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”平和”五輪の閉幕と「星めぐりの歌」…イ-ハト-ブは一体、どこへ!?

  • ”平和”五輪の閉幕と「星めぐりの歌」…イ-ハト-ブは一体、どこへ!?

 

 「不吉な予感が的中した」―。東京五輪の閉会式のクライマックスシ-ンに女優の大竹しのぶさんが登場。郷土の詩人で童話作家の宮沢賢治が作詞作曲した「星めぐりの歌」を少年少女たちと一緒に歌う場面を見ながら、何かざわッとしたものを感じた。「あかいめだまのさそり/ひろげた鷲(わし)のつばさ」…。「次世代への継承と平和への祈り」を込めたという意図が今回の祝祭のフィナ-レに果たして、ふさわしいものだったのか。毎日、“時報”代わりにこの歌を聞かされている花巻市民のひとりとして、「時代」に利用されてきた賢治の危うさを嗅ぎ取ったからである。

 

 私はコロナ禍の中で強行された今回の“五輪狂騒曲”について、前回の当ブログで「戦争は平和である」というオ-ウェル流の逆説(二重語法)を援用しながら、その全体主義化の危険性を指摘したつもりである。実は足元でもその兆候を感じていた。地元出身の五輪選手がまるで先の大戦で出征兵士が戦場に送り出されるような時代がかった光景にまず、胸騒ぎを覚えた。やがて、その選手を激励する懸垂幕が市庁舎に吊るされ、そして競技終了後に「応援ありがとうございました」と市のHP上に掲載されるに至って、私は「待てよ。これって例の大政翼賛会の現代版ではないのか」と背中に戦慄が走るのを感じた。

 

 賢治の詩「雨ニモマケズ…」はその作品の中でも一番、人口に膾炙(かいしゃ)した詩編である。しかし、この詩が昭和17年、戦争遂行のために組織された「大政翼賛会」の編集になる『詩歌翼賛』の中に収録され、当時の農村労働力の収奪に利用されたという事実はあまり知られていない。また、戦後の学制改革に伴い、中学用の国語の教科書に採用する際には「1日ニ玄米四合ト、味噌ト少シノ、野菜ヲタベ」という部分が「玄米三合」に書き換えられた。戦後の食糧難の中で「耐乏生活」を強いるためのスロ-ガンとして、喧伝されたのだったが、広島原爆の悲惨を描いた井伏鱒二の代表作『黒い雨』(最近の「黒い雨」裁判で勝訴)にこんなくだりがある。「1日に四合というのを、三合と書きかえるのは、曲学阿世の徒のすることです」

 

 没後88年―。まさか亡霊のような形でおのれがよみがえったことに賢治自身が面食らっているのではないか。ただ、「時代」に利用されやすいということは同時にその作品自体が持ち合わせる弱さでもある。星座を指さしながら、可憐な歌声を披露する少年少女たちの姿を見ながら、私は賢治の有名な警句―「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(『農民芸術概論綱要序論』を思い出していた。銀河宇宙という広大無辺の世界こそが賢治作品が躍動する舞台にふさわしい。と同時に、この言葉は一歩間違えば「個」を「全体」へと誘導しかねない“諸刃の剣”でもある。私が敬愛する地元の詩人に「この広さなら」と題する詩がある。

 

 

世界がひとつになるにつれて

ひとりで決めることは

隣の人を殺すことになり

みんなで決めることは

ひとりひとりを殺すことになり

それだから

愛に満ちた世界を求めることは

愚かなことになってしまったのだ

……

一滴の滴にも宇宙(コスモス)がある

抱え込める世界はせいぜい

雑木林や沼のちっぽけな広さなのだ

この広さなら隅々まで見渡して

ひとりも殺さずに決めることができる

 

 

 閉会式を横目でチラチラ眺めながら、私は「生と死」ということを考え続けた。そして、思った。「この祝祭はコロナ禍をおおい隠すために仕組まれた、“五輪ファシズム”ではなかったのか」―と。賢治はわが郷土を「イ-ハト-ブ」と名づけ、代表作『注文の多い料理店』(広告チラシ)にこう書いた。「イ-ハトヴとは一つの地名である。強て、その地点を求むるならば、大小クラウスたちの耕していた、野原や、少女アリスが辿った鏡の国と同じ世界の中、テパ-ンタール砂漠の遥かな北東、イヴン王国の遠い東と考えられる。実にこれは、著者の心象中に、この様な状景をもって実在したドリ-ムランドとしての日本岩手県である」―

 

