昔は墓石はどうやって作られていたか

石屋というのはやはり昔からあって、石屋というよりは石工というほうがいいかもしれない。
つまり木を加工する大工に対して石を加工する石工なのである。
木と同様、大店や建主が場所と材料を提供して そこに石工が自分なりに開発したり準備した
道具を持って来て作業をし、労賃をいただいて生活する。
昔は、工業ダイヤモンドなどはないので硬い石(花崗岩)はあまり加工には適さず、軟らかい凝灰岩や
安山岩などを加工して墓石や灯篭などを作った。
今と違い、設計図などはないので口頭説明と筆を使って和紙に書かれた絵などを元にして確認を得ながら作られていったものだと思う。それでもある程度仕上がりを頭において加工しないと出来上がり
が違ってくる。
ある時期から石工作業も分化して 石の取れる山で採掘している石工を丁場師、山師と呼び
その石を運び込んで加工石屋が仕上げる。恐らくは、築城、社寺建築などの大型工事物件
によりそのように分化したものと思われる。

 今は墓石はどうやって作られているか。

電動の研磨機、切削機石材切削機により自動化も可能になり、加工技術は進展した。
ただし、原材料は国内での大材確保は難しく、国外の帳場に頼りきりとなっている。特に
中国は、製作、船運、通関で1ヶ月。インドは、1.5ヶ月とアジアでの製作がほとんどとなってきている。
国外の加工工場では、やはり分化されていて丁場と加工とは別々のなっている。

では石屋の業務形態はどうなったかと言うと、依頼者、石屋と打合せ →輸入商社へ提案図依頼 →商社からの図面石屋確認 →石屋、依頼者に提案図打合せ →石屋商社へ修正図発注
→商社、修正図を国外加工工場へ発注 →国外工場加工 →コンテナ船積み →船運 →
入港通関 →陸送 →商社荷出し分配 →分配陸送 →石屋取付け →引渡し開眼式
となっている。
提案図が必要なのは 現地と依頼者と石屋と商社と加工工場が統一したものを製作するため
必要なのだ。
95%以上は商社が提案図を描いている。なぜ石屋が図面を描かないかと言うと、単にその技術が
ないのである。
今の石屋は何をするかと言うと、現地情報(顧客)の収集。商社の値引き発注。製品の取付け。
となる。

 石屋の選び方

石屋との打合せでは、どのような施工技術を持っているかを見ると良い。
例えば、耐震免震の工法が明示してあるか。さらに、きちんと説明できているか。
基礎工事についてはどうか。などである。
仏教関係に明るい石屋などと言われていても今はどんな墓でも建てられる時代なのだ。
まずは、施工技術である。

 特に基礎工事は、土木技術者の知識が必要なため、いい加減な事をされると石で耐震施工
しても無意味なことが多い。それを知らない石屋も多いので注意が必要だ。
そう言う資格がなくても石屋はやれるのである。
 その地区の仏教関係を知っていれば、土木技術などなくてもはぐらかすことも出来るから気を
つけなければいけない。
 お寺さんに灯篭などを寄附したりすれば、お寺さんから紹介もしてもらえる。お寺さんからの紹介
となれば、檀家さんだったら断ることも出来ない。
 今は、インターネット検索でいくらでも仏教関係情報を入れることはできるが、お墓の実質的な
施工については情報はつかめない。どんな石屋なのかはわからないのである。
 じゃ、どうやってそのよしあしを確認するかと言うと、まず基礎工事だけの図面をもらうのである。
自分のところに合わせた基礎工事計画をきちんと説明できれば合格だ。
 商社は現地には行かないので、基礎に関しては図面を書いてくれないのだ。もし商社が描いた
ものなら現地に関係なく描かれてくるはずだ。
 それほど大きな面積ではないので大げさな測量は必要ないから見積り時に持って来れるはずだ。
何でもかんでも同じにすればいいと思ってる輩も居るので要注意である。
 それもできない、その程度の技術しか持たない石屋で、出来たお墓はもしかしたら安いかも
しれないが何年後かにどうなるかは、言わずと知れたこととなる。
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京都貴船神社(写真は鶴岡市羽黒松尾の貴舩神社)
伝説によると第18代の反正天皇の時代(1600年程前)建てられたという。浪花の津に黄色い船に乗った玉依姫が淀川、鴨川をさかのぼって水の湧き出す龍穴を見つけそこに社殿を建てたと言われるそうだ。
水をつかさどる神様を祭っている。
677年(白鳳6)1300年程前には社殿を造り替えたとの社伝があり、実際のところ創建の年代は不詳。奥宮が元もとの鎮座地。1055年(天喜3)に奥宮より現在の場所に移築というのが総本宮。分霊社は500ほどあると言うが、貴船、貴舟、貴舩、貴不祢、貴不禰、等々すべて同じということだ。
と、いうことは日本語読みには関係ない神社ということか。

