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夢の図書館を目指して…「甲論乙駁」編(その9)~『街とその不確かな壁』、そして「夢読み」と古い夢たち

  • 夢の図書館を目指して…「甲論乙駁」編(その9)~『街とその不確かな壁』、そして「夢読み」と古い夢たち

 

 「トンネルというか、現実の世界と異次元の世界を行ったり来たりして、最終的に自分がどっちに行くのか分からなくなるのが僕の小説の1つのあり方だと思う」―パラレルワ-ルド(並行時空)を描かせたら、右に出るものはいない作家の村上春樹さんの最新長編『街とその不確かな壁』は街を隔てる壁の「あっち」と「こっち」の物語である。その想像力の射程の長さに圧倒されながら、この二つの街の舞台がともに図書館であることにハタと心づいた。“図書館狂騒曲”に翻弄(ほんろう)される日々…私はまるで誘われるようにして、この風変わりな図書館の往還を繰り返していた。

 

 普通の図書館がある街から壁をくぐりぬけて、向こう側の街へ行くためには自分につきまとっている自分の「影」を捨てなければならない。つまり、「影なし人間」への変身が求められる。こうして「ぼく」が越境した先に現れた図書館には10代の女性司書がひとり。「あなたは<夢読み>になるのよ」とひとこと。「図書館の書庫で、そこに集められたたくさんの<古い夢>を読んでいればいいの」と続ける。なるほど、書庫には一冊の本もない。「夢読み」が読む「古い夢」とは…。そうか、図書館とはその空間に幾層にも蓄積された古い夢たちを読み解くことだったのかと、妙に得心した。ところが、得心した途端にわれに返った。

 

 「新図書館 若者のため駅前に」―。4月20日付「岩手日報」の声欄に65歳の介護施設世話人の女性(65歳)の投書が載った。こんな内容だった。「駅は夕方から夜にかけて、近隣の高校生が集ってきます。寒い日は冷たい風が駅舎の待合室にも入ってきます。図書館があれば、電車や迎えを待つ間、勉強や友人との交流もできるのではないでしょうか」―。この図書館“待合室”説こそが普通の市民感覚ではなかったのかと正直、合点した。図書館とは何ぞやという「図書館」論議の基本的な本題設定を怠った当然の結末である。最初から、高校生や若者たちの利便性を図るための「駅前交流(広場)」構想を打ち出していれば、新図書館問題がこれほどの迷走を繰り返すことはなかったはずである。

 

 わが街の謳い文句「イ-ハト-ブ」とは…郷土の詩人、宮沢賢治が「実にこれは著者の心象中に、この様な状景をもって実在したドリ-ムランドとしての日本岩手県である」(『注文の多い料理店』広告チラシ)と書き残しているように、この地はまさに「夢の国」(ドリームランド)そのものである。その夢の国から私を含めた夢読みたちを追放しようというのなら、もう一度「影なし人間」になって、賢治がこしらえてくれたもうひとつの理想郷「銀河宇宙」へと飛翔(ひしょう)するしかあるまいと思う。

 

 「村上春樹ライブラリ-」(正式名、早稲田大学国際文学館)が2021年10月、同大学構内にオ-プンした。自著や50カ国以上に翻訳されている訳書、収集したレコ-ドなど「まるごと春樹」が満載。『街とその…』のあとがきの中で、著者はこう書いている。「真実というのはひとつの定まった静止の中にではなく、不断の移行=移動する相の中にある。それが物語というものの真髄ではあるまいか」―。村上ワ-ルドを彷徨(ほうこう)していると、いつも賢治との遭遇を感じてしまう。たとえば、賢治は『春と修羅』の序をこんな書き出しで始めている。

 

 「わたくしといふ現象は/仮定された有機交流電燈の/ひとつの青い照明です/(あらゆる透明な幽霊の複合体)/風景やみんなといつしよに/せはしくせはしく明滅しながら/いかにもたしかにともりつづける/因果交流電燈の/ひとつの青い照明です」…。そういえば、今回の村上作品のもう一方の主役は幽霊たちである。賢治との親和性も実はここにある。表題の「夢の図書館」はだからこそ、賢治の一切合財を集めた「宮沢賢治ライブラリ-」の実現でなければならない。脱出するのはまだ、早すぎるかもしれない。

 

 

 

 

(写真は村上文学のこれまでの集大成ともいえる『街とその不確かな壁』)
 

イ-ハト-ブ“迷走”交響曲…「場所はどこでもいい」!!??

