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(お盆向け特別企画);真夏の夜の“ミステリ-”………上田城、ついに落城か!?

  • (お盆向け特別企画);真夏の夜の“ミステリ-”………上田城、ついに落城か!?

 

【前座】

 

 「最後のブログを読んだよ。お盆を前に弔いイベントをやるから、出てこないか」―。世界的なサックス奏者で、ミジンコの研究者でもある盟友の坂田明さんからお誘いがかかった。妻の一周忌を終えたばかりの私はあたふたと駆けつけた。時は令和元年8月7日午後7時、場所は宮城県栗原市にある曹洞宗・通大寺…宵闇が迫った本堂から、こわ~い話がもれてきた。壇ノ浦の合戦に材を得た、おなじみの怪談「耳なし芳一」である。元NHKアナの青木裕子さんが朗読を担当、坂田さんがサックスを奏でながら、一方で芳一役も演じるという型破りの演出である。

 

 「女房に先立たれた夫は大体、2年以内に死ぬらしいぞ」―。妻の没後、坂田さんからこう忠告された。気遣いも人一倍のこの盟友らしい今回の企画はそもそも、東日本大震災の犠牲者の霊を慰めるために始められたらしい。「盆ちゅうのわな、あらゆる霊の厄を払うためのものさ。みんな、あの世で安らかに、とな」。かつて、坂田さんはアイヌのミュ-ジシャンとのコラボで、「ウエンカムイ」(悪い神)を演じたことがある。前回の当ブログで触れたいようにアイヌにとっては、人間の力の及ばないものはすべてがカムイである。だから、ウエンカムイも例外ではない。で、その悪い神さまは今度は「救いの神」として、私の目の前に立ち現れたのである。ありがたや。さ~て、これからがいよいよ、真打の登場である。

 

 

【真打登場~その1】

 

 壇ノ浦ならぬ、わが「イ-ハト-ブはなまき」界隈でいま、よりミステリアスな“エアガン”騒動が持ち上がっている。事の発端はこうである。当花巻市は8月1日、12万円以上の「ふるさと納税」の返礼品として、プラスチック製の弾(たま)を圧縮した空気で飛ばすエアソフトガン(エアガン)をリストに加えた。HP掲載後に問い合わせが殺到、45分後に申し込みがあり、受け付けを終了した。「地元で部品作りから組み立てまで行っており、自信を持って出せる品。予想以上に反響があり驚いている」(定住推進課・高橋信一郎課長補佐)と当初は鼻高々だったのだが…。この話題がテレビのワイドショ-のほか、全国紙や地方紙に報じられるに及んで事態は一変した。

 

 問題のエアガンは花巻市内のメ-カ-が製造した「ウィンチェスタ- M1873 カ-ビン」。幼いころ、西部劇ファンだった私にとっても懐かしいライフル銃である。「西部を征服した銃」とも呼ばれたが、長じてからはインディアン(アメリカ先住民)を殺戮した忌まわしい銃だという負のイメ-ジが付きまとっていた。「本物ではないにしても過去の暗い歴史を思い出させる」、「アメリカでは銃乱射事件が相次いでおり、嬉々として返礼品に加えるのは無神経すぎないか」…。当然のことながら、ネット上にはこんな意見が相次いだ。まずはこの見事なまでの想像力の欠如に驚いてしまう。騒動が受けた同市は今月8日付のHPに上田東一市長名のこんな記事が掲載し、メーカー側にも伝えた。

 

 「当該エアソフトガンは日本遊戯銃協同組合の自主規制が遵守されているものであり、その意味で安全性は確認された上で、市販されていると認識しております。しかしながら、殺傷能力のないエアソフトガンとはいえ、対人用の武器として使用した銃を再現したものであるため、当市の独自の判断として、ふるさと納税の花巻市への寄付に対する返礼品として、市が取り扱うことは不適切という結論に至りました。当市の今回の対応が一貫していなかったことについて、大変申し訳なく存じます」―。

 