県内を見てみると、地図上で知りえたところは7箇所あった。以外に多いのだ。

705年(大宝3)       羽黒町松尾 貴舩神社  海抜31m(赤川20m最上川0m)

鎌倉時代 踊り伝承?  酒田市平田坂本 貴船神社 海抜52m(最上川10m)

大正時代 鳥居?     酒田市土崎 貴船神社  海抜5m(最上川0m)中世以前は海中か。

804年(延暦23)     東根貴船神社  海抜177m(白水川175m最上川84m)

1863年(文久3)鳥居?  山形市吉野宿 貴船神社 海抜100m(須川92m)

1863年(文久3)鳥居?  山形市船町  貴不祢神社  海抜100m(須川92m)

不明           米沢市東大通7 貴舟神社  海抜260m(松川250m)

参考 709年(和銅2)以前  酒田市城輪 城輪柵 海抜11m

ちなみに地形的な位置関係地して最上川との水位差を書いてみた。現在なのであまり参考にならない。
どうもこれ以上はわからなかったが、歴史的に見てみると

古墳
7世紀の初め、関東・東北で横穴式石室を持つ古墳が盛んに造られた。
古墳の築造は、畿内・西日本では7世紀後半頃、関東では8世紀はじめ頃、東北地方では8世紀末頃ほぼ終わる。

出羽三山
585年(用明元年)- 曽我馬子に殺された三十二代崇峻天皇の第三皇子・蜂子皇子が羽黒山に入り開山。羽黒神が一説に玉依姫命とも伝えられている。

大和朝廷
658 斉明4越国守阿倍比羅夫、船軍を率いて蝦夷を征討。齶田(秋田)・渟代(能代)の蝦夷、降伏。
714 和銅5 9.23 出羽国を建置 (秋田)。出羽柵を築いた者が回路の安全を考える。

蝦夷人
7世紀頃には、蝦夷は現在の宮城県中部から山形県以北の東北地方と、北海道の大部分に広く住み、その一部は日本の領域の中にあった。蝦夷人から大和に従属した者たちが自分たちとの宗教的な融合を試みることがないか。

百済王族
697年 - 766年日本に亡命した百済王族の子孫。大阪に居を構え大和朝廷より重用され、蝦夷征伐にも加わり東北にもやってきていた。かかわりはないのだろうか。玉衣姫も大阪からやってきたという。

渤海国
727年、渤海から使者が多く訪れている。日本海の季節風を利用しての使節団なので 山形にも着ていたものと考える。”きふね”読みだけを使用するのももしかしてその関係があるものか。黄色は道教の宗教色だ。庚申塚なども道教から来ている。 

777 宝亀8 12.14 陸奥鎮守将軍紀広純より、出羽国の軍が蝦夷に敗れ退却(現酒田市まで下がった)
778 宝亀9出羽の蝦夷反乱は終焉。

仏教
大同元年(806年)10月、空海は無事帰朝し、大宰府に滞在する。日本ではこの年の3月、桓武天皇が崩じ、平城天皇が即位していた。そののちに布教活動が盛んになる。

戦国時代から江戸時代の最上義光の最上川整備による大開削などなど。。

単純に考えて、最上川船運にかかわりあると考えられるが、実際の創建起因は各所違う。
ただ、江戸時代以降であれば整備されたことによって盛んになった船運によって水運の無事を願い創建することはありうる。
それ以前に建てられた物については、初めは日本海航路の安全を願ったものと、雨乞い的な性格のものがあると思われる。なぜなら水運とさほど関連のない位置に建っているものがあるからだ。
県外で多いのは天竜川筋に多くある。となるとやはり一番関連が多いのは、水運のようだ。