 「賢治を利用するのはもう、やめにしてほしい」と遅ればせながらの賢治ファンである私は心からそう願わずにはいられない。37歳での夭逝(ようせい)はやはり、早すぎはしなかったか。約100年前、全世界を恐怖のどん底に陥れたスペイン風邪…実は賢治の妹トシもこの感染症に罹患したと言われる。遠く時を隔ててもなお、”時代”に翻弄(ほんろう)される賢治が銀河の彼方で目を白黒させている姿が目に浮かんでくる。何とも皮肉なことにいま、この「夢の国」に君臨するのは「Mr.PO」(パワハラ&ワンマン)とも称される”独裁者”である。「イーハトーブ」がファシスト国家に取って代わられると考えるのは果たして、悲観主義者の杞憂(きゆう)にすぎないのだろうか。

 

 

 

(写真は聖火が消されるクライマックスに登場した「星めぐりの歌」=8月8日夜、オリンピックの閉会式が行われた国立競技場で=インタ-ネット上に公開された写真から)

 

 

 

 

《追記》~「だまされる側」の責任

 

 前回の当ブログで映画監督、伊丹万作の「戦争責任者の問題」を引用したが、その前段に「だまされる側」の責任に言及した部分がある。今回の“五輪狂騒曲”における「戦争から平和」へのベクトルと余りにも似通っているので、その部分を以下に転載する。

 

 「さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知っている範囲ではおれがだましたのだといった人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなってくる。多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はっきりしていると思っているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思っているが、軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらにもっと上のほうからだまされたというにきまっている。すると、最後にはたった一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない」

 

 「すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かったにちがいないのである。しかもそれは、『だまし』の専門家と『だまされ』の専門家とに劃然と分れていたわけではなく、いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になって互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う」

 

『きみが死んだあとで』…“戦争”と“平和”の狭間にて、そして「兵どもが夢の跡」

  • 『きみが死んだあとで』…“戦争”と“平和”の狭間にて、そして「兵どもが夢の跡」

 

 「戦争は平和である」(WAR-IS-PEACE)―。“五輪狂騒曲”を横目で見ていたら、ふいに英国の作家、ジョ-ジ・オ-ウェルが代表作『1984』の中で暗示したダブルスピ-ク(二重語法)の光景が二重写しになった。コロナ“戦争”が拡大の一途をたどる中、復興をかなぐり捨てて強行された“平和”の祭典・東京五輪がやっと閉幕した。矛盾した二つの意味を同時に表現し、国家の意図通りに世論を操作するこの語法…そう、オ-ウェルが全体主義を予言した近未来のディストピア小説が不幸にも目の前で現出するという歴史的な瞬間を私たちは忘れてはなるまい。

 

 「18歳のきみが死んだあとで、彼らはいかに生きたか。きみの存在は、彼らをいかに生きさせたか。ある時代に激しい青春を送った彼ら=団塊の世代の『記憶』の井戸を掘る旅…」―。ドキュメンタリ-映画「きみが死んだあとで」(2021年4月公開)は映画監督、代島治彦さん(63)さんのこんな思いが結集した作品である。54年前の1967年10月8日、ベトナム反戦を訴えるデモの中で、当時京都大学1年生だった山崎博昭さんが機動隊とのもみ合いの末に命を落とした。芥川賞作家の三田誠広や詩人の佐々木幹朗、物理学者で元東大全共闘議長の山本義隆…。山崎さんが在籍した大阪府立大手前高校の同窓や先輩など14人にインタビュ-を重ねた。今年4月に上下巻3時間20分の映画にまとめ、その後に同じタイトルで書籍化された。

 

 「戦争から平和へ」―。まるで何事もなかったように不気味な静けさの中で進行する時代の変貌のただ中にあって、代島さんはなぜ、記憶の忘却に抗(あらが)ってまで、その記憶を再生しようとしたのか。私はオリンピックの喧騒に耳をふさぎながら、満を持すような気持ちで400ペ-ジを超す大著を開いた。もう30年近くも前になるが、代島さんが総合プロデュ-サ-を務めた第1作は沖縄戦の悲劇を下敷きにしたオムニバス映画「パイナップル・ツア-ズ」(1992年)。沖縄の離島を舞台に繰り広げられる珍騒動をコミカルに描いた内容で、日本映画監督協会新人賞を受賞した。旧知の仲だった私は制作に同行取材し、チョイ役ながら“出演”の栄誉にも浴した。しかし以来、ずっと音信が途絶えたままだった。

 

