「旧菊池捍」邸と『黒ぶだう』モデル説をめぐるミステリ―(その5=完)…「東日流外三郡誌」の再現か、はたまた第2の「ゴッドハンド」事件か!!??

  • 「旧菊池捍」邸と『黒ぶだう』モデル説をめぐるミステリ―(その5=完)…「東日流外三郡誌」の再現か、はたまた第2の「ゴッドハンド」事件か!!??

 

 「立証」「発見」「明らかに」…。旧菊池捍邸の『黒ぶだう』モデル説の提唱者の各種論考にはこんな断定的な表現が並んでいる。ところが、仔細に読み進めても肝心の宮沢賢治と菊池捍との接点をうかがわせる記述は一切、見当たらない。それどころか「菊池邸は賢治の生家の近く。散歩好きの賢治はこの家の前をしょっちゅう、通ったにちがいない」「いや実際に邸内に入り、内部を見せてもらったこともあったのでは…」―。こんな“憶測”だらけの迷宮をさまよい歩いているうちに、突然、戦後日本を騒然とさせた二つの「捏造」(ねつぞう)事件を思い出した。「モデル説」がこれらの事件と二重写しに重なったのである。余りの唐突さに自分でも驚いてしまった。

 

 「天井裏から落ちてきた」―。1970年代初頭、『東日流外三郡誌』(つがるそとさんぐんし)』なる古文書の存在が世間の話題をさらった。「発見者」は青森県御所川原市在住の和田喜八郎(平成11年没)。ヤマト王権から弾圧されながらも北東北地方にはかつて、独自の文明が栄えていたという、ある種のユートピア「幻想」に彩(いろど)られていた。和田の講演会に足を運んだことがあるという知人はこう話した。「ものすごい熱気。まるで、カルトだった」。この“和田家文書”は『市浦村史/資料編』(北津軽郡市浦村)に収録されるなど和田が亡くなるまで、一部では熱烈な支持を受け続けた。死後、“真贋”(しんがん)論争に発展した結果、専門家の間で“偽書”とみなされ、いまに至っている。

 

 私自身、『黒ぶだう』モデル説を自然に受け入れてきた経緯がある。その背景にあるのは多分、のちに偽書と断定されたものの『東日流外三郡誌』が振りまいたあの“幻想感”と通底するものだったのかもしれない。自由自在に銀河宇宙を飛翔(ひしょう)する賢治作品が好きな私にとって、奇想天外な展開を見せるモデル説は一時期、イーハトーブ「幻想」さえ想起させるに十分だった。ただ一方で、その舞台を旧菊池捍邸に限定しようとするその執拗さにはずっと、疑問符が付きまとっていた。こんな折しも、もうひとつの捏造事件が頭によみがえった、

 

 「旧石器」捏造事件―。平成12(2000)年11月、世間をあっと驚かせる事件が起きた。前期・中期の旧石器時代の遺物(石器)や遺跡とされていたものが実は発掘調査に携わっていたアマチュアの考古学研究家が事前に埋設し、あたかも新「発見」をしたかのように見せかけていた自作自演の事件である。毎日新聞が現場の動画撮影に成功し、発覚した。この間実に約25年間にわたって捏造を繰り返し、学会筋からも“神の手”と持ち上げられ、お墨付きも得ていた。検定教科書の書き換え騒動にまで発展する一方で、この「考古学的大発見」は一時期、まちおこしや観光振興のスローガンにも掲げられ、まるでお祭り騒ぎに沸いたことを覚えている。

 

 イーハトーブ「幻想」と2大「捏造」事件―。上田東一市長が『黒ぶだう』モデル説に疑義を呈する一方で、これをふるさと納税の寄付金獲得の“広告塔”に使っていたことを知るに及んで、私の考えは完全に逆転してしまった(8月17日付当ブログ「これって、官製“詐欺”ではないか」参照)。ふるさと納税の寄付金総額は昨年度90億円の大台を超え、全国で13位にランクされた。トップテンは牛タンなど7種類の食肉加工品が独占、この分だけで寄付金総額のざっと85%を占めている。賢治が理想郷と呼んだ「イーハトーブ花巻」はまるで、“食肉市場”に化してしまったかのようである。賢治は父政次郎宛てにこんな手紙も送っている(要旨=大正7年2月23日付、宮沢賢治全集9『書簡』ちくま文庫)