  「独自の判断」でこの銃をリストに加えたのは一体、誰だったのか。盗人猛々しいとはまさにこのこと。木で鼻をくくるどころか、この思考の分裂はもはや病的とさえ言わざるを得ない。「市の担当者から是非にと懇願されたのに…。1丁だけだよ、とOKした結果がこれでした。いきなり、はしごを外されたようなもの」ー。とんだとばっちりを受けたのは、正規の法規制に基づいて製造した当のメ-カ-である。今回の対応がメ-カ-側にとっては「名誉棄損」(信用失墜)にも相当する重要な事案であることに、行政トップは思いが至らなかったのだろうか。だとすれば、「イ-ハト-ブはなまき」はもうすでに死に体であることの証左である。

 

 

【真打登場―その2】

 

 花巻市の中心市街地に人の気配がまったくない空間が広がっている。今年7月1日にオ-プンした「花巻中央広場」である。市民が気軽に足を運び、イベントにも活用できる公園として整備され、上田市長も「人が集まり、楽しめる場所にしたい。街中のにぎわい創出や活性化のための拠点としての活用が期待される」と胸を張った。陽をさえぎる木陰があるわけでもなく、蛇口がたった三つの水飲み場あるだけで、トイレもない。「まるで、上田記念公園ではないか」、「熱中症になりにいくようなもの」、「1億円近い工費も結局、ドブに捨てたようなもんではないのか」…。連日の酷暑続きの中で、こんな声がひんぱんに聞こえてくる。

 

 お盆を前にして、あの世から里帰りする霊たちもあちこちをさ迷い歩いている。旧花巻城跡で猛威を振るうやぶ蚊に追いやられた幽霊たち(7月23日付当ブログ「城跡…無惨、いまや蚊の発生源!?」からはこんな嘆きがもれ聞こえてくるような気がする。「おれ達、お化けだって、熱中症にはなりたくないからな」―。これではまるで「幽霊さえも寄り付かなくなった」―という“都市伝説”も顔負けするような光景ではないか。霊性の詩人と言われる宮沢賢治はふるさとのこんな無様なありさまを、銀河宇宙の彼方からどんな思いで眺めているのであろうか。

 

 

【真打登場―その3】

 

 上田市長も愛読しているらしい、花巻ゆかりの新渡戸稲造は『武士道』の中にこう書き記している。「真の忠義とは何であろうか?武士道は主君のために生き、そして死なねばならない。しかし、主君の気まぐれや突発的な思いつきなどの犠牲になることについては、武士道は厳しい評価を下した。無節操に主君に媚(こび)を売ってへつらい、主君の機嫌をとろうとする者は「佞臣(ねいしん)」と評された。また、奴隷のように追従するばかりで、主君に従うだけの者は「寵臣(ちょうしん)」と評された。家臣がとるべき忠節とは、主君が進むべき正しい道を説き聞かせることにある」

 

 ワンマン・上田市長が君臨する「上田城」にはいま、佞臣や寵臣たちがまるでバッタのように蝟(い)集している。今風に解釈すれば、「忖度」政治の地方版である。エアガンの発案者にしても、主君(上田市長)に取り入ろうとする哀れな家臣(職員)の姿のように映って見える。残骸をさらけ出す旧花巻城跡を追うように、上田城の落城ももはや時間の問題だという思いにとらわれる。もしかしたら、「耳なし芳一」とは聞く耳を持たない上田市長その人かもしれない。最大の被害者はこんな行政に身を任せなければならない、我われ市民である。と同時に、そんな人物をトップに選んだ責任は我われ市民の側にもある。もちろん、そのひとりは私自身である。

 

 

(写真は寺子屋ライブのひとこま。「耳なし芳一」の語りとサックスの音色が不思議なほどに調和していた=8月7日、栗原市内の寺で)

 

 

《追記》~ブログ保存について

 

