ぼくのニワトリは空を飛ぶー菅野芳秀のブログ

誰にでも思い出深い歌がある。私にとっては加藤登紀子さんが歌う「生きてりゃいいさ」。それにはこんな経緯があった。他人の思い出など知りたくもないよと言う方もおいででしょうが、ま、いいじゃないですか。



コメの「減反政策」(「第二次生産調整」)が始まったのは1977年のことで、私はまだ26歳。前の年に父の後を継いで百姓になったばかりだった。
農水省の示した減反計画は40万ヘクタール。この面積は当時の全九州の水田面積に匹敵する。この大変な規模のコメを一挙に減らし、飼料作物や大豆などへの転作を促進しようとした。減反すれば補助金を出すが、しなかったなら罰則を科すと言う。この政策は、当時、誇りをもって土を耕していた若い後継者(たち)の自尊心を大いに傷つけた。
政策の背景には、食管制度の廃止とコメへの市場経済の導入、あわせてアメリカ小麦への市場提供を意図する狙いもあったに違いない。今から振り返えれば、この政策は戦後農政の大きな転換点だった。
その後、食管制度が廃止。小麦のみならずコメの大量輸入も行われ、米価は生産原価を切る価格まで値を下げた。農家はやる気を失い、後継者は農外に就職し、農家の高齢化が進んだ。自給率も落ち込み、日本は国民の食糧の多くを海外の田畑に依存するようになった。こうなる前にこの国をどう作っていくのか、もっともっと丁寧な国民的議論が必要だった。日本はいつもそうなのだが、なぜもっと事態を丁寧に説明し、時間をかけた議論ができなかったのかと悔しく思う。

さて、当然のことのように私は「減反」を拒否した。事は国の政策への異議申し立てなのだが、現実には推進する立場の農家と、反対する農家との対立となる。昨日までともに農業を良くしたいと協力してきた仲間だった。多くの農家は矛を収めた。私は村で孤立した。
妻のお腹には新しい生命が宿っていた。この子(たち)のためならば頑張れる。しかし、子どもは産声を上げることはなかった。俺はもうだめかもしれない・・・。
そんなある日、宮城県南郷町の若手の百姓達から「加藤登紀子コンサート」への招待状が届いた。私の孤立を知ってのことだと言う。その気持ちがありがたく、友人と一緒に出かけた。
川島英五作詞・作曲
(1)♪君が悲しみに心を閉ざしたとき、思い出してほしい歌がある
人を信じれず、眠れない夜にはきっと思い出してほしい
生きてりゃいいさ、生きてりゃいいさ、
そうさ、生きてりゃいいのさ
喜びも悲しみも立ち止まりはしない
めぐりめぐっていくのさ
手のひらを合わせよう、ほらぬくもりが君の胸に届くだろう

(2)♪一文無しで街をうろついて、野良犬と呼ばれた若い日も
心の中は夢で埋まってた。やけどするくらい熱い思いと
生きてりゃいいさ、生きてりゃいいさ
そうさ、生きてりゃいいのさ
喜びも悲しみも立ち止まりはしない
めぐりめぐっていくのさ
手のひらを合わせよう、ほらぬくもりが君の胸に届くだろう・・

途中から肩が震えて止まらない。熱いものがどんどん込みあげてくる。涙が堰を切ったようにあふれだし、滴り落ちる。嗚咽が止まらない。
生き方を探して煩悶していた青春の日々。農民として生きることを決めたこと。両親とともに農業を始め、建設現場で働いた日々。減反拒否、そして子どもの死・・。様々なことが走馬灯のように頭を駆け巡っていた。「菅野さん、大丈夫ですか?」
俺が普通でないことを見た南郷の友人がそばに寄ってきたが、それ以上声をかけずに戻って行った。
 
それから約30年後の2008年。千葉県の鴨川にある加藤紀子さんたちが主催する「自然王国」で話をする機会をいただいた。楽屋では加藤さんと二人だけ。思い切ってあの時のことを話した。するとギターを持ってそっと歌いだした。
「君が悲しみに心を閉ざしたとき・・・」
あの歌だ。再び涙があふれてきた。

この歌は今も私を支えている。

月間「地域人」35号(大正大学出版会発行・2018・7月)
所収 拙文


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