  • イ-ハト-ブ“迷走”交響曲…「場所はどこでもいい」!!??

 

 「基本的には場所はどこでもいい。建物ができてしまえば後は世代を超えた協同の機運が自然に熟してくる」―。新花巻図書館の立地論争が二分される中、「利用者本位の開かれた図書館とは」と題する講演会が23日、東和図書館で開かれた。「東和図書館結いの会」(日下明久美代表)の主催で、時宜を得た企画とあって約40人の市民が町内外から足を運んだ。講師は新図書館のアドバイザーを務める富士大学の早川光彦教授(経済学部=図書館学)。私が喫緊の行政課題である立地場所について質問したのに対する回答が冒頭の”びっくり”発言だった。考えて見れば、市が後援していること自体が不自然なことだった。

 

 私は次の3点について、質問した。①現在、新図書館の立地場所として、市が第1候補に挙げるJR花巻駅前に対し、旧花巻病院跡地への立地を望む市民の声も大きくなっている。市民の意見が二分されつつあるこの現状をどう認識し、その原因はどこにあると考えるか、②これまで高校生や各種団体などへのアンケ-ト調査が実施されたが、公平性が担保されたのは不特定多数の一般市民を対象にした説明会(計17回)だけである。その際の発言者の32人は病院跡地を希望し、駅前立地を希望したのは18人。この数字をどう評価するか、③高校生の意見集約は統計学上の原則(たとえば、無作為抽出や有意性のあるサンプル数など)を無視した手法になっており、その蓋然性に疑義が残る。市民全員の意見集約をするためにはどんな方法があるか―

 

 質疑応答の中で、早川教授は「図書館は民主主義の学校と呼ばれ、進化を続ける有機体にもたとえられる。この過程には意見の多様性が当然、生じる」と話し、具体的な立地場所については「立場上、私からは言えない」と言葉を濁した。そう、まさに「立場」がそうさせているのである。早川教授は「としょかんワ-クショップ」(2020年7月~10月)と2年前に設置された「新花巻図書館整備基本計画試案検討会議」のアドバイザ-として、現在に至っている。つまり、「駅前立地」という市側の構想に実質的な“お墨付き”を与えた当事者のひとりと言える立場にある。さらには双方の間に「報酬」の授受関係があることも忘れてはならない。このことを専門筋では「ステ-クホルダ-」(利害関係者)と呼ぶ。

 

 「場所はどこでもいいというが、私たちのグル-プはどこが一番、図書館にふさわしいのかとずっと勉強し、議論を続けてきた。こんな言い方はない」、「駅前派とか病院派とか市民を分断する空気がいやになってきた。双方が率直に意見を交換するような場を設置すべきではないか」…。こんな発言が相次ぐ中、会場ではそれを妨げようとする下卑たヤジや、「あの人は誰だ。妨害者がまぎれ込んでいるんでは…」といったささやきがもれ聞こえた。元鳥取県知事で総務大臣を歴任した片山善博さん(71)が以下のような発言したのは8年前。当市の行政はもはやその体(てい)をなしていないと言わざるを得ない。煎じて飲ませる”処方箋”さえもう、見当たらない。

 

 「私は図書館が専門ではなく、地方自治が専門だ。なぜ、図書館について一生懸命なのかとよく聞かれるが、今の日本の図書館を考えることは日本の地方自治の在り方を考えるのと同じ。(そのために)図書館は必須で不可欠のもの。その図書館の在り方に対して、住民が行政に発言する機会がない。日本の議会にはいっさい、そういう時間はない。それを変えるには、図書館が最もわかりやすい例ではないかと思っている」(2015年5月、「図書館と地域をむすぶ協議会」主催のシンポジウムでの発言)。片山さんには『地方自治と図書館―「知の地域づくり」を地域再生の切り札に』というタイトルの共著もある。