 

 「その戦争に行きて、人を殺すと云ふ事も殺す者も殺さるゝ者も、皆等しく法性に御座候(先日も屠殺場に参りて見申し候)牛が頭を割られ、咽喉を切られて苦しみ候へども、この牛は元来少しも悩みなく喜びなく、又輝き又消え、全く不可思議なる様の事感じ申し候」―。この手紙を読み返すうちに、上田流“錬金術”がまるであ”神の手”のようにヒラヒラと目の前に舞うような錯覚を覚えた。「許容限度を超えたな」とその時、思った。

 

 「捏造」事件はいずれ、命脈が絶たれることを歴史は証明している。約20年間にわたって、広く受容されてきたこのモデル説もそろそろ。余命が尽きる時なのかもしれない。『黒ぶだう』を下敷きにした動物と人間とのほほえましい交歓劇…こんな“空想”物語だったら、末永くに読み継がれたにちがいない。しかし、場面は急転した。(そんな言葉はないと思うが)賢治の上前をはねるような、これはある種の“空想権”の侵害ではないのか。こんな突飛な思いが頭をかすめた。

 

 最近、こんな話を耳にした。「モデル説がふるさと納税に少しでも貢献しているとすれば、その分、市の財政も潤うことになる。私腹を肥やしているわけではないのだし…」―。いや、事の本質をはき違えることの罪の大きさをこの2大「捏造」事件は教訓として、後世に語り伝えていることを忘れてはならない。このミステリー劇場はここでいったん、幕を下ろす。しかし、わが愛する賢治の”人権”擁護、そしてなによりも菊池捍その人の”名誉”回復のため、これからもペンを握り続けたいと思っている。9月21日、賢治は没後91年を迎える。

 

 

 

 

 

(写真は生前の菊池捍。自邸を舞台とした「黒ぶだう牛」騒動を知ったら、どんな気持ちになるだろうか=インターネット上に公開の写真から)

 

 

 

 

 

《追記ー1》~「牛タン倶楽部」と「牛タン王国」という似た者同士!!??

 

 

 パワハラ疑惑などで断崖絶壁に立たされている兵庫県の斎藤元彦知事と副知事(辞職)を含む側近4人は県職員の間で「牛タン倶楽部」という隠語で呼ばれている。東日本大震災の際、兵庫県は宮城県三陸町に支援職員を派遣した。ちょうどその時、総務官僚として同県に出向していた斎藤知事と4人は急接近し、仙台名物の牛タンに因んでこんな言葉が生まれたという。一方、本場仙台のお株を奪う売り上げを誇る「牛タン王国」の当市のトップ、上田東一市長にも同じようなパワハラ疑惑がずっと、付きまとっている。似た者同士は骨の髄まで“そっくり”さん…

 

 

 

《追記―2》~滝沢市では“市長米”が返礼品に!!??

 

 

 6日付の河北新報(電子版)は岩手県滝沢市の武田哲市長の家族が栽培する米がふるさと納税の返礼品になっていると報じた。これについて、総務省は「法律上は問題ないが、聞いたことがないケースだ」とし、専門家は「税金で買い上げる返礼品なので、倫理的な問題はある」と指摘した。ところで、当ブログのミステリーシリーズで、上田市長が旧菊池捍邸の『黒ぶだう』モデル説について、公式の記者会見の場で疑義を呈した一方で、このモデル説を返礼品「花巻黒ぶだう牛」のキャッチコピ-に使っている問題点を詳細に分析してきた。これって、“市長米”案件より悪質な“虚偽”広告にならないのか。

 

 そういえば、上田市長も事あるごとに「社会規範上は問題はあるが、法律には抵触していない」―が常套句だった。市政運営の最上位に「社会規範(倫理)」を据えることこそが、政治家の矜持(きょうじ)というものではないか。

 

 

「旧菊池捍」邸と『黒ぶだう』モデル説をめぐるミステリ―(その4)…ウソの上塗りと賢治“利権”!!??

  • 「旧菊池捍」邸と『黒ぶだう』モデル説をめぐるミステリ―(その4)…ウソの上塗りと賢治“利権”!!??