 パソコン上に掲載されている当ブログについては、当分の間、そのままの状態で保存しておきたいと思います。それ以前の分はすでにUSBなどに移し替えており、現存分は2017年4月20日付から2019年8月9日付までの206回分です。激動する内外情勢や行政と議会の機能不全ぶり、妻の死に翻弄(ほんろう)された一年間のこころの動きなどを読み取っていただければ幸いです。「本質的な議論」の復活を切に望みながら…。

 

 こんな予告(ブログ閉鎖)をしていましたが、今回、市民生活と密接不可分なミステ-まがいの出来事が起きました。元市議としては黙過することはできないと考え、このような事態の発生に際してはその都度「特別企画」として、掲載したいと考えています。賢治の理想郷「イ-ハト-ブ」はいま、存亡の危機に立たされています。行政と議会の動きからは一時も目を離すことはできません。

 

 まさに偶然と言えば偶然なのですが、この追記を書いていたそのさ中、沖縄の米軍基地問題での陳情(7月11日並びに同15日付当ブログ「『陳情不採択』顛末記参照)でお世話になった沖縄在住の「新しい提案・実行委員会」の安里長従代表から,「近く開く報告集会で、この資料を配布していいか。沖縄の地元紙からも問い合わせがあるかもしれないので、その時はよろしく」という電話が入りました。もちろん快諾しましたが、今回の”エアガン”騒動などを含め、当市の動向が全国的な注目を集めていることに、逆にこっちの方がびっくりしてしまいました。

 

 



 

 


 

カント オロワ ヤク サク ノ アランケプ シネプ カ イサム

  • カント オロワ ヤク サク ノ アランケプ シネプ カ イサム

 

 妻が旅立って、7月29日でちょうど1年が経った。あの日も酷暑の夏だった。抗がん剤治療を続けていた妻は見る見るうちにやせ細っていった。「神や仏はいないものなのか」…数年間にわたって、妻を苦しませ続けてきた「病魔」の前に私はなす術もなく、立ち尽くしていた。と、そんなある日、「神さまはいるんだよ」という声が遠音に聞こえたような気がした。

 

 「徘徊する神」―。その神はアイヌの世界で、こう呼ばれていた。アイヌ語訳すると「パヨカ(歩く)・カムイ(神)」となる。長いひげをたくわえたエカシ(長老)がニヤニヤしながら言った。「アイヌは人間の力の及ばないものはすべてカムイだと信じてきた。だから、コタン(集落)を全滅の危機におとしいれる『病気』もれっきとしたカムイなのさ。病気の神さまも自分の役割を果たすのに必死なんだよ。病気をまき散らすためにせっせと歩き回るから、いつも腹をすかせていてな。で、徘徊する神というわけだ。この時の魔除けにもいろいろあるぞ」

 

かつて、アイヌ民族にとっての大敵は「疱瘡(ほうそう)=天然痘」だった。流行の兆しがある時には「どうか私たちのコタンには近づかないで…。これでお腹を満たしてください」と家々から持ち寄った穀物などを火の神(アペフチカムイ)を通じて届けたり、コタンの入り口に匂いの激しいヨモギの草人形を立てたりして、この病気の退散を願った。こんな言い伝えを口にしながら、「でもな、実際にパヨカカムイに取りつかれた時にどうするかだ」とエカシは自慢のひげをもてあそびながら、続けた。「薬だけで治ると思ったら、大間違い。病気の神さまとも仲良く付き合うことが大事なのさ」

 

入退院を繰り返していた別のフチ(おばあさん)からはこんな話を聞かされた。「病気の神よ、私の体の中はそんなに住み心地がいいのかい。でも、あんまり暴れるとワシも痛いから、仲良くしようよ。こう言うのさ」。元気になって退院したフチは今度はすました顔でこう言った。「やれやれ、あの病気の神さまはよっぽど、ワシの体の住み心地が悪いと見えて逃げて行ってしまったよ」―。30年近く前のこの時の取材体験を、私は病臥(びょうが)する妻に聞かせてやりたいと思ったのだった。ウンウンとうなづいていたその表情が一瞬、微笑んだように見えた。息を引き取ったのはその数日後のことだった。刹那(せつな)、ある歌が口からもれた。