しかし建てた人物に関しては、謎が残る。そのころは恐らくそれほど力を持った豪族、豪商が地元にはいないはず。京都をよく知り、水運を必要とし、京都でも珍しい貴船神社を勧請する理由がある人物なのだ。
が、今のところここまでが限界のようで今後も調査続行したいと思います。(終わりはあるのか)
関連情報をお持ちの方の連絡をお待ちします。今後の情報により変更が生じた場合は速やかに内容を変更いたします。
石積には、いろいろな要素によって積み上げる方法もいろいろとある。

その一つの分け方に勾配があり、お寺や神社や、城郭で見られる石垣だ。

その分類は微妙なのだが、”寺勾配”と”宮勾配”という分類がある。

積み上げられた石垣の一番上の積み石、または上から何段かの積み石を

垂直に積んだものを”寺勾配”といい、そこから下部は さほど変化が

少ないもののことで、垂直の部分を”雨落し”と呼ぶ。

それと違って、足元から一番上に向かって均一なカーブを描いて積み上げられ、

一番上の石が垂直にわざと据えられていない積み方を”宮勾配”と言う。

宮勾配と寺勾配を組み合わせたものもあるので、一概には言えないが、

武者返しと呼ばれるものは、宮勾配に多く、反り返っている石積だ。

この反り返りは、上の石の重量を逃がすためにこのような積み方を

考え出したと言われている。先人の知恵だ。

ちなみに、忍者返しは石垣の上に大きな屋根を張り出しているものを言う。
温海温泉 温泉街奥の方に熊野神社があります。

その神社の石階段やその辺に使われているちょっと黒っぽいが、

よーく見ると赤いレンガのような石が積み重ねられていた。

その石段のあちらこちらにほぞ穴(木の柱や梁などを差し込んだ穴)が見られ、

明らかに木造の建造物の痕跡を残していた。その石表面は、まるでレンガである。

傍らに記念碑があり、その台座にもその石積が間知積で使われていた。

石積の裏側には礎碑がついていて、そこには”赤石寄贈 佐々木重蔵、 石工 鹿野・・”