 

 「日本中で、いや世界のどこを探しても、二つの玄関を持ち、一方は開かずの(?)玄関だなどという洋館の民家などというものは、他にはありません」(『賢治寓話「黒ぶだう」の素敵な洋館はここです―黒ぶだうメルヘン館ガイドブック』(米地文夫・木村清且編、2016年7月刊)―。旧菊池捍邸の『黒ぶだう』モデル説が一部でささやかれ始めた約10年後、今度は一般向けの豪華なガイドブックが出回った。ウソをウソで塗り固めると、そのウソはウソではなくなるということなのか。モデル説を裏付けるための執拗な傍証固めではないか―手に取った瞬間、そう思った。

 

 世界で”唯一無二”の「菊池捍邸」の建築様式だけでなく、その傍証固めは実に微に入り、細を穿(うが)っている。たとえば、原文に登場する仔牛や赤狐と人間とのブドウの食べ方を比較したり、執筆時期を検証するために賢治が当時、使用した原稿用紙を点検したり…。さらには当時、教科書にのるなど一世を風靡した白樺派の作家、有島武郎の『一房の葡萄』(大正9年『赤い鳥』)を援用。賢治も芸術家集団「白樺派」に心酔していたという根拠だけで、『黒ぶだう』の主人公であるベチュラ公爵のモデルを有島に見立てたり、かと思えば姿かたちがそっくりだとして、菊池捍その人を公爵に仕立て上げたりと…。もう、「牽強付会」(けんきょうふかい)を地で行く勢いである。その背景には一体、何があったのか。

 

 さかのぼること20年以上前の平成15(2003)年夏、所有者の親族から菊池捍邸を手放したいという意向が示された。これを知った郷土史家や地元住民の間から「由緒ある建物。ぜひ市で買い取って」という保存運動(「菊池捍邸を守る会」)が自然発生的に起こった。当時、私もその運動にかかわり、署名運動に走り回ったことを昨日のことのように覚えている。結局、市側は財政難や他の文化財との兼ね合いなどから取得に難色を示し、「守る会」も4年足らずの運動に幕を下ろした。「まちおこしの起爆剤に」―。単なる保存運動から、賢治作品との関係性を強調した「モデル説」がまたたく間にもてはやされるようになった。

 

 冒頭に紹介したガイドブックに「賢治の『黒ぶだう』からおいしい味も生まれる」というタイトルで、次のような記述がある。「花巻を舞台に書かれたということがわかり、物語が地域の人々に知られるようになりました。そして新しい味も誕生しました。平成24年(2012年)12月、花巻に新しいブランド牛が生まれました。その名も『黒ぶだう牛』です。もちろん、種子まで噛んで食べた『黒ぶだう』の仔牛からとった名前と肥育法によるものです」

 

 この冊子の編集協力者には花巻商工会議所や宮沢家なども名前を連ねている。本家筋の生家を含めた町ぐるみの賢治”利権”…これに群がる人脈の構図が目に浮かんでくる。その極め付きがふるさと納税返礼品へのノミネートであろう。賢治に対するこれ以上の“冒涜” (ぼうとく)があろうか。ガイドブックはこんな文章で閉じられている。読んだ瞬間、体が凍りついてしまった。「自分の作品に因むブランド牛をつくり出したことを賢治が知ったら、きっと喜んでホッホーと飛び上がったことでしょう」―。大正7(1918)年5月19日付で、賢治は盛岡高等農林学校(現岩手大学)時代の友人、保阪嘉内にこんな手紙を送っている。

 

 「私は春から生物のからだを食ふのをやめました。食はれるさかなが、もし私のうしろに居て見てゐたら、何と思ふでせうか。魚鳥が心尽くしの犠牲のお膳の前の不平に、これを命(いのち)とも思はず、まづいのどうのと云ふ人たちを、食はれるものが見てゐたら何と云ふでせいか。私は前にさかなだったことがあって、食はれたにちがひありません。又屠殺場の紅く染まった床の上を豚がひきずられて、全身あかく血がつきました。これらを食べる人とても何とて、幸福でありませうや」(要旨=宮沢賢治全集9『書簡』、ちくま文庫)

 

 

 

 

(写真は旧菊池捍邸の『黒ぶだう』モデル説を広めるきっかけになったガイドブック)

 

 

 

「旧菊池捍」邸と『黒ぶだう』モデル説をめぐるミステリ―(その3)…「わき(脇)玄関」というナゾ解き!!??

