旧総合花巻病院の解体工事が進むにしたがって、約100年間、周囲の目から遮断されてきた光景がこつ然と目の前に現れてきた(9月17日付当ブログ「いま、よみがえる歴史の記憶」参照)。以来、”夢見る男”の口をついて出てきた「つぶやき」語録のいくつか…
※
●花巻城跡地という立地条件も文教地区にぴったり。宮澤賢治が学んだ現花巻小学校と自らが教鞭を取った、“桑つこ大学”とも呼ばれた旧稗貫農学校(現まなび学園周辺)に挟まれたロケーションもまさに最適地。約100年ぶりに目の前に開けた光景に歴史の”息づかい”を感じながら「図書館はもう、ここしかない」とひらめいた
●約100年間にわたって、イ-ハト-ブ住人のいのちを守り続けてきた旧総合花卷病院…その創設者が賢治の主治医の故佐藤隆房氏だったということも考えてみれば、なんとも不思議な歴史の巡り合わせだと思う
●旧総合花巻病院跡地は来年3月(予定)に更地になった後、市が取得することが決まっており、市有地への立地を求めている議会側の意向とも合致する。市が立地の第1候補に挙げる駅前のJR所有地の譲渡交渉が不透明な中、前向きに検討すべきではないか
●元をただせば、現在のJR花巻駅は明治23年、地元の豪商・伊藤儀兵衛の土地寄進で開業した経緯がある。病院跡地問題は図らずも、こんな歴史の記憶も呼び戻してくれた。因果はめぐるということか
●日本初の”文化立法”といわれた「図書館法」(昭和25年4月)の立案に関わった人物に花巻ゆかりの山室民子がいる。慈善団体「救世軍」の創設者・山室軍平の妻で、花巻の素封家に生まれた旧姓・佐藤機恵子が民子の母である。民子は図書館法を起案するに当たって「今は文化を以て立つ外はない。それにつけても、教育の重要であることを思わざるを得ない」と述べている。図書館法の生みの親―山室民子の”遺訓”を生かすためにも花病跡地の花巻城址を新図書館を中心にした「一大文教地区(文化拠点)」に
●「Fantasia of Beethoven」と賢治が命名した花壇がかつて、旧総合花卷病院の中庭にあった。創設者の佐藤隆房医師と賢治との心温まるエピソ-ドがこの花壇には刻まれている。花病跡地はこんな゙賢治秘話゙の宝庫でもある。病棟の解体工事に伴い、この花壇のミニチュア版が新病院の病棟テラスに移転した。いずれ、「ベ-ト-ベンの想い」という謎めいた花壇の成り立ちについては拙ブログ「ヒカリノミチ通信」で触れたい。いっそのこと、花病跡地に建つ新図書館は賢治を偲んで「イ-ハト-ブ図書館」とでも名づけたらどうだろう。夢は膨らむばかりである
●新花卷図書館とJR花巻駅橋上化との「ワンセット」論議がかまびすしい昨今、「花病跡地」と「新興跡地」こそがまさにワンセットにふさわしい構図ではないか。なにせ、この二つの跡地はいずれも花巻城址に位置しているから。「城址(しろあと)の/あれ草に臥(ね)てこゝろむなし/のこぎりの音まじり来(く)」―。賢治はかつて「東公園」(旧三の丸)の高台に寝ころびながら、こう詠んだ。童話『四又(よまた)の百合』にこんな一節がある。「…すきとほった風といっしょに、ハ-ムキャの城の家々にしみわたりました」―。”ハ-ムキャの城”とはすぐ、花巻城址と察しがつくではないか。あぁ、「イ-ハト-ブ図書館」の夢がどうにも止まらない
●新興跡地」(花巻城址)の取得に頑強に反対してきた上田東一市長が9月定例市議会で、取得に”含み”を持たせる発言をするなど微妙に変化してきた。なぜなのか?上田市長の先祖に当たる上田弥四郎氏は江戸後期の文化6(1809)年、花巻城の大改修工事の総指揮をとり、”造作文士”と呼ばれた。その後長い間、城址一帯は工場と病院の建設によって、人びとの目前から遮断され、歴史の記憶も風化を続けてきた。建物群が撤去された今、遠望には霊峰・早池峰など北上山地の山並みがキラキラと輝いている。忘却の彼方に置き忘れてきた”記憶”の覚醒……。まるで、厚い雲間から顔をのぞかせた満月を見る思いである。先祖に想いを馳せる上田市長の気持ちもわかるような気がする。みんなで「城跡探訪」に出かけよう
(写真は病棟の解体工事によって、ほぼ原形を維持したまま現れた花巻城址「濁堀」の基底部。将来はこの一帯を”歴史公園“へと夢が広がる=花巻市花城町の花巻小学校