 

 

 

 

(写真は会場を埋め尽くした参加者。活発な意見交換が行われた=4月23日午前、東和図書館で)

 

 

 

夢の図書館を目指して…「甲論乙駁」編(その8)~世代をつなぐ”架け橋” 「丘の上の本屋さん」

  • 夢の図書館を目指して…「甲論乙駁」編(その8)~世代をつなぐ”架け橋” 「丘の上の本屋さん」

 

 『イソップ寓話集』『星の王子さま』『白鯨』『ロビンソン・クル-ソ-』『アンクル・トムの小屋』…。アフリカの最貧国から移住してきた少年エシエンには本を買うお金がない。古書店の店主リベロ(イタリア語で「自由」の意)は好奇心旺盛な少年に文学書から専門書まで次々と貸し与えていく。世代をまたぐふたりの間に「本」を通じた交流が生まれ、それがやがてエシエンの成長につながっていく。イタリア映画「丘の上の本屋さん」(クラウディオ・マッシミ監督、2021年)を観ながら、逆に世代間”ギャップ”をあおるような足元の図書館騒動にほとほと、愛想がつきてしまった。

 

 体調の不調を訴えるリベロは11冊目の本を手渡しながら、「今度は貸すんじゃなくて、君への贈り物だ」とポツリともらす。読み終えた感想を伝えようと店に向かったエシエンは「喪中」の張り紙に呆然と立ち尽くす。隣りのカフェで働く青年がリベロから託されたという手紙をひったくるようにして、いつも読書に夢中になる公園へと走り去る。プレゼントされたのは『世界人権宣言』(1948年12月10日国際連合総会採択)。その第1条にはこう定められている。「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない」―。エシエンに対するリベロの最後のメッセ-ジだった。

 

 「こんな本こそ、多くの人に読んでもらいたい」とリベロが独りごちる場面がある。政府による検閲などによって発禁になったその専用本棚の中に『怒りの葡萄』(ジョン・スタインベック、1939年)が並んでいた。ふいに2年ほど前に観た米国映画「パブリック―図書館の奇跡」(エミリオ・エステベス監督、2018年)のシ-ンを思い出した。大寒波の中、図書館を占拠した黒人ホ-ムレスたちの奇想天外な姿を描いた映画で、コロナウイルスの脅威と未曾有の自然災害にさらされる現代社会にとって、「図書館の役割とは何か」―を根底から考え直すきっかけが与えられる作品である。

 

 「今夜は帰らない。ここを占拠する」―。米オハイオ州シンシナティの公共図書館を根城にしているホ-ムレスのリ-ダ-が突然、エステベス監督自身が扮する図書館員のスチュア-トにこう告げたことから、上を下への“騒動”へと発展する。「図書館のル-ルを守るべきか、ホ-ムレスの人権を優先させるべきか」―。スチュア-トがホ-ムレスの占拠を優先させる決断をした際に口にしたのは意外にも『怒り葡萄』の一節だった。「ここには告発しても足りぬ罪がある。ここには涙では表しきれぬ悲しみがある」……

 

 大恐慌下、貧困移民層をめぐる社会差別を告発したこの本は保守層からの反発もあり、一時図書館の本棚からも撤去される事態となった。この禁書問題がのちに、“図書館憲章”とも呼ばれる米国の「図書館の権利宣言」(1948年)の誕生につながったことは余り、知られていない。図書館の役割について、「パブリック」のパンフレットにはこんなことも書かれている。「図書館員は事実上のソ-シャルワ-カ-であり、救急隊員だ。オピオイド(鎮痛剤)過剰使用時の救命薬の取り扱い訓練を図書館員が受けるケ-スも珍しくない」。そして「丘の上の本屋さん」のエピグラフはこう記す。「持ち主が代わり、新たな視線に触れるたび、本は力を得る」(スペインの作家、カルロス・ルイス・サフォン)―