 「古い『記憶』をちゃんと埋葬する。埋葬された過去の『記憶』の土壌から未来の『記憶』の種子ができて、古い『記憶』が新しい『記憶』に新陳代謝する」―。『きみが死んだあとで』(晶文社)はこんな書き出しで始まっていた。「記憶を忘却の彼方に打ち捨てるのではなく、ねんごろに『埋葬』する」…「パイナップル・ツア-ズ」を貫いた精神こそが映画つくりの原点であったことを改めて思い知らされた。14人の青春を追いながら、文中には代島さんの個人史「ぼくの話」8話が挿入されている。私はむしろ、「歴史の記憶」に同伴する覚え書き風なこのメモに興味を引かれた。たとえば、こんな「ぼくの話」―

 

 「『きみが死んだあとで』は「記憶」たどる映画である。「記憶」を「記録」すると、それは「記憶」ではなく「記録」になってしまうのだろうか。僕は「憶」を大事にしたい。「憶」=①おぼえる。忘れない。②おもう。おもいだす。③おしはかる。「記録映画」ではなく「記憶映画」。人生とは「記憶」そのものである、と言い切ってしまってもいい」(第2話)、「もしもぼくが団塊の世代に生まれたとしたら、どんな青春を送っただろうか。もしもぼくが1967年10月8日に羽田・弁天橋で死んだ18歳の若者の友だちだったとしたら、どんな人生を歩んだだろうか」(第4話、映画冒頭の字幕)

 

 映画の冒頭、雨の中で山崎さんの遺影を顔面に掲げた代島さんの姿がクロ-ズアップされる。「記憶の新陳代謝」を繰り返してきた、いまなお18歳のままの代島さんと故人となった山崎さんがまるで一心同体然として、そこに立っていた。そういえば、代島さんは「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」(『ノルウエイの森』)という同世代の作家、村上春樹のこの言葉を座右の銘にしていると、本のどこかに書いていた。

 

 6日(広島原爆)・9日(長崎原爆)・15日(敗戦)…また、「記憶と祈り」の8月がめぐってきた。コロナ禍の中での“五輪狂騒曲”の陰にかすんで、その輪郭はまるで漂白されたかのように定かではない。足元ではコロナ感染者が日々、最多を更新し続け、永田町界隈からは「コロナの政治利用」などという不届きなつぶやきがもれ聞こえてくる。戦前、知性派の映画監督として知られた伊丹万作のあの有名な檄「戦争責任者の問題」(昭和21年8月)の一節が耳の奥で激しくこだました。

 

 「つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになってしまっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。…『だまされていた』といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによってだまされ始めているにちがいないのである」

 

 

 

(写真は映画のポスタ-を掲げる代島さん=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

 

《追記》~あぁ、あぁ…!?

 

 広島への原爆投下から76年を迎えた8月6日、わが宰相・菅義偉首相が平和祈念式典でのあいさつの中で、棒読み原稿の一部を読み飛ばしたうえ、原爆を「ゲンパツ」と言い間違い、慌てて訂正するという”事件”が発生した。「その程度の輩(やから)にだまされる。そう、だまされるお前らの方が大バカもんだよ」―。草葉の陰から伊丹万作の叱声が聞こえてきた。以下にその顛末原稿(カッコ内の赤字部分が読み飛ばし個所。まるで意味不明)。被爆国日本からの重要なメッセ-ジをスル-してしまうなんて、あぁ、もう本当に「スカ、スカ」…

 

 「『ヒロシマ、ナガサキが繰り返されてはならない。この決意を胸に、日本は非核三原則を堅持しつつ、核兵器のない(世界の実現に向けて力を尽くします』と世界に発信しました。我が国は、核兵器の非人道性をどの国よりもよく理解する唯一の戦争被爆国であり、『核兵器のない世界』の実現に向けた努力を着実に積み重ねていくことが重要です。近年の国際的な安全保障環境は厳しく)核軍縮の進め方をめぐっては、各国の立場に隔たりがあります」ー。この日、広島市など地元関係者は五輪選手などへの黙とうを呼びかけたにもかかわらず、IOC(国際オリンピック委員会)はこれを拒否、“平和”の祭典の正体をさらけ出した。同じ穴のムジナ…

 

 

 

 

「駅橋上化(こ線橋)」今昔物語…“花巻魂”はどこに!?ふたたび、「時空間と記憶」について。そして、村ちゃんとの邂逅(かいこう)

  • 「駅橋上化(こ線橋)」今昔物語…“花巻魂”はどこに!?ふたたび、「時空間と記憶」について。そして、村ちゃんとの邂逅(かいこう)

 

 「馬面(づら)」「マッチ箱」「ハ-モニカ」「ドジョウ」「お見合い」…。その姿かたちからこんな愛称で呼ばれた旧花巻電鉄の廃線跡を数日間、汗だくになりながらほっつき歩いた。コロナ禍の猛暑の中、一体どうして?Mr.PO(上田東一市長)が将来見通しも明らかにしないまま、がむしゃらに進める「JR花巻駅の東西自由通路(橋上化)」のナゾを考えていたそんな時、花巻市博物館で開催中の企画展「鉄道と花巻―近代のクロスロ-ド」に足を運ぶ機会があった。「東北本線を跨(また)ぐために岩手県で初めての跨(こ)線橋が…」―。パネルの説明に足がくぎつけになった。橋上化の第1号が足元にあったとは!?

