところ、「すみませんが、その介添えは職員の私たちに任せてください。何かあったら、困るんです…」―。前後して、施設側との懇談会があり、トップがこう言ってのけた。「自立・自活を建前とする施設である以上、施設側に明らかな過失が認められない限り、基本的には自己責任ということになる」―。あまりにも杓子定規な受け答えにビックリ。切って捨てるような、あの言葉が老人コミュニティ-の現場にまで浸透していることにゾッとした。

 

 昨年12月21日午前2時32分―、岩手県を震度5弱の地震が襲った。私はベッドから飛び起き、夜勤の男性と一緒に入所者の安否を確認して回った。我がばあちゃんはこの大き揺れにも気づかず、爆睡していた。さ~すが。幸い大事には至らなかったが、この期(ご)に及んでもなお「自己責任」を強弁する、その心性に正直怖気(おじけ)づいてしまったという次第である。「(サ高住が)“健康老人”だけでなく、要介護者の受け皿にならざる得ない状況を理解した上で、だからこそ施設側と入所者が互いに支え合っていくことこそが、このコロナ時代の新しいコミュニケ-ションの手法ではないのか」―。こんな私の訴えはいまのところ、施設側に届きそうな気配はない(1月4日付当ブログ「コロナ禍の老人コミュニティー」参照)

 

 「自己責任」を押しつけるというのであれば、やってみようじゃないか。私は耳の不自由な女性の入所者にお願いして、簡単な「手話講座」を開いたり、お年寄りたちを集めてトランプのババ抜きに興じるなどこの施設ならではの“新しい生活様式”を模索しようと考えている。ばあちゃんの介添え役を返上しようという気持ちはさらさらない。万が一の事態が発生したら、それは私自身の「自己責任」―それで結構じゃないか。「花っこあれば、やっぱりにぎやがだな」というその笑顔を施設全体に広げたいと願う。ちょっと、思考がアベコベになりつつあるばあちゃんが最近、「おめはわれの息子みでだな」とモゴモゴと口走った。当年とって80歳の“息子”だが、おふくろを見捨てるわけにはいくまい。

 

 利害を超えて、互いが支え合った「東日本大震災」(3・11)からもうすぐ、10年になる。コロナ禍の中で、あの「行ツテ」精神(宮沢賢治の詩「雨ニモマケズ」…「見て見ぬふりはできない」という”互助”の精神はどこかに消えてしまい、いままた分断と憎悪が日本中に渦巻いている。

 

 人類と感染症の歴史に詳しい長崎大熱帯医学研究所の山本太郎教授は「感染症と生きるには」と題するインタビュ-で、こう語っている。私はいま自身が身を置く足元の小宇宙にこそ、その萌芽があると信じている。「『3密避けろ』『大声で話すな』と、人との距離を保つことが求められますが、新たな近接性を模索していくことも必要だと思います。物理的な接触は減っても、共感を育める近接性のある社会です。そうした共感がヒト社会をつくってきたのですから」(1月15日付「朝日新聞」)

 

 

 

 

 

(写真は野菊をコップにいけるYばあちゃん=花巻市内のサ高住で)