 

「若き日 はや夢と過ぎ/わが友 みな世を去りて/あの世に 楽しく眠り/かすかに 我を呼ぶ、オ-ルド ブラック ジョ-/我も行()かん、はや 老いたれば/かすかに 我を呼ぶ、オ-ルド ブラック ジョ-/我も行かん、はや 老いたれば/かすかに 我を呼ぶ、オ-ルド ブラック ジョ-」―。のちにシベリアの凍土で帰らぬ人となった父親を戦地に見送った直後から、当時まだ5歳だった私はアメリカの作曲家・フォスタ-のこの黒人霊歌をつっかえひっかえ、原語で歌うのが習い性みたいになっていた。父親との別れが子ども心にも辛かったのだと思う。その没入ぶりは母親もびっくりするほどだったらしい。

 

Gone are the days when my heart was young and gay…」―。「一周忌」前日の28日、妻と私が幼い時に見物を欠かさなかった浄土宗・勝行院如来堂(市内鍛治町)の宵宮に孫たちを連れて行った。その時に不意に口をついて出たのもこの「オ-ルド ブラック ジョ-」(黒人の老翁・ジョ-)だった。一体、何故だったのか。いまもその理由は判然としない。宵宮のたたずまいが遠い記憶を呼び起こしたのだろうか。ひょっとしたら、世代をまたぐ孫たちに何かを引き継ぎたいという切羽つまった気持ちだったのかもしれない。

 

表題に引用した言葉はアイヌ文学の「ウエペケレ」(昔話)によく出てくる表現で、パヨカカムイもそうであるように、「天から役割なしに降ろされたものはひとつもない」という意味である。妻が他界したその日は私が引退を決めた市議選の投開票日に当たっていた。結婚以来50年―この間、新聞記者や市議会議員という荒っぽい人生の同伴者として、愚痴ひとつこぼすことなくその「役割」を十分に果たしてくれた。逆に、尻込みする私にハッパをかけてくれたりもした。さて、2期8年間の市議生活の歩みと妻亡き後の苦悩の日々を包み隠さず、書き綴ってきた当ブログを今回をもって閉じたいと思う。力尽きて旅立った後、さらに1年間も道連れにしたことを許してほしい。今度こそ、カント(天空)へと真っすぐに舞い戻ってほしいと心から願う。ありがとう、そして、さようなら…。

 

最後に長い間、お付き合いをいただいた皆さま方に感謝を申し上げます。この間、タイトルは宮沢賢治にあやかって「イーハトーブ通信」から「マコトノクサ通信」をへて、現在の「ヒカリノミチ通信」に変わり、延べアクセス数は87万件を超えました。皆さま方の叱咤激励(しったげきれい)がなかったら、途中で挫折していたかもしれません。またいつか、この場でお目にかかることができるのかどうか―。いまはただ、己自身が「パヨカカムイ」にならないよう、いや、このおっかない神さまに付け回されないように自戒を込めつつ、では、お元気で。

 

 

 

(2019年7月29日、亡き妻の一周忌の日に)

 

 

 

(表表紙の写真はアイヌ文化の伝承者、川上まつ子さん(故人)の物語世界を紹介する絵本「白鳥の知らせ」より。何となく、天空を連想させる=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

 

 

城跡…無惨、いまや蚊の発生源に!?

  • 城跡…無惨、いまや蚊の発生源に!?