 

 花巻電鉄(当時)が運営する「鉛線」(総延長約18キロ)は大正4(1915)年、東北初の路面併用電車としてまず「西公園―松原」間が部分開通し、10年後の大正14年に「花巻―西鉛温泉」の全線が電化された。この同じ年に遅れて整備された「花巻温泉線」(総延長約9キロ)も開通した。電車敷設のきっかけは余剰電力の有効利用だった。まちを貫流する豊沢川の水力を利用して、花巻に灯りがともったのは大正元年。当時、東北本線を利用した湯治客が遠方からも訪れるようになり、「観光客誘致」に白羽の矢が立ったのが“電車”という当時としては珍しい文明の利器だった。

 

 「トテ馬車」―。全線が電化されるまでは「志戸平温泉」が近代と前近代との分岐点だった。電車に乗ってきた乗客は馬車へ、馬車に乗ってきた乗客は電車へ。近くの鉱山から払い下げを受けた馬車鉄道への乗換駅がここだった。10人乗り程度の箱の下に車輪をつけ、御者が馬にムチを当てる。馬はレ-ルの中をパカパカと走り出す。発着の合図に「トテ、トテ」とラッパを吹いたことから、こう呼ばれるようになった。「じゃまだ。どけろ」(運転手)、「いやあ、馬が言うことをきかない」(御者)…。『写真集 栄光の軌道/花巻電鉄』(花巻電鉄OB会刊)は、“近代”と“前近代”の「相克」をクスッと笑いたくなるような巧みな描写で紹介している。

 

 「東北本線をまたぐこ線橋(橋上)の上を馬面電車がコトコトと走っている」―。なぜなのか、この何となくマンガめいていて、心が浮き立つような光景がイメ-ジとしてわいてこない。「鉛線」は昭和44(1968)年8月、「花巻温泉線」は同47年2月に廃止となったが、それまでは私にとっては重要な「足」だった。実際、自宅のそばにあった「鉛線」西公園駅は大沢温泉の露天風呂や鉛温泉スキ-場に向かうための欠かせない乗降駅だった。なのにどうして、こ線橋の光景が欠落してしまったのか…。

 

 「岩花線」(軽便花巻~中央花巻~吹張~西花巻)―。企画展で初めて聞く線名に出会った。大正7(1918)年、岩手軽便鉄道(現釜石線)の花巻駅と西花巻駅をつないだ新線で、現在の材木町(花巻税務署付近)に新駅「西花巻駅」を開設。「電気会社がいまさら、馬車鉄道でもあるまい」と線路の上に橋を渡し、その上を電車を走らせるという“英断”に至った経緯に合点がいった。その後、昭和40(1965)年、東北本線の複線化によって、存続は断念させられたが、当時のこ線橋はいまも車道と歩道として利用されている。「元のまちがそっくり消えてしまえば、ずっと住んでいたこの場所でも“迷子”になってしまうことがある」―。沿岸被災者がふと、つぶやいた言葉を思い出した。「たぶん、ここだよな。馬面が走っていたのは…」。私は滝のような汗をそのままにしながら、歩道を何度も行ったり来たりした。

 

 歴史をさかのぼれば、明治23(1890)年、地元の豪商・伊藤儀兵衛(1848―1923年)が東北本線「花巻駅」開業に当たって、駅前用地を無償で提供したのが当市発展のいしずえとなった。東北初の「鉛線」を実現させたのも由緒ある温泉郷に人を呼び込むことによって、まちを繁栄させたいという地元商人たちの気概だったかもしれない。坂道にさしかかれば乗客が総出で電車の尻を押し、雪が降れば沿線住民がスコップ片手に除雪にかけつける…。毀誉褒貶(きよほうへん)があるものの、かつて「花巻魂」と呼ばれるものがあったとすれば、それがまったく感じられないのがMr.POの「JR花巻駅の東西自由通路(橋上化)」問題であろうか。

 