  • 「旧菊池捍」邸と『黒ぶだう』モデル説をめぐるミステリ―(その3)…「わき(脇)玄関」というナゾ解き!!??

 

 「この公爵別荘の西洋館のモデルが花巻・菊池捍(まもる)邸であった。…特にわき玄関は、通常の西洋館の民家にはないものである。この地方の上級武士や豪商・豪農の家屋は、通常用いるわき(脇)玄関と高貴な身分の客を通す本玄関とが別であったので、菊池邸の場合には、昔からの伝統を、洋風建築であるにも拘(かか)わらず、取り入れている。その菊池邸をモデルとしたため、(宮沢賢治の)『黒ぶだう』の洋館にも『わき玄関』があるのである」―(「賢治童話『黒ぶだう』の西洋館モデルとしての花巻・菊池邸の発見(要約)=「花巻市文化財調査報告書第32集」、花巻市教育委員会編、2006年3月」

 

 長々とした引用になったが、原文中の「赤狐はわき玄関の扉(と)のとこでちょっとマットに足をふいてそれからさっさと段をあがって家の中に入りました」―という部分についての論考で、旧菊池捍邸が『黒ぶだう』のモデルとされるようになった初出の根拠である。ひと言でいうと「まず、菊池邸ありき」…この寓話は賢治が菊池邸を現認したのがきっかけで誕生したという論理立てである。論文の共同執筆者である賢治研究家の米地文夫氏(故人)と花巻市文化財調査委員の木村清且氏は膨大な資料を駆使しながら、モデル説を構築している。たとえば、両氏は北海道型西洋館に「わき玄関」がなかった例として、札幌の洋風邸宅(明治18年ごろの建立)を紹介している(出典は越野武著「北海道における初期洋風建築の研究」、北海道大学図書刊行会1993年)

 

 しかし、その一方で同じ著者は明治5年(6年説も)に竣工した「ガラス邸」と呼ばれる開拓使の官舎(勅奏邸)も例示し、こう記している。「最初は長官滞在中の宿舎などにあてられた最大規模のものである。表玄関、脇玄関を構え、客座敷をそなえた中級武家住宅に他ならない」(越野武著「札幌生活文化史(明治編)」、札幌市教育委員会文化資料室編、1985年)―。モデル説の提唱者とされる両氏がなぜ、こうした事例に言及しなかったのか。

 

 建築主の菊池捍(明治3年=1860年~昭和19年=1944年)は札幌農学校(現北海道大学)に学び、台湾やスマトラ勤務を除く人生の大半を農業技術者として、北海道で暮らした。この間、菊池自らも西洋風の洋館に居住しており、脇玄関つきの構造を熟知していたはずである。だから、余生を送るためのふるさとの家に脇玄関を取り付けたのはけだし、当然の成り行きだったのであろう。大正15(1926)年、待望の菊池捍邸が完成した。同じ年、もう一人の「主役」である賢治は花巻農学校の教職を辞し、農業技術の普及や芸術の啓発を目的とした「羅須地人協会」の設立に奔走(ほんそう)していた時期に当たる。

 

 その賢治は生前、北海道を3回旅行している。1回目は大正2(1913)年、旧制盛岡中学5年の時の修学旅行で、道南地方を中心とした1週間の旅程。2回目は大正12(1923)年7月31日から8月12日まで道内を縦断し、樺太(サハリン)まで足をのばしている。妹トシの追憶を兼ねた樺太行である。この翌年には6泊7日の日程で生徒たちの修学旅行を引率。菊池捍の義兄に当たる北海道帝国大学(当時)の初代総長、佐藤昌介を表敬訪問している。洋風にあこがれ、好奇心が旺盛な賢治がこの旅程の中で、あちこちに林立する洋風建築に目を奪われなかったはずはない。

 