 

 “お化け街道”と秘かに名づけていた県道298号(山の神西宮野目線=旧国道4号)―その歩道を占拠し続けていた大量の雑草がある日突然、きれいさっぱり除去された。この一帯は「城内」の地名が示すように明治期まで南部藩下の花巻城があった由緒ある土地で、市の中心部に位置する一等地である。戦後、デ-タ通信の先駆けをつくった谷村新興製作所が立地し、現在は宮城県内の不動産業者の所有になっている。梅雨入りした直後から雑草は猛威を振るい始め、周囲の景観を損なうだけではなく、歩行の邪魔になるなどの苦情が私の所にも相次いでいた。

 

 こんな時には「新興跡地」問題を舌鋒鋭く追及し続けてきた本舘憲一議員(花巻クラブ)の力を借りるのが一番手っ取り早い。「ボウフラもわくなど衛生上も問題だ。いまのところ、行政も動く気配がないようだ。この際、市民の代表である議員たちが率先して、草刈ボランティアを立ち上げてはどうか」―。「グッド・アイデア」と本舘さんも大いに乗り気だった。ところが、証拠写真を撮影した2日後の78日、現場付近を通ってみたら、あら不思議(!?)、跡地からはみ出していた大量の雑草がみんな消えてしまっていたという次第。県道を管理する花巻土木センタ-に問い合わせると、「スケジュ-ル通りの除去です」とのこと。「声なき声」が届き、一件落着と喜びたいところだったが、その発生源に目をやって、腰を抜かした。

 

 「城跡、無惨。幽霊屋敷とはこのことか」―。県道を境にした花巻城址のたたずまいは雑草におおい尽くされ、かつてのシンボルの面影さえうかがい知ることはできない。スギナやドクダミなどはその根が地獄の底までつながっていると言われる。そう、まさにこの雑草たちのように、跡地問題の「根」も実に深い。忘れもしない、あれは「あっと、驚く」クリスマスプレゼントだった。

 

 事の発端は5年近く前の平成26(2014)年12月17日にさかのぼる。新興跡地の民間業者への売却計画が浮上し、「公有地の拡大の推進に関する法律」(公拡法)に基づき、花巻市側に取得の優先権が与えられた。譲渡予定価格は敷地内の建物解体費用を含めて約7億7千万と試算されたが、この費用を相殺した結果、実売却額は100万円に設定された。この土地取引について、上田東一市長は「利用目的のはっきりしない案件に市民の大切な税金を投入するわけにはいかない」として、最終的にその年のクリスマスのまさにその日に「拒否」回答をした。この間、私を含む一部の議員の間からは「譲渡先とされる不動産業者は実態が不透明。土地の転売(土地ころがし)などのリスクはないか」などの懸念が出され、当の上田市長自身も「実はその点が心配だ」との認識を示していた。

 

 その後の経過は懸念された通りに展開した。土地を格安で購入した不動産業者はその一部をパチンコ店用地として転売し、ホ-ムセンタ-の建設計画も華々しく打ち上げた。驚くなかれ、「パチンコ万々歳」と市側をバックアップしたのは革新系会派を中心とした議員たちだった。あれから5年―。お化け屋敷と化した新興跡地をめぐっては不動産業者と解体業者の間で契約金不払いの裁判沙汰が起きるなど収拾のつかない状態が続いており、競売にも買い手がつかない“塩漬け”のまま。解体された建物のガラは放置され、付近の住民は蚊の大量発生にも戦々恐々(せんせんきょうきょう)しなければならない。

 

 ふと、「政治決断」とは何か―ということを考えてしまう。5年前のクリスマスの際、「もうひとつのプレゼント」(所有権移転)を市民が手にしていたなら…、そして、将来の利用計画については広く市民に問いかけるという選択をしていたなら……。「たら・れば」が許されるなら、いまの無残な城跡を市民は目にすることはなかったはずである。上田市長の先祖は花巻城の大改修工事(文化6年)の際に指揮をとった上田弥四郎氏(1768―1840)だと伝えられる。儒者としても知られたが、建築関係にも造詣が深く、「造作文士」とも呼ばれた。

 

 「政治家とは将来のリスクまで含めて、時には大胆な決断を強いられる存在ではないのか」―。上田市長は無惨な城跡の光景を日々、どんな気持ちで眺めているのであろうか。後事を託した先祖に対し、どんな思いを巡らせているのだろうか。あるいは「市側もある意味では被害者である」という説得力のない弁明をこれからも続けるつもりなのであろうか……。参議院選挙が終わった荒れ野には無責任政治の残骸があちこちに転がっている。