 Mr.POが「(橋上化に伴う)将来ビジョンを描くことは逆に“絵にかいたモチ”になる」とうそぶき、一方の商工関係者らは“やらせ要請”のお先棒を担ぐようにして、橋上化実現の要望を出すという茶番。口を開けば「観光、観光」と繰り返す、“魂の抜け殻”みたいな連中にはぜひとも“花巻魂”のひとさじでも煎じて飲んで欲しいものである。「こ線橋を走る馬面電車」の写真をお持ちの方はご一報を。青春の記憶を呼び戻すためにと方々手を尽くして捜しましたが、見つかりませんでした。

 

 

 

 

(写真は「鉄道と花巻」のポスタ-。花巻発展のカギがあちこちに散りばめられている。展望なき「JR花巻駅橋上化」問題を考える直す絶好のタイミング)

 

 

 

 

《追記ー1》~オリンピックをめぐる不祥事で、辞任・解任ドミノ

 

 7月18日付当ブログ(追記)で、足元に忍び寄る“五輪ファシズム”の不気味さを伝えたが、その演出を担当する本丸での不祥事が相次いでいる。前組織委員長の森喜朗元総理の女性蔑視発言を皮切りに、①開閉会式の総合総括だった佐々木宏さんがタレントを豚と見立てた「オリンピッグ」発言、②音楽担当だったミュ-ジシャンの小山田圭吾さんの「いじめ」告白、③文化プログラムに出演予定だった絵本作家、のぶみさんの不適切発言に続き、開会式を前日に控えた22日にはショ-ディレクターを務めることになっていたお笑いタレント、小林健太郎さんが「ホロコ-スト」(ユダヤ人大虐殺)を揶揄(やゆ)していたことが発覚、解任を余儀なくされる事態となった。

 

 折しも、日本テレビの情報番組「スッキリ」(3月12日放映)でアイヌ民族を傷つける表現があった問題で、放送倫理・番組向上機構BPO)の放送倫理検証委員会(小町谷育子委員長)は21日、「明らかな差別表現を含んだもの」で、放送倫理違反があったとする意見書を公表した。アイヌ女性を描くドキュメンタリ-を紹介した際、お笑い芸人が「この作品とかけまして動物を見つけた時ととく。その心は、あ、犬」と発言。民族名に「犬」という言葉をかけた、昔からある差別的表現だと批判があがっていた。差別やヘイトスピ-チなどに基づく、この国の“ファシズム化”はのっぴきならない状況に追い込まれている。

 

 

《追記―2》~“五輪ファシズム”とホロコ-スト

 

 五輪開幕当日の7月23日、新聞各社はショ-ディレクターを務める予定だった小林賢太郎さんの解任を伝える記事を大々的に報じた。ホロコ-スト軽視に対する世界の目は厳しく、朝日新聞は「躓(つまず)きの石」(7月18日付当ブログ参照)の例を引き合いに出した。当該ブログは今回、芥川賞を受賞した石沢麻衣さんの作品『貝に続く場所にて』がこの石について言及していることに触発され、「時空間と記憶」の大切について、考察した。新聞記事の関係部分は以下の通り。

 

 「ドイツでも戦後、ホロコ-ストなどナチスの罪をどう克服し、記憶を継承するかが重視されてきた。学校現場では、ユダヤ人の迫害の歴史やナチスの罪が重点的に教えられる。各地の路上を歩けば、約10センチ四方の金色のプレ-トが埋め込まれているのに気づく。『躓(つまず)きの石』と呼ばれ、ユダヤ人らが住んでいた家があった場所に名前や生年、いつ収容所に送られ、亡くなったかという情報が刻んである。7万5千個以上が埋められており、その数は増え続けている。ナチスに関わった人物は、強制収容所の看守といった末端の役割だったとしても、今も訴追されている。ナチスの思想を賛美するネオナチも当局から厳しく監視され、ホロコーストの否定や軽視の行為は刑法で罰せられる。オ-ストリアなど他の欧州の国でも、同様に処罰規定を持つ国は多い」(7月23日付)

 

 

《追記―3》~「原発避難者は棄民か」…かつての“同志”はいまも変わらず

 

 「そもそも『復興五輪』なんて詭弁(きべん)です。原発避難者はまだ全国各地に避難したままで、事故処理の見通しも立たない。それなのに政権は『原発事故の被害は軽かった』と世界に発信したい。その総仕上げがこの五輪です」(7月28日付「朝日新聞」オピニオン&コラム「原発避難者は棄民か」)―。背筋をピンと伸ばし、優しさの中にも相手を射抜く鋭い眼差しは少しも変っていなかった。「あの時のまんまだな」と私は思った。