 『黒ぶだう』の執筆時期はこれまで「大正12年」前後と言われてきた。北海道旅行で見聞した事物を賢治の持ち味である想像力を駆使して、一気に書き上げたのがこの掌編ではないのかーというのが私自身の見立てである。活動拠点となった羅須地人協会の建物は窓ガラスをふんだんに使った開放的な作りになっている。ひょっとして、賢治は旅の途次、札幌にあった脇玄関つきのガラス邸を実際に目にしていたのかもしれない。

 

 版画家の「たなかよしかず」さんの作品『黒葡萄』(原作は賢治の「黒ぶだう」、未知谷刊)の発行日はモデル説が一般に流布(るふ)される3年前。ページをめくってびっくりした。現存する旧菊池捍邸と見まごう洋館が目に飛び込んできた。ハイカラで牧歌的な風景こそが北の大地の象徴だったことをこの版画の数々は物語っている。逆に言えば、賢治は菊池邸を見聞する機会がなくても『黒ぶだう』を作品化できたのであり、現にそうであろうというのが私の確信めいた結論である。

 

 

 あらゆる状況証拠(傍証)を重ねながら、旧菊池捍邸の『黒ぶだう』モデル説を構築しなければならなかった理由が別にあったのではないか…「ミステリー」はますます、深まるばかりである。

 

 

 

 

 

(写真は現存する旧菊池捍邸の「脇玄関」。通用門として、家人や親しい人たちが日常的に出入りした。本玄関は普段は使われず、”開かずの玄関”とも呼ばれた=花巻市御田屋町で。敷地外からズーム撮影)

 

 

 

 

《追記ー1》~チグハグな危機対応、男やもめのため息を聞いてくれ!!??
 

 

 30日午後、花巻市全域に土砂災害警戒警報や高齢者などに避難を呼びかける「警戒レベル3」が大迫町亀ヶ森、内川目地区に発令されたのに伴い、9月3日に宮野目体育センタ—で予定されていた胃がん検診が翌日に延期されるなど災害対応に大わらわと思いきや…。31日から9月1日にかけて宮沢賢治童話村で開催予定の賢治関連のイベント「イーハトーブフェスティバル2024」は予定通りの開催に向けて準備中とのHP告知(最終判断は当日正午)。北上川の増水を遠目に見ながら、足がヨボヨボな男やもめは「どうしたらええんじゃ」とため息をつくばかり。

 

 

 

《追記ー2》~高齢者避難指示が発令される中、「イーハトーブフェス」は強行。そんな中、雷注意報も!!??

 

 

 「対象地域では命に危険が及ぶ災害がいつ発生してもおかしくない非常に危険な状況となっています」―。31日から9月1日にかけて開催される「イーハトーブフェスティバル2024」は初日のこの日午後3時、予定通りにオープンした。ちょうど同じ時刻、高齢者などへの避難を指示する緊急メールが届いた。市内3地域が指定され、その中には「フェス」が始まった宮沢賢治童話村に隣接する「矢沢地区」も含まれていた。

 

 さらに、気象庁は今月28日から当市全域に雷注意報を発令し、とくに野外でのイベントなどへの注意を喚起してきた。今年春には宮崎市内で雷注意報を知らずにサッカ―の練習試合中、落雷で部員が救急搬送される事故があった。大雨警報(土砂災害)が発令される中での今回の雷注意報。大会関係者の危機意識の欠如がさらけ出された形だ。こんな災害最前線で「フェスにどうぞ」と呼びかけるこの倒錯した神経が理解できない。入場無料というパフォーマンスもその魂胆はミエミエ。

 

 そう言えば、この作法は「金集め」には手段を選ばないという上田流”錬金術”(8月17日付当ブログ参照)と見事なまでに通底している。これが「イーハトーブ花巻」のトップ(上田東一市長)の姿である。この人って、兵庫県の知事のあの人とそっくり。本当に往生際が悪いなぁ…

 

 

「旧菊池捍」邸と『黒ぶだう』モデル説をめぐるミステリ―(その2)…Corresponds to the original(ミステリーを解明するためにはまず、原典に当たれ)!!??

  • 「旧菊池捍」邸と『黒ぶだう』モデル説をめぐるミステリ―(その2)…Corresponds to the original(ミステリーを解明するためにはまず、原典に当たれ)!!??