 

 

(写真は私有地だという理由だけで放置されたままの城跡の雑草。景観だけでなく、衛生上の問題も浮上している=7月8日、花巻市御田屋町で)

 

力(りき)さん、おめでとうございました…そして、本当にお疲れさまでした

  • 力(りき)さん、おめでとうございました…そして、本当にお疲れさまでした

 

 「長い隔離政策の中で培われた予断と偏見、無知的な状況を放置してきた国家の責任、そのことを改めて私たちは問いたい」―。力(りき)さんの、いささかもぶれない凛(りん)とした声は50年前と少しも変っていなかった。国側の控訴断念・勝訴確定を喜ぶハンセン病家族訴訟の原告団長として、困難なたたかいを率いてきた林力(ちから)さん(94)…。親しみをこめて、ずっと「りきさん」と呼んできた兄貴分との久しぶりのテレビでの対面に私は胸にこみあげるものを感じた。半世紀もの時を隔ててなお、私を陰で支え続けてくれている野武士のようなその存在がいま、満面の笑みを浮かべてわが眼前に立っているではないか―。

 

 りきさんが40代半ば、私が20代の後半だった時に2人は初めて出会った。当時、初任地の九州・福岡ではいわれなき差別からの解放を求める「部落解放」運動が各地で盛り上がっていた。東北出身の私にとっては「同和地区」と呼ばれる“部落”はなじみの薄い存在だった。そんなある日、高校教師だったりきさんが福岡県同和教育研究協議会を立ち上げ、その会長職にあることを知った。「差別と貧困のために就学の機会を奪われたおばちゃんたちがいま一生懸命、『あ・い・う・え・お』の勉強をしとるんよ。一緒に行ってみないか」と誘われた。

 

 日本一の産炭地・筑豊の同和地区の片隅で「識字学級」が開かれていることをその時、知った。当時の光景が目にこびりついている。ミカン箱を机代わりにしたお年寄りたちが鉛筆を舐めなめ、紙に向かっていた。「文字を自分の手に取り戻した時、人は生きる喜びを得るのだと思う」と言って、りきさんは一枚の手紙のコピ-を見せてくれた。たどたどしい文字で「夕やけがうつくしい」と書かれていた。「このおばちゃんはね、この手紙を書いて以来、夕焼けが本当に美しく見える…てね。そう言っているんだよ」とりきさん。知り合って数年後、りきさんは同和教育の総括を『解放を問われつづけて』と題する本にまとめた。ペ-ジをめくって驚いた。

 

 「差別にあらがう人たちの突き抜けるような不思議な明るさを見て、父の存在を隠し続ける自分を恥じた。差別された経験がなければ同和問題に取り組むこともなかった」―。文中には父親がハンセン病患者であった赤裸々な告白が記してあった。『「癩者(らいしゃ)」の息子として』、『父からの手紙・再び「癩者」の息子として』、『山中捨五郎記・宿業をこえて』…。私の書棚には茶色に変色した、りきさんの著作が大切に保管されている。本名の馬場広蔵のほか、偽名を含めて林広蔵、山中捨五郎、山中五郎などと名前を隠して生きなければならなかったハンセン病患者の苦難の歴史がこれらの本にはびっしり、詰まっている。

 

 りきさんの人生は13歳になった年の夏、父親がハンセン病療養所「星塚敬愛園」(鹿児島県)に入所したことで一変した。父を見送った数日後、白い服に帽子をかぶった長靴姿の男性たちが家に上がり込み、「消毒」と称して白い粉をまいた。近所の人は窓を閉め切って家にこもり、翌日から口をきいてくれなくなった。周囲の子に「くされの子」と指をさされ、母と一時親類を頼って上京。名字も変えた。だが、父の存在はその後もつきまとった。小学校教師になった20代の頃、同僚の女性を好きになった。だがある日を境に、彼女は目も合わせてくれなくなった。結婚し、生まれた娘にもその存在を隠し、父は孫娘を一目見ることもなく、1962年に星塚敬愛園で亡くなった。