 

 「村ちゃん」こと、村田弘さん(78)は現在、原発事故被害者団体連絡会の幹事と福島原発かながわ訴訟原告団長を務める。かつて、朝日新聞西部本社(九州)の社会部で席を並べた。そんな去る日、いまでいう「非正規」のアルバイトの青年が突然、解雇を通告されるという“事件”が起きた。ともに20代後半の血気盛り。「不当解雇は許さない」というスロ-ガンを掲げ、当時労組委員長だった村ちゃんはとつとつと、その不条理をただした。会社側は解雇を撤回した。

 

 退職後、福島第1原発からわずか16キロしか離れていない、妻の実家の福島県南相馬市に移住し、そこで被災。次女を頼って神奈川県に避難した。村ちゃんはインタビ-をこう結んでいる。「僕たちがこの世を去っても汚染水は流れ続け、廃炉の問題もなかなか片付かないでしょう。しかしそうした状況に、社会が忍従し続けるとは思えません。今は僕たちだけが孤立してしまっているけれど、ひとごとでなくなる時がくる」―。実際、私たちはいま、その「時」のただ中に身を置いている。コロナ禍が猛威を振るう中、アスリ-トの活躍さえも“人柱”にされかねない「復興五輪」の欺瞞を暴く姿勢にいささかのぶれもない。オレもあまり変わっていないと思うけど、村ちゃんも一直線だなぁ…

 

 

《追記ー4》~ブログ休載のお知らせ

 

 コロナ禍と猛暑、それに”五輪狂騒曲”の喧騒から逃れるため、本日(7月23日)の開会式から8月8日の閉会式までの間、当ブログを休載させていただきます。少し距離を置いた立ち位置から、これからの思考の方向性を模索していきたいと思います。皆さま方のご無事をお祈りします。

 

 

 

 

『貝に続く場所にて』…“幽霊”たちとの対話~その足元では“戦前回帰”のお祭り騒ぎ

  • 『貝に続く場所にて』…“幽霊”たちとの対話~その足元では“戦前回帰”のお祭り騒ぎ

 

 「あくまである記憶、体験をめぐる『惑星』のようなものだと考えています」(7月14日付当ブログ参照)―。第165回芥川賞に輝いた石沢麻衣さん(41)が受賞インタビュ-で口にした、このナゾめいた言葉がまだ頭の中をグルグル回っている。さっそく、受賞作の『貝に続く場所にて』(講談社)を取り寄せて、活字を追い始めたのだが…。「時空間と記憶」をめぐる物語にはちがいない―と読み進むうちにその圧倒的な質量感に打ちのめされてしまった。コロナ禍下での“五輪狂騒曲”と記録破りの猛暑のせいばかりではないような気がする。ひょっとしたら、こうした記憶の「物語世界」に私自身の思考がついていけないほど想像力が枯渇しつつあるのではないのか…

 

 東日本大震災で被災した「私」(筆者)は現在、ドイツ・ゲッティンゲンにある大学院で西洋美術史を学んでいる。このまちには太陽系の縮尺模型を形どった「惑星の小径(こみち)」と名づけられたオブジェが配置されている。留学先で知り合ったドイツ人の知人らとこの小径を散策しながら、物語は進行していく。そんなある日、仙台市内の大学の同級生だった「野宮」が突然、「私」の元を訪ねてくる。野宮はあの大震災で行方不明となり、今もって生死は分かっていない…つまりは“幽霊”として登場する。やがて、この人物にだけ敬称が付された「寺田氏」もいつの間にかその仲間入りをしている。この不思議な邂逅(かいこう)を「私」はこう記す。

 

 「自然災害、特に地震考に見られる観察と分析に基づく透徹した眼差しや、専門知識で汲み上げようとする問題の取り組み方に触れる度に、あの日の記憶は小さく揺さぶられ続ける。同時にそれは、災害に相対する人間を見据える眼差しでもあった。時間を貫くその声は、信頼できる遠近法に則って、遠くまで道標を作り上げていた。…その本は、いつの間にか誰かの手を真似た幽霊のような姿をとるようになっていた」―。もうひとりの“幽霊”の出現である。文中の「寺田氏」こそが『天災と国防』などの著書で知られる物理学者の寺田寅彦(1878~1935年)その人。1910年10月から約4か月間、ゲッティンゲンに滞在し、この地を日本語で「月沈原」と呼んだ。時空間を一気に貫くような透徹した命名である。

 