と刻まれていた。

推察ではあるが、温泉街の海口の方にある採掘場らしきところから採れたものではないかと

思う。あの辺の海岸沿いにもところどころ赤い岩が肌を出したものがあり、

麻耶山系の噴火時の流出物であろうと思われる。

あの辺には温海粗粒玄武岩と言われる、ドレイライト岩床があると言われているそうだが、

それなのかどうかは不明。

その辺の情報をお持ちだったり、詳しい方おられましたら お書き込みお待ちしてます。
石の切り出しはある程度の大きさに例えば

約4m×5m×3mとかに区切って ダイナマイトを約30cm間隔程度に

穴を開けたところに入れて爆破する隣り

合った穴に亀裂はつながり岩盤から離れる

あとは亀裂の無い部分にバーナーを使って火炎で剥離させてはがしだす

こうして取れた石のブロックを工場に運び込んで

とは言っても160tを越すブロックだ

かなりの大型トラックじゃないと運べない

運び込んだブロックの1面の端材をとって平らな部分を作り

その1面を基準として他の面を切り出す

だが写真のように土場と呼ばれる山にはいろいろな割れ目が

存在しない石はないほどに石には亀裂がある

それでも日本に輸入される石はそのいいところばかりが選ばれて切り出されてくる

その石の亀裂は地球の成り立ちをあらわすもの

それを持ち込んで墓石とするのだから大切にしなければいけない

今の日本の墓石店に並んだ墓石は、99%海外産なのだ

せっかくそうすべく運ばれてきた地球の財産を無駄にすることなく

使うべきだと思う

写真:インド某石材採掘業者所有地
雪に埋もれた灯篭
かろうじて笠石と火袋が見える
笠石の上の宝珠に雪がまとわりついて笠石から落ちないのかもしれない。
地輪と台石は雪の中に埋もれてしまっている。
こんな火袋に蝋燭の火を灯したらさぞきれいなのだろう。
写真:寒河江チェリーランドの現在休亭中の和風館にて
ろっぽうせき:角閃石、カンラン石、玄武岩等からなる、溶岩の冷却時に柱状の摂理となったもので、4角~6角形など定形ではない。太さもその場所によって様々で、日本のものは比較的細く(15cm~25㎝くらい)中国のものは太いもの(30cm~1mくらい)まである。空気に触れてないときは黒く青みを帯びているが、空気に触れて時間が経つと黄色や茶色みを帯びてくる。
歴史上の著名な人物が、そこから遥拝したとも言われる。
氏神の境内などにあり、大昔、その石の上に神を勧請(かんじょう)したとも言われる。
造園では、庭園の中の浄地に置く平石のことをさす。
墓石では、石碑を拝むときに乗る石を指すが、現在は納骨堂の蓋だったり様々であるが、石碑の直前に設置するのが常識のようだ。
宝珠又は疑宝珠、笠石、火袋、中台、棹石、足、下石、基礎石などあり、
笠石と棹石だけのものから六角形、円形のものもある。
いろいろな時代に流行してそれぞれ形状も違う。もちろん場所により石種も様々。
武士の時代には、鳥獣を彫り込んだりしたものが流行ったりした。
中に雪見灯篭という名前で呼ばれる灯篭がある。なかなか趣がある呼び名だ。
神社に良くある春日灯篭は、春日大社の灯篭を模したものだ。
大きさにより模様を変えないと彫ったものが何であるかわからない場合があるので注意が必要だ。
蔵王石は、山形では以前よく使われた石。現在は自然を保護するために、ごく許されたところでしか採取できない。
目隙石(めすきいし)と呼ばれる石は、文字通り空気を含んだまま固まった溶岩で、これのもっとも空気の含みが多いものを鬼目隙と呼び重宝されている。
鬼目隙石を彫り込んで作られた火袋や灯篭は、味わいがあり温かみを感じさせてくれるが、高価だ。
各地方にその地の名前の石が存在し、さまざまな生活に用いられてきた。
現在それを使用することは、少なくなった日本の自然を破壊することに直接つながっているため、使用するのは慎重な考えの上で使用していくべきだ。どの資材にも言えることだとは思うが。
ひぶくろ:灯篭の火をともすところをさす。本来木の扉や透かしの窓を持っていて、扉をはずし、又は開いて蝋燭や油の火をともしたもの。神社やお寺の踏石の左右に配置しておとづれる人の足元を照らしたものだろう。古いもので よく火袋の無いものを見かけるが、そのように明り窓を開けたためにこわれてしまい、笠石と宝珠を載せただけになっているものが数多く見られる。上の笠石を大きくすることで足元を明るくしようとしたのだが、そのために不安定になり地震等で壊れてしまったものが大半だ。
だが、笠石を大きくして石を持ち上げている姿も圧巻で山灯篭と呼ばれる、自然石の下面を切断し、笠石としてのせたものも庭灯篭として珍重する人も多い。
山形では蔵王石を使って、石灯篭を製作しているところもある。
(写真:六角雪見灯篭)
ふみいし:敷石に属して、踏石の中に飛び石も含まれる。
ただし、ある程度の厚みを持ってそれ自体で上に乗る重量を支えられるものをさす。
歩く人の歩幅を考えて据えられた踏石や飛び石は歩きやすく、動線で(歩いて通るライン)庭や広場などの見せ方をよく考えて、配置されるべきだ。
例えば背丈ほどの樹木のそばは、枝が邪魔するので離れて通るようにし、遠ざけることでその樹木が生きてくる。低木の場合は、間近を通って小さな花目も見えるようにするなど。
縁石と混同されていることがあるようだが、笠となるように迫り出した石のこと。
笠石の背後に床構造がある場合は、縁石となるのが本来だが、墓石の場合人が乗るのは、まれであくまで御霊が乗る場所としての考えから笠石と呼ぶようだ。
墓石(五輪塔など)の上に乗る石も笠石といい、灯篭の屋根となっている部分も笠石と呼ぶ。
塀石の上に乗せ上端を引き締めるデザインに用いたりする。
  
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