 家族訴訟の判決は6月28日熊本地裁で言い渡され、国の責任を認めた上で元患者家族561人のうち、20人を除いて総額3億7675万円の支払いを命じた。一連のニュ-スを聞きながら、私のまなうらには当時の光景が早送りのコマのように去来した。しり込みする私の首根っこをつかまえて、「差別」の原点へと引っ張り出してくれたりきさんに心からの感謝の気持ちを伝えたいと思った。りきさんは『父からの手紙・再び「癩者」の息子として』のあとがきの中にこう書いている。

 「『売れない、らいの本』を引き受ける出版社はざらにあるものではない。そのうえ、部落問題(同和問題)と重なっていることが出版社をたじろがせた。そのことをはっきり口にしたところもあった。こうして出版社さがしに多くの月日を要した。…増子義久さん(朝日新聞東京本社)などが奔走してくれた」―。いささかなりともお役に立ったかと思えば、今回の「勝利」も自分のことのようにうれしい。ちなみに、この本の出版元は被差別少数者に寄り添う多くの本を刊行してきた内川千裕さん(故人)が立ち上げた旧草風館(東京・神田)である。

 

(写真は勝利の喜びを分かち合う「りきさん」(右端)=7月12日、国会内で。インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

 

 

「陳情不採択」顛末記―会議録から(下)

  • 「陳情不採択」顛末記―会議録から(下)

 

 「辺野古移設が唯一の解決策」―。世界一危険と言われる米軍普天間基地(沖縄県宜野湾市)の返還について、政府は一貫してこう主張している。つまり、この危険性を除去するためには辺野古新基地(名護市辺野古)を建設し、そこへ普天間基地を移設すしかないという「表裏一体論」である。ところが、今回の審査では「(陳情者が求める)辺野古新基地建設の中止と普天間の運用停止は矛盾する内容になっている」という珍妙な議論が展開された。たとえば、櫻井肇委員(共産党)や阿部一男委員(平和環境社民クラブ)は「この(矛盾)論にも一理がある。辺野古と普天間は一体的に捉えるべきだ」などとして、国が主張する「表裏一体論」に見事にはまり込むという体たらくを演じた。結果として、「普天間の固定化につながる」という国の“恫喝”(どうかつ)に屈したとさえいえる。その先に行き着くところは結局は沖縄総体に対する「無知・無関心」である。

 

 基地の増強につながる辺野古新基地の建設中止と普天間基地の運用停止を同時に求めることは何ら矛盾するものではない。むしろ、沖縄の民意が反映された当然の要求でさえある。「世界一危険な普天間基地の今後のあり方について、日米安保の恩恵を等しく受け入れている日本全体として、国民的な議論を盛り上げてほしい」―沖縄からのこうした究極の問いかけは結局、委員たちには届くことはなかった。米海兵隊が駐留する普天間基地も元をただせば、1960年代に本土の反対運動で沖縄に移駐してきたという歴史認識も持ち合わせていなかったようである。一体全体、何のための陳情審査であったのか。「!?」印は意味不明の質疑や意見表明に絶句した際の私のシグナルである。

 

 

【質疑応答】

 

●阿部一男委員(平和環境社民クラブ=社民党系)

 この陳情内容ですが、国民的な議論を通じて、沖縄の基地を全国でも持つべきだ、その負担を肩代わりするような覚悟を持つべきだ(!?)という意味にもなりますか。

●増子

 そういうことじゃありません。実は小金井市議会でもその点が問題になり、内部で議論を重ねた結果「この意見書は米軍基地の国内移設を容認するものではない」という文言を入れることで、採択にこぎつけた経緯があります。つまり、肩代わりが前提ではなく、まず議論をしようではないか、と。沖縄の米軍基地問題を「自分事」として、まず向き合おうじゃないかということです。

●櫻井肇委員(共産党)