 コロナ禍の猛威にさらされたドイツでも人と人との距離は人為的に引き離されていく。しかし、「距離と時間」は遠ざけようとすればするほど、ブ-メランのようにも元居た場所へと戻ってくる。「惑星の小径」を行く道連れたちはふと、足元の金属板に足を取られる。このまちから強制収容所に送られたユダヤ人たちの「記憶」が刻まれた“躓(つまず)きの石”たちである。「メメント・モリ」(死者を想え)―。その先には中世ヨ-ロッパを恐怖のどん底に突き落としたペスト禍の記憶の古層がうず高く積み重なっている。「寺田氏」に導かれるようにしてやっと「野宮」との記憶の軌跡を紡ぎ直すことができた「私」はこう述懐する。

 

 「私が恐れていたのは、時間の隔たりと感傷が引き起こす記憶の歪みだった。その時に、忘却が始まってしまうことになる。野宮が見つからないまま、時間だけは過ぎていった。私が訪ねた場所を歩いた足も、景色を映した眼も、潮の香りを捉えた鼻も、感覚的な記憶として留まらず、遠い物語的な記憶へと変容してゆく。…記憶の痛みではなく、距離に向けられた罪悪感。その輪郭を指でなぞって確かめて、野宮の時間と向かい合う。その時、私は初めて心から彼の死を、還ることのできないことに哀しみと苦しみを感じた」―

 

 「あの大震災の時、自分はどうしていたのか」―。ハタと我に返った。奇しくもその日が誕生日に当たっていた「2011年3月11日午後2時46分」…私は現職の市議として、開会中の予算特別委員会に出席していた。ドス-ンという突き上げるような衝撃で、慌てて議席の下に潜り込んだ。委員会は急きょ閉会になり、急いでわが家に戻った。家電類や本棚などが倒れた程度で家に被害はなかった。その同じ時間帯、沿岸の大槌町に住む「照さん」はまちの中心部から15キロほど離れた高台で土木作業をしていた。取って返したが、自宅は跡形もなく流され、母親(当時80歳)と妻(55歳)、一人娘(33)の姿もなかった。

 

 当時、62歳の白銀照男さんと出会ったのは震災1週間後のこと。肉親を求めて、瓦礫の山をさまよい歩く照さんに何度も同行した。3人はまだ見つかっていない。統計上では生死不明の「行方不明者」にくくられるが、「十年一昔」は私自身の忘却も容赦しない。もうしばらく、連絡も取っていない。照さんはある日、ひとり言のようにつぶやいた。「もうダメだという絶望感と生きていてくれという祈り。時は無情だなと思ったり、すべてを解決してくれるのはやはり時間しかないと思ったり…」―あの時からもうすでに10年以上の時空間がたっている。「私」が「野宮」を探し続けたように、照さんももはや“幽霊”に姿を変えているかもしれない3人との対話を続けるしかない。そして、まるで「求道者」とも呼ぶべき照さんの姿かたちを私はもう一度、記憶の底に刻み直したいと思う。

 

 

 

 

(写真は肉親を探し求める照さん=2011年3月下旬、岩手県大槌町安渡で)

 

 

 

 

《追記》~「3・11」を忘れた末の“戦前回帰”―ファシスト国「イ-ハト-ブ」の出現か!?(コメント欄に記事と関連写真を掲載)

 

 

 「英輝選手へ古里エ-ル/両親に寄せ書き手渡す…花巻で住民が激励会」―。7月19日付の地元紙「岩手日報」の社会面に踊る大見出しに身がすくんだ。花巻北高出身の競歩選手、高橋英輝さんが五輪選手に選ばれたことを喜ぶ記事で、地域住民や陸上部の後輩やOBらが日の丸(日章旗)に激励の寄せ書きをしたため、両親とともに写真に収まっていた。当然のことながら、五輪代表を祝福する気持ちに変わりはない。と同時に私の耳元には母親が嗚咽(おえつ)をこらえながら、口にした言葉がよみがえった。「父さんはね、隣組の人たちが振る日の丸の旗で戦地へ送られたけど、戻ってきたのはお骨(こつ)ではなく、たった一本の小枝だけ。骨箱の中でコロンコロンと音を立てて…」

 

 “復興五輪”を騙(かた)った「2020東京五輪」の開幕まであと3日。その狂気に満ちた祝祭騒動はついに、郷土の詩人・宮沢賢治が理想を託した夢の国「イ-ハト-ブ」の足元にまで及んだ。この日は市役所で懸垂幕の受領式が行われ、さっそく正面玄関わきの本庁舎に吊るされた。「勝ってくるぞと勇ましく…」(昭和12年、古関裕而作曲「露営の歌」)…悪夢を呼び戻すような歌が耳元をかすめた。ちなみに、当ブログで言及したドイツの「躓(つまず)きの石」プロジェクトは1993年、ファシズム(ナチス)の悲劇を現代に伝えるためにスタ-ト。タテ・ヨコ・タカサが各10センチのコンクリート製で、上張りされた真鍮(しんちゅう)板には、例えばこんな文字が刻まれている。「ここで勉強していたヘドヴィッヒ・クライン(1911年生まれ)は1939年にインドに亡命しようとしたが失敗し、1942年に国外退去させられ、アウシュヴィッツにて殺された」―