 

 

 

 

(写真は孫のようなエシエンと本談義を交わすリベロ。イタリア中部の石畳のまちのたたずまいが心をホッとさせる=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

夢の図書館を目指して…「甲論乙駁」編(その7)~「旅する本屋」と「丘の上の本屋さん」

  • 夢の図書館を目指して…「甲論乙駁」編(その7)~「旅する本屋」と「丘の上の本屋さん」

 

 “図書館狂騒曲”の渦に飲み込まれて辟易(へきえき)する中、ふと3年前の「あの日」の不気味な静寂を思い出した。2020年4月16日、コロナ禍に伴う「緊急事態宣言」は全国に拡大された。“ステイホ-ム”という聞きなれない言葉にうろたえながら、「当分は家に閉じこもって本と付き合うしかないな」とまんざらでもない気分になった。最初に手に取った“コロナ配本”の第1号は『モンテレッジォ/小さな村の旅する本屋の物語』。筆者はイタリア在住の日本人ジャ-ナリスト、内田洋子さん。いま考えるとこれもまた余りにも偶然にすぎるが、私がこの本の読後感をブログに記したのは緊急事態宣言が発出された3日後だった。こうして、コロナ禍における”本漬け”の日々がスタートした。

 

 「イタリア、トスカ-ナの山深い村から、本を担いで旅に出た人たちがいた。ダンテ、活版印刷、ヘミングウェイ。本と本屋の原点がそこにある」―。こんなキャッチコピ-にひかれて一気に読んだ。パンデミックというかつて経験したことのない風景の激変が逆に「本」という存在の大切さを教えてくれたのかもしれない。その時の気持ちの高ぶりを思い起こそうと再読した。

 

 「この山に生まれ育ち、その意気を運び伝えた、倹(つま)しくも雄々しかった本の行商人たちに捧ぐ」―。イタリア北部の山岳地帯に位置する寒村・モンテレッジォの広場の石碑にはこう刻まれている。この村の歴史を追った内田さんはこう記す。「彫られているのは、籠(かご)を肩に担いだ男である。籠には、外に溢れ落ちんばかりの本が積み入れてある。男は強い眼差しで前を向き、一冊の本を開き持っている。ズボンの裾を膝まで手繰(たぐ)り上げて、剥き出しになった脹脛(ふくらはぎ)には隆々と筋肉が盛り上がり、踏み出す一歩は重く力強い」―

 

 「石から本へ」―。200年以上前の1816年、北ヨ-ロッパや米合衆国北東部、カナダ東部では夏にも川や湖が凍結するという異変に見舞われ、「夏のない年」と呼ばれた。宮沢賢治の「サムサノナツ」(「雨ニモマケズ」)を彷彿(ほうふつ)させる光景である。モンテレッジォも壊滅的な被害を受けた。栗以外に主産物に恵まれない村人たちはかつて、岩を砕いた「砥石(といし)」をヨ-ロッパ中に売り歩いた。その時に鍛えた肉体が役に立った。屈強な男たちは今度は石のように重い本をカゴに入れて担いだのである。「『白雪姫』、『シンデレラ』、『赤ずきんちゃん』、『長靴を履いた猫』など、子供向けの本はよく売れましたね。ことさらクリスマス前は盛況でした」と行商人の末裔は文中で語っている。

 

 「丘の上の本屋さん」というタイトルの映画の広告が目に止まった。これもまた、イタリア映画である。宣伝文にこうある。「イタリアの最も美しい村のひとつに数えられるチビテッラ・デル・トロントを舞台に、年齢や国籍の違いを超え、本を通して老人と少年が交流する姿を描いたハ-トウォ-ミングスト-リ-」―。本とはまるで縁がないような不毛な「図書館」論議に翻弄(ほんろう)される日々…。早く観たいと、気持ちが急(せ)かされるばかり。そう言えば、村上春樹さんの最新作『街とその不確かな壁』は旧作に推敲を重ねながら、コロナ禍の3年間をかけた力作。これも読まねばなるまい。さっそく、注文した。

