最上川リバーツーリズム(最上エリア)

八向山の断崖(八向楯)の中腹は、平安時代、京都政府から従五位下を与えられた矢向神社があり、国を鎮める神として、また最上川の舟人を守る神として広く信仰されてきた。矢向楯の跡がある。尾根筋を二重、三重に断ち切り、本丸・二の丸・三の丸の郭を区画したという。
本合海は、最上川の中流、八向山の白い壁にぶつかって西に大きく流れを変える場所。東からは、新田川が合流する。この2つの川が合うところ、それが「合海」。慶長年間に領主清水氏が、河岸の発展を図り、舟扱いに慣れた合海の人々を彼の地に移した。そこは現在の大蔵村の合海になるが、元々の本家の「合海」が「本合海」を称するようになったというのが、本合海の地名の由来である。

義経記によれば「矢向の大明神を伏拝み奉り、相川の律に著き給ふ」とあり、源義経が平泉に逃れる際、最上川をさかのぼり本合海の地に上陸した。本合海は、最上川・新田川の合流点(相川の律)として出羽・陸奥を結ぶ要衝の地であった。

そして、松尾芭蕉も本合海を訪れた。新庄に2泊した後、本合海から最上川を下り、羽黒山に向かったという。曾良の『随行日記』には新庄や本合海のことについて詳しく記されている。また、正岡子規、幸田露伴、大橋乙羽も本合海を訪れた。
慶長年間(1596〜1615)、大石田河岸は、山形藩主・最上義光が整備。酒田から大舟で運んだ荷を上流用の小舟に積みかえる主要河岸となった。江戸時代初期には、尾花沢の延沢銀山の繁栄により、銀山で働く人々の生活物資の集散地に。さらに西回りの航路の整備により、幕府領の年貢輸送の起点・機軸となっていった。元禄16年(1703)には、大石田に301艘以上の川船があったと記録され、寛政4年(1792)に川船役所も設置された。
歴史ある町並みを洪水から守るため、昭和40年から最上川の両岸に特殊堤防を整備。さらに町並みとの調和を図るため、平成3年〜7年にかけて、壁面に当時をしのぶ当時の様子を描いた。水面近くまで階段で下りて、対岸の景色が楽しめるようにもなっている。

[問い合わせ] 0237-35-2111 (大石田町産業振興課)

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三方をゆるやかな丘陵に囲まれた灌漑用地。その工事のときに歌われた土搗節が「花笠音頭」のもと歌だといわれ、花笠音頭発祥の地と呼ばれている。湖畔には、オートキャンプ場のほか、レストラン、温泉宿も整備され、尾花沢のリゾートスポット。春には湖の周りに植えられた約100本のソメイヨシノが美しく咲き乱れる。

[問い合わせ]  0237-22-1111(商工観光課)

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丹生川ふれあい広場は、中心部に近く、丹生川中流の河原にある。散策路のほか、中州のように川の中央付近に、スペースが設けられ、水面まで下りられるように整備されている。

樹齢250年、樹高59メートル。伐採を目的として植林された人工林の杉としては、日本最大級といわれる。


[問合せ] 0233-52-2111(金山産業課)
[住 所] 金山町有屋大美輪
[交 通] JR新庄駅から車で30分
 
大石田町豊田地区 
最上川右岸 桜づつみ
大石田町大字川前字ハケツ山
(川前観音堂境内)左岸
町の中心部をめぐる水路で、役場すぐを流れる堰を大堰と呼ぶ。戦国時代の末期ごろに開削されたのがはじまりで、その後農業用水、生活用水として利用された。総延長2564メートル。雑割石組みでできており、脇に整備された石畳の散策路や水路沿いの町並みと調和し、落ち着いた雰囲気をかもし出している。金山川近くのめがね堰にも放流している。