 

 そういえば、わが「イーハトーブ」のトップに君臨するのは「Mr.PO」(パワハラ&ワンマン)とも称される独裁者である。

 

 

 

くどうれいんさん…惜しくも受賞逃すも、“震災文学”に新たな境地~受賞作も震災がテーマ

  • くどうれいんさん…惜しくも受賞逃すも、“震災文学”に新たな境地~受賞作も震災がテーマ

 

 初の小説『氷柱(つらら)の声』で芥川賞候補にノミネ-トされていた盛岡市在住の歌人で作家のくどうれいんさん(26)らの作品を審査する選考会が14日開かれ、くどうさんは惜しくも受賞を逃したが、“震災文学”に新境地を開くなど大きな反響を呼んだ(7月11日付当ブログ参照)。東日本大震災を題材にした小説としては同じ盛岡在住の作家、沼田真佑さん(42)の『影裏』が4年前の第157回芥川賞を受賞したほか、その翌年には遠野市出身の作家、若竹千佐子さん(67)が『おらおらでひとりいぐも』で同賞を受賞するなど岩手における“文学人脈”の豊かさを浮き彫りにした。

 

 今回、芥川賞に輝いた2作のうちの1作はドイツ在住の石沢麻依さん(41)のデビュ-作『貝に続く場所にて』。1980年、宮城県仙台市生まれ。東北大学大学院文学研究科修士課程修了。今年、同作で第64回群像新人文学賞を受賞したばかりだった。ドイツの学術都市に暮らす私の元に、東日本大震災で行方不明になったはずの友人が現れる。人を隔てる距離と時間を言葉で埋めてゆく、現実と記憶の肖像画。コロナ禍が影を落とす異国の街に、震災の光景が重なり合う、静謐(せいひつ)な祈りをこめて描く鎮魂の物語…。群像新人賞の選評では―

 

 「記憶や内面、歴史や時間、ここと別のところなど、何層にも重なり合う世界を、今、この場所として描くことに挑んでいる小説」(柴崎友香)、「人文的教養溢れる大人の傑作。曖昧な記憶を磨き上げ、それを丹念なコトバのオブジェに加工するという独自の祈りの手法を開発した」(島田雅彦)、「犠牲者ではない語り手を用意して、生者でも死者でもない『行方不明者』に焦点を絞った点で、すばらしい。清潔感がある」(古川日出男) 

 

 今回の授賞について、石沢さんはオンラインでの記者会見でこう語った。「“震災文学”を代表する作品ということではなく、あくまである記憶、体験をめぐる『惑星』のようなものだと考えています。今後、どうやって震災の記憶をさらに引き継いでいくのか。先人も作品を通して声を上げていますが、私もその一人になることができました。これからもっと自分の創作を発展させることで人々が震災を記憶していくことにつながればいいと思います」―

 

 沼田さんが受賞した時、私は当ブログにこう書いた(2017年8月1日付)。 「東北は敗けない、日本はひとつ、頑張ろうニッポン、みんながヒ-ロ-…。こんな表面を取り繕(つくろ)うような復興メッセ-ジに対し、沼田さんは異議申し立てをしたかったのではないのか。私はそんな気がする。選考委員の一人である作家の高樹のぶ子さんは震災をテ-マにしていることについて、こう述べている。『人間の内部と外側の崩壊を描いた。人間の不気味さと自然の不気味さが呼応している』」―。あの大震災に今はコロナという疫病が襲いかかっている。緊急事態宣言下での”復興五輪”を目前にした今、こうした記憶の物語が世に問われた意義は大きい。 

 

 「十年一昔」―。人々の記憶が風化する中、猛威を振るうコロナ禍と「3・11」を重ね合わせるような石沢さんの手法はくどうさんの作品を彷彿(ほうふつ)させる。東北ゆかりの作家たちによって、本格的な「震災文学」の創出が始まったのかもしれない。かつて経験したことのない「パラダイムシフト」(価値の大転換)への予感……

 

 

 

 

(写真は今後の作品に期待が集まるくどうさん=インタ-ネット上に公開の写真から)