八向山の断崖(八向楯)の中腹は、平安時代、京都政府から従五位下を与えられた矢向神社があり、国を鎮める神として、また最上川の舟人を守る神として広く信仰されてきた。矢向楯の跡がある。尾根筋を二重、三重に断ち切り、本丸・二の丸・三の丸の郭を区画したという。
2007.05.13:m-mogamiコメント(0)::[メモ/[ビューポイント] ] |
慶長年間(1596〜1615)、大石田河岸は、山形藩主・最上義光が整備。酒田から大舟で運んだ荷を上流用の小舟に積みかえる主要河岸となった。江戸時代初期には、尾花沢の延沢銀山の繁栄により、銀山で働く人々の生活物資の集散地に。さらに西回りの航路の整備により、幕府領の年貢輸送の起点・機軸となっていった。元禄16年(1703)には、大石田に301艘以上の川船があったと記録され、寛政4年(1792)に川船役所も設置された。
歴史ある町並みを洪水から守るため、昭和40年から最上川の両岸に特殊堤防を整備。さらに町並みとの調和を図るため、平成3年〜7年にかけて、壁面に当時をしのぶ当時の様子を描いた。水面近くまで階段で下りて、対岸の景色が楽しめるようにもなっている。 [問い合わせ] 0237-35-2111 (大石田町産業振興課) 詳しくはこちら |
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