 

 モンテレッジォの村人たちは70年前、本への感謝を込めて、最も売れ行きの良かった本を選ぶ「露天商賞」を創設。第1回目にはヘミングウエイの『老人と海』が選ばれたという。わがイ-ハト-ブの図書館関係者にはこの心意気の爪のアカでも煎じて飲んでほしいものである。

 

 

 

 

 

(写真はモンテレッジォの村の広場に建つ「本の行商人」をたたえる石碑=インタ-ネット上に公開の写真から)

 


 

 

「日報論壇」騒動記“余話”…今度は肩書”詐称”疑惑!!??

  • 「日報論壇」騒動記“余話”…今度は肩書”詐称”疑惑!!??

 

 「(4月)10日付『大分知事選 草根の安達氏勝利』は誤りでした。掲載すべき記事を取り違えました。おわびして取り消します。正しい記事と見出しを掲載します」―。4月11日付の岩手日報の片隅にこんな訂正記事が載った。知事選の当落を取り違えるというメディアにとっては前代未聞の致命的なミスである。選挙報道に携わった経験から言えることは「当落ミス」は犯してはならない最低限の生命線だということである。この地元紙に一体、何が起きているのか。危機管理の低下や機能不全をうかがわせる予兆は実は私の周辺にもあった。

 

 新花巻図書館の立地場所をめぐる「日報論壇」が3月から4月初めのわずか1週間の間に3本掲載された。同一テ-マでの集中掲載は異例のことである。私の投稿が「新図書館 分断なき議論を」(4月5日付)と題して掲載された翌6日、それに対する反論めいた投稿が「図書館整備へ 冷静な対応を」として同じ欄に載った。このタイミングの良さにも眉に唾をつけたくなったが、投稿者の肩書…「新花巻図書館―まるごと市民会議代表」にまた、びっくりした。投稿者自身が3月29日付の自らのFBでこう書いているにも関わらず、である。「代表の立場を後任に譲り、この肩書で任命されていた『新花巻図書館整備基本計画試案検討会議』の委員も自動的に3月いっぱいで退任することになった」

 

 私は後任の代表にも経緯を確認した上で、4月8日付で担当者に対し「事情を知らない読者の中にはこの投稿が会の総意を表すものと受け取られかねない。肩書を詐称していたとすれば、その確認を怠った側の責任も問われる」として、事実関係を確認した上で紙面上での訂正を申し入れたが、1週間たった今もナシのつぶて。投稿規程には連絡先の記入も義務付けられており、確認は電話一本で済むはずである。この辺にもこの新聞のリスク管理の脆弱さが見て取れる。時を同じくして「週刊文春」(4月13号)に「岩手県の県紙、岩手日報でク-デタ-らしい」という内容の囲み記事が載っていた。17年間続いたワンマン社長の交代劇を伝えるスキャンダルだった。

 

 実は私は「まるごと市民会議」の立ち上げに関わったひとりである。その機関紙「ビブリオはなまき」(2021年5月)の創刊号にこう書いた。「“図書館戦争”はもちろん、終結を見たわけではない。それどころか、戦火は今後ますます、激しく燃え盛ることが予想される。市議会側や一部の市民運動が『立地』論争にシフトしていく中で、『ハ-ドより、ソフトを』という当会の基本理念は微動だにするものではない。ひたすら『王道』を歩み続けるのみである」―。その後、事情があって退会したが、私自身の立ち位置はいまも「微動」だにしていない。

 

 あの時からもう2年近くが過ぎた。過熱さを加える「イ-ハト-ブ“図書館戦争”」は行政や議会、市民運動、これにメディアも参戦して、まるで泥沼の様相を呈しつつある。諸悪の根源が奈辺(なへん)にあるかは明々白々だが、それにしても酷(ひど)すぎやしないか…。確信をもって、断言できることは当地の行政もメディアもすでに瀕死の状態にあるということである。

 

 

 

 

 

 

(写真は肩書詐称が疑われる「日報論壇」=4月6日付)