himasinagara;LaBlog
▼感動という病
とても素晴らしいblogを見つけたので紹介します。
ちょっと長いですが、リンクするのはちょっと憚られたので、引用。
日本中を悪霊が徘徊している。それは「感動」という名の悪霊である。
……とは、マルクス・エンゲルスの『共産党宣言』の有名な冒頭の句
のパクリだが、今の版の訳では「ヨーロッパに幽霊が出る,共産主義と
いう幽霊である。 古いヨーロッパのすべての強国は、この幽霊を
退治しようとして神聖な同盟を結んでいる」とくる。
んで、今の日本では、その徘徊する霊を退治しようとする
神聖同盟などどこにもなく、それを蔓延させようと努力してる人しか
いない気がするんだわ。
TVで流される「感動」ドキュメントというのは、情に訴える
音楽とナレーション(音楽は概ね、流用モノ)と、やたらアップに
こだわるカメラワークという、どれもこれもこれでもかこれでもかと
ばかりに、「さあ、感動しなさい」とこちらに押しつけて来る。
そのためにどれだけのやらせが動き、どれだけの事実が踏み
にじられているかなど、あの節操のない映像を見ていれば簡単に
想像がつこうってもんでしょ。
まるで、こう言ってるみたいだもん。
ここまで道筋を作ってあげたんですよ、
後はあなたが泣けばいいだけよん。楽でしょ? 簡単でしょ?
考えないでも、感動できるでしょ?
涙を流すのって気持ちいいですもんね。そりゃあしょぼいもんでも、
一種のカタルシスですからね。さあ、泣きましょう。
そのためにここまで盛り上げてあげたんだから、さあ、どうぞ。
泣いてすっとしましょう。そうして。
自分は「感動できる心をもっている」いい人なんだと再確認しましょう。
そして、それで泣く人は結構多いんだ。TVだけでなく、
新聞だって出版だってそうじゃない。
みんな泣かせたがってるじゃない。みんな感動させられたがってる
じゃない。それもおそろしくわかりやすい、後は泣くだけシステムで
感動したがってるじゃないのさ。だって、売れるじゃないのさ、
そういうもん。現実に、「プロジェクトX」だって視聴率高かったじゃない。
感動ってのは、一番売れる商品なのよ、今。
そいで、売りつけている物が「感動」だから、出す側も
受け入れる側も健やかな思考停止に陥っている。これも私がいつも
考え込むように、動機があっけらかんと手段を正当化している。
それってええんか?
だって、こうしてことさらな感情刺激モードに作り替えられた
「感動」ノンフィクションってのは、何のこたない、
あのおどろおどろしたニュースショーと同じだよ。
ゲーム脳だの何だのさんざんゲームを
悪者にしておきながら、福知山線脱線事故で「絵を盛り上げる」ために
「バイオハザード4」のBGMを使う、あの恥知らずな
「悲しみと怒りと不信」の押し売りと同じだよ。
そして、最近は「悲しみと怒りと不信」に対しては拒絶を示す人も
増えて来てはいるが、やはり、大多数の人はまだそれを望んでいる、
あるいは望んでいると信じるからTV局は流す。
(でなかったら、何で、どのニュース番組もワイドショー番組も
潰れないんだ?)
あの「感動」ドキュメントだって、それで泣く人が、
そこまでされても泣きたい人が多いからそうやって流すわけだ。
それにさらに泣かせよう(=さらに視聴率を上げよう)として、
そこに意図的な作為が生まれてく。ああ、ステキな悪循環。
たとえば、「はじめてのおつかい」というシリーズがある。
これは出始めた当初、私はとてもファンだった。
ああ、ちっちゃい子にとってスーパーまでのほんの何十メートルが
大冒険なんだなあ、その何十メートルでこれだけの感情の振幅を
味わうんだなあと、それこそ涙ぐみながら見ていた。
それがどうなったかというと、みなさん、ご存じの通り。
この番組は子供をいじめて泣かせて、それを見て大人が泣くという
およそ倒錯的なグロテスクな番組になりはてた。
幼稚園児に、バス乗って二つも買い物こなしてから父親にそれを
届けに行くなんて馬鹿馬鹿しいこと、そんなおそろしいこと、
フツーさせるか、親が! フツーありえるか、そんなこと!
それもこれも、みんなもっとさらなる「感動」を求めたからだよな。
もっと泣きたくなったからだよな。同じ刺激じゃ泣けないの、
もっとそこんとこ押してくれる?
それだけ日々の生活がしんどいからかもしれない。それだけ、
今の社会は殺伐としているからかもしれない。けれど、そうやって、
古いゴムのように強張った心を、人に無理矢理揺すぶってもらって、
そこからだらだらと生理反応めいた涙を垂れ流すことを、
果たして「感動」と呼ぶんかい、という気がするがね、私は。
それじゃあ、感動もまあ、ずいぶんと安いモノになっちたんねえと
思ってしまうわけよ。
そういう慢性的な「感動したい病」患者を相手にし続けて
「ともかく感動させたい病」患者になって、つうかイタチごっこの
繰り返しで病状を悪化させていって、どっか感覚の壊れちった
クリエイターの作るものなんて、ホントの意味での感動なんて
これっぽっちもあるわけないじゃないか。
感動というのは与えられるものではなく、自分で見つけだすものだ。
感動はさせてもらうもんじゃない。自分でするもんだ。
つまり、感動ってのは能力だ、と思うんだわ。だもんで、
「プロジェクトX」のみならず、あの手の「感動ノンフィクション」
を見続けている限り、その貴重な能力は鈍化し、摩滅していく
一方だと私は思いますです、はい。自分で揺すぶらないで、
人に揺すってもらい続けてりゃ、そりゃ古いゴムみたいになるでしょうさ。
足若丸や金魚運動器でしなやかな筋肉はつきません。
2005.06.17:himasinaga
⇒HOME
copyright/himasinagara 1998-2005
powered by samidare