 

 (旧菊池捍邸の『黒ぶだう』モデル説に疑義を呈した)上田(東一)市長「発言」をずっと、引きずっている(8月17日当ブログ参照)。で、「そんな時は原典に」というわけで、十数年ぶりに宮沢賢治の掌編『黒ぶだう』を手に取ってみた。仔牛(こうし)がキツネに出会い、誘われて無人のベチュラ公爵の別荘に入り込む。二階に上り、テーブルの黒ブドウを食べていると、公爵らが帰宅。キツネは素早く逃げ出すが、仔牛は取り残されてしまう。

 

 広大な牧場の周りで(キタ)キツネがはね回っている。白樺林が続く道の向こうにはしゃれた洋館の二階建が…。北海道勤務が長かったせいか、読後に目に浮かんだのは北の大地に広がるこんな風景だった。ある意味、目に沁みついた記憶である。ところで、仔牛はとがめられるどころか、幸せのシンボルである“黄色いリボン”を巻いてもらう。ほのぼのとしたラストシーンである。

 

 さて、このミステリー劇場での仔牛の運命はいかに…。黒ぶだう牛を食べたことがある人でも案外、この寓話を読んだことのある人は少ないかもしれない。そこで、皆さんと一緒に考えを巡らしてみたいと思う。では、ご一緒に。

 

 

 仔牛が厭(あ)きて頭をぶらぶら振ってゐましたら向ふの丘の上を通りかかった赤狐(あかぎつね)が風のやうに走って来ました。「おい、散歩に出ようぢゃないか。僕がこの柵(さく)を持ちあげてゐるから早くくぐっておしまひ。」仔牛は云(は)はれた通りまづ前肢(まえあし)を折って生え出したばかりの角を大事にくぐしそれから後肢をちゞめて首尾よく柵を抜けました。二人は林の方へ行きました。
 

 狐が青ぞらを見ては何べんもタンと舌を鳴らしました。そして二人は樺(かば)林の中のベチュラ公爵の別荘の前を通りました。ところが別荘の中はしいんとして煙突からはいつものコルク抜きのやうな煙も出ず鉄の垣(かき)が行儀よくみちに影法師を落してゐるだけで中には誰(たれ)も居ないやうでした。そこで狐がタン、タンと二つ舌を鳴らしてしばらく立ちどまってから云ひました。
 

 「おい、ちょっとはひって見ようぢゃないか。大丈夫なやうだから。」犢(こうし)はこはさうに建物を見ながら云ひました。「あすこの窓に誰かゐるぢゃないの。」「どれ、何だい、びくびくするない。あれは公爵のセロだよ。だまってついておいで。」「こはいなあ、僕は。」「いゝったら、おまへはぐづだねえ。」
 

 赤狐はさっさと中へ入りました。仔牛も仕方なくついて行きました。ひひらぎの植込みの処(ところ)を通るとき狐の子は又青ぞらを見上げてタンと一つ舌を鳴らしました。仔牛はどきっとしました。赤狐はわき玄関の扉(と)のとこでちょっとマットに足をふいてそれからさっさと段をあがって家の中に入りました。仔牛もびくびくしながらその通りしました。
 

 「おい、お前の足はどうしてさうがたがた鳴るんだい。」赤狐は振り返って顔をしかめて仔牛をおどしました。仔牛ははっとして頸(くび)をちゞめながら、なあに僕は一向家の中へなんど入りたくないんだが、と思ひました。「この室(へや)へはひって見よう。おい。誰か居たら遁(に)げ出すんだよ。」赤狐は身構へしながら扉をあけました。
 

 「何だい。こゝは書物ばかりだい。面白くないや。」狐は扉をしめながら云ひました。支那(しな)の地理のことを書いた本なら見たいなあと仔牛は思ひましたがもう狐がさっさと廊下を行くもんですから仕方なく又ついて行きました。「どうしておまへの足はさうがたがた鳴るんだい。第一やかましいや。僕のやうにそっとあるけないのかい。」狐が又次の室(へや)をあけようとしてふり向いて云ひました。
 

 仔牛はどうもうまく行かないといふやうに頭をふりながらまたどこか、なあに僕は人の家の中なんぞ入りたくないんだ、と思ひました。「何だい、この室はきものばかりだい。見っともないや。」赤狐(あかぎつね)は扉(と)をしめて云ひました。僕はあのいつか公爵の子供が着て居た赤い上着なら見たいなあと仔牛は思ひましたけれどももう狐がぐんぐん向ふへ行くもんですから仕方なくついて行きました。
 