 陳情というのは、あなたの個人的な発想で行うものではありません(!?)。議会としては誰に対して責任もって、どういう内容の意見書を提出するのか。そのことに責任を持たなければなりません。地方自治体(地方議会の誤りか!?)がどこに、どういう内容の意見書を出すのか、さっぱり分からないのですが…。

●増子

 どうも話が伝わっていないようですね。(国民的な議論という)沖縄の民意を私は本土に向けられた問いかけであると理解しています。本土に住む一人の人間として、その問いかけに応えるべく、陳情内容を意見書の形にして総理大臣など関係者に提出すべきである、と。桜井さんはどうも誤解しているようですね。

●内館桂委員(市民クラブ)

 沖縄の問題について、私は議員という立場ではなく(!?)、個人として非常に関心を持っています。ただ、当市議会にこの陳情が出されたということは、花巻市民にとってどのような問題を抱えていることになるのか―具体的に説明いただきたい。陳情者に対して、どれだけの花巻市民の賛同が得られているのか、(!!??)、詳しく教えていただきたい。

●増子

 沖縄の民意というのは当然、ご存じのはずだと思います。これは本土の我われに向けられた問いかけであると私は受け止めています。それでさっきの「公益」(当ブログの上を参照)にからんでくるんですけれども…。いわゆる、花巻市民の安心・安全にとって、沖縄の米軍基地はどんな風にかかわりがあるのか、と…。ちょっと、質問の趣旨が分かりません。

●藤原伸委員長(総務常任委員会委員長、明和会)

 参考人からの質問は許されませんので、了承願います。

●増子

 質問の意味が分からないから、聞いたんです。さっき言ったように、日米安全保障条約は日本の全国民の安心・安全を担保するために日米両政府が結んだものです。そういう意味では、花巻市民もこの条約の恩恵に浴している。このことが議論の根幹です。市民の賛同ということに関して、私は知る立場にありません。逆に陳情の趣旨を市民に分かるように説明するのが、議会側の責任、使命ではないでしょうか。

●藤原委員長

 他に参考人への質疑はありませんか。ないようですので、これで質疑は終わります。

 

 

【陳情審査】

●櫻井委員

 辺野古新基地の建設中止と普天間基地の運用停止は矛盾するものではないかという意見が大勢を占めているようで、これも一理あります(!?!?)。この件については、沖縄県と国が誠意をもって協議を行うという意見書を提出するということではどうか。

●鎌田幸也委員(市民クラブ)

 私も矛盾するように思います。ただ、沖縄県民の民意を尊重するという観点から、櫻井委員の意見書提出に賛同します。

●近村晴男委員(花巻クラブ)

 辺野古新基地の建設中止という沖縄県民の民意は理解できます。ただ、普天間基地の運用停止ということまで踏み込めば、日米安保全体の問題になってきます。私たちがちょっと、口を出せない範囲かな(!?)、と思います。

●阿部委員

 辺野古新基地の建設中止と普天間の運用停止ということは、一体的(!?)に考えることもできます。だから、これについては否決ということでも意味は分かると思います。

●内館委員

 この陳情については不採択でいくべきだと思います。地方自治体の自決権など自治体の本旨はどうあるべきなのか―など花巻市民に丁寧に説明していく必要があると思います。私はこの基地問題についてはよく分かりませんが(!?)、市民にとって分かりやすい議論をしながら、これを決めていかなければならないと考えます。

●藤原委員長

 他によろしいですか。盛岡(耕市、明和会)委員、横田(忍、市民クラブ)委員、菅原(ゆかり、公明党)委員もよろしいですね(異議なしの声あり)。これより、採決します。陳情を不採択にすることに賛成の諸君の挙手を求めます。全員、挙手でございます。よって、本陳情は不採択に決しました。

 

 

(写真は東日本大震災直後の議会傍聴席。議員たちがどう対応するのか―に内陸避難者の関心が集まった。満席だった傍聴席はいま閑古鳥。沖縄と同様、震災の記憶もいずこにか…=2011年6月定例会の際の議会傍聴席)