 狐はだまって今度は真鍮(しんちゅう)のてすりのついた立派なはしごをのぼりはじめました。どうして狐さんはあゝうまくのぼるんだらうと仔牛は思ひました。「やかましいねえ、お前の足ったら、何て無器用なんだらう。」狐はこはい眼をして指で仔牛をおどしました。
 

 はしご段をのぼりましたら一つの室があけはなしてありました。日が一ぱいに射(さ)して絨毯(じゅうたん)の花のもやうが燃えるやうに見えました。てかてかした円卓(まるテーブル)の上にまっ白な皿(さら)があってその上に立派な二房の黒ぶだうが置いてありました。冷たさうな影法師までちゃんと添へてあったのです。「さあ、喰べよう。」狐はそれを取ってちょっと嗅(か)いで検査するやうにしながら云ひました。
 

 「おい、君もやり給(たま)へ。蜂蜜(はちみつ)の匂(にほひ)もするから。」狐は一つぶべろりとなめてつゆばかり吸って皮と肉とさねは一しょに絨鍛の上にはきだしました。「そばの花の匂もするよ。お食べ。」狐は二つぶ目のきょろきょろした青い肉を吐き出して云ひました。「いゝだらうか。」僕はたべる筈(はず)がないんだがと仔牛は思ひながら一つぶ口でとりました。
 

 「いゝともさ。」狐はプッと五つぶめの肉を吐き出しながら云ひました。仔牛はコツコツコツコツと葡萄(ぶだう)のたねをかみ砕いてゐました。「うまいだらう。」狐はもう半ぶんばかり食ってゐました。「うん、大へん、おいしいよ。」仔牛がコツコツ鳴らしながら答へました。そのとき下の方で「ではあれはやっぱりあのまんまにして置きませう。」といふ声とステッキのカチッと鳴る音がして誰(たれ)か二三人はしご段をのぼって来るやうでした。
 

 狐はちょっと眼を円くしてつっ立って音を聞いてゐましたがいきなり残りの葡萄の房を一ぺんにべろりとなめてそれから一つくるっとまはってバルコンへ飛び出しひらっと外へ下りてしまひました。仔牛はあわてて室の出口の方へ来ました。「おや、牛の子が来てるよ。迷って来たんだね。」せいの高い鼻眼鏡(はなめがね)の公爵が段をあがって来て云ひました。
 

 「おや、誰か葡萄なぞ食って床へ種子(たね)をちらしたぞ。」泊りに来て居た友だちのヘルバ伯爵が上着のかくしに手をつっこんで云ひました。「この牛の仔にリボン結んでやるわ。」伯爵の二番目の女の子がかくしから黄いろのリボンを出しながら云ひました。

 

(『宮澤賢治全集6』の「黒ぶだう」から=ちくま文庫)

 

 

 

 

 

(写真は共同通信の新聞連載「黒ぶだう」のイラスト=インターネット上に公開の「いっちゃんのイラスト」から)

 

 

 

《追記》~「想像の王国」(第23回=2013年=宮沢賢治賞受賞の富田勲さんの言葉)

 

 「作曲家の冨田勲さんは毎冬、ハワイのマウイ島に残る日本人移民の墓を訪れた。苛酷(かこく)な農場労働を強いられ、故郷への思慕の中で亡くなっていったあまたの人々の痛みを冨田さんは自ら己の心に刻もうとした。煤(すす)けた墓標に手を合わせていると、宮沢賢治の『雨ニモマケズ』や『よだかの星』がきこえたという。戦時中、自分に想像の王国のありかを教えてくれたのが賢治だった」(8月25日付朝日新聞コラム「日曜に想う」から)

 

 

 

 

 

 

 

 


 

「旧菊池捍」邸と『黒ぶだう』モデル説をめぐるミステリ―(その1)…”打ち出の小槌”と宙に浮く文化財行政!!??

  • 「旧菊池捍」邸と『黒ぶだう』モデル説をめぐるミステリ―(その1)…”打ち出の小槌”と宙に浮く文化財行政!!??

 

 「本計画に基づき、文化財の適切な整備や情報収集、将来的な文化財の保存・活用基盤づくり、市民の参画などを中心に事業の展開を図ります」―。当市は今年度から13年度までの8年間を計画期間とする「花巻市文化財保存活用地域計画」(略称「地域計画」)を策定し、将来構想をこう記した。この計画は文化財保護法に基づく制度で、当市は昨年12月時点で、県内で初めて国によって認定された。一方、宮沢賢治の寓話『黒ぶだう』のモデルとされる旧菊池捍邸は昨年8月、国の「登録有形文化財」に登録され、新たな利活用の場としての位置づけが固まった。

 

 「伝統芸能や講演会、落語会、ライブなどを通じて、市民が伝統文化に触れる機会を今後も創出するほか、市民参加型のイベントなどを開催する」―。旧菊池捍邸の利活用について、「地域計画」の中では具体的にこう明記されている。同邸宅の所有権は現在、親族の手から第三者の手に移っているが、農業技術者だった菊池捍(まもる)の生誕150周年を記念した「内覧会とゆかりの人々展」が3年前に盛大に開催された。しかし、その後は見学希望者に開放される程度でいつも閑散とした状態が続いている。市側とのかかわりについて、佐藤勝教育長は「主体はあくまで建物の所有者やその関係者。市はお手伝いをする程度」と冒頭の勢いはない。

 

 その旧菊池捍邸がふるさと納税の“広告塔”として、利用されてきた経緯についてはすでに触れた(7月27日付と8月17日付当ブログ参照)。こんな折しも「ふるさと納税/文化事業救えるか」(8月20日付朝日新聞)という見出しの記事が目に飛び込んできた。人気の美術家、村上隆さんが洛中洛外図や風神図、雷神図などの伝統絵画を扱った「村上隆/もののけ/京都展」(京セラ美術館で開催中)を開催するに当たって、ふるさと納税を活用した資金集めをした結果、個人と企業向けを合わせて総額7億円以上が集まったという内容だった。

 

 「90億6千万円」―。とっさにこの数字が頭をよぎった。当市の令和5年度のふるさと納税の寄付総額である。全国市町村(1735団体)の中で堂々の第13位のランキングにつけている。返礼品の人気商品のひとつ「花巻黒ぶだう牛」も寄付金獲得にそれなりの貢献をしているはずである。であるなら、そのブランド名に付加価値を付けるための“広告塔”とされてきた旧菊池捍邸の「保存活用」(「地域計画」)に対し、幾ばくかの寄付金を向けてもいいではないか。村上流の「文化」再生の手法にウンウンとうなずきながら、そう思ったのだったが…

 

 当の文化財担当トップの佐藤教育長は「そんな形で旧菊池捍邸が利用されているとは知らなかった。いずれにせよ、私たち教育部門は文化財としての価値を評価する立場にあるので…」とボソボソ。気がつくと、上田東一市長がひとりで、“打ち出の小槌”をぶんぶん振り回しているではないか。旧菊池捍邸から歩いて数分の同じ地区内に瓦礫(がれき)の荒野が茫々(ぼうぼう)と広がっている。上田“失政””の負の遺産である花巻城址(旧新興製作所跡地)の無残な姿である。映画館ひとつもない文化が果つる地―賢治が「夢の国」とか「理想郷」と呼んだ「イーハトーブ」のこれがなれの果てである。ベジタリアン(菜食主義者)を自称した賢治のことをふと、思い出した。その名も『ビジテリアン大祭』と題する作品にこんな一節がある。

 

 「あらゆる動物はみな生命を惜(おし)むこと、我々と少しも変りはない、それを一人が生きるために、ほかの動物の命を奪って食べるそれも一日に一つどころではなく百や千のこともある、これを何とも思わないでいるのは全く我々の考が足らないので、よくよく喰(た)べられる方になって考えて見ると、とてもかあいそうでそんなことはできないとこう云う思想なのであります」

 

 

 

 

 

(写真は催しも少なく、閑散とした旧菊池捍邸。右側の突き出た部分が本玄関。まだ残っている「菊池」の表札が往時をしのばせる=花巻市御田屋町で)