朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報

あけましておめでとうございます。
エコミュージアムコーナーのパネル展示を更新しましたので、近くにお越しの際はぜひお立ち寄り下さい。
本年もどうぞよろしくお願い致します。

〔大谷風神祭篇2〕
■大谷のお神楽(代々神楽)志藤富男さんのお話
■大谷の花火打ち上げ 白田寿春さんのお話

会場/朝日町エコミュージアムコアセンター「創遊館」エコミュージアムコーナー
(ギャラリーの隣)朝日町宮宿2265
明治15年に建てられた県内唯一の木造三階建て校舎である旧三中分校(県文化財)と、空堀、曲輪、畝縦堀等の遺構が今も数多く残る八ツ沼城跡周辺を巡ります。

日 時 11月2日(日) 午前9時〜11時半
集 合 八ツ沼公民館
案内人 宮本建一
参加費 500円
定 員 15人

お申し込みはエコルーム☎0237-67-2128まで
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菅原道真の姫君一統が移り住んだといわれる大谷地区。
本当に雨を降らせていた大沼の雨ごい地蔵尊。
風に関係なく湖面を浮遊する葦の島。大沼の浮島。
大行院最上家に伝わる御宝。義経弁慶伝説・大蛇伝説。
竜神信仰の用山絶壁に現れる如意輪観音菩薩の影を訪ねます。
講師/堀敬太郎氏、白田幸男氏、最上俊一郎氏 
道先案内/安藤竜二

日 時 11月9日(日)午前9時出発〜14時 
参加費 1000円(資料・弁当・保険代など実費)
お申し込みはエコルーム☎0237-67-2128まで
先着20人

A5チラシを写真下のダウンロードボタンより開けます。

参考
大谷の四天神
大沼の浮島
大行院
雨願い地蔵
用山の観音様の影
用山に現れた竜の雲
用・船渡地区の竜神信仰
最上川・五百川郷の宝物がたり
五百川三十三観音巡り
〜江戸時代における環境保全のパイオニア〜

 五百川三十三観音を知っていますか。江戸時代にできた三十三観音巡りの朝日町版です。西奥は、白倉から、立木、太郎、水口、北は、大沼、大谷そして左沢まで、東は、和合、四ノ沢、送橋まで、そして、南は、宮宿、上郷、そして、白鷹町の針生まで、町内外の、三十三の観音様を巡るのが、五百川三十三観音です。
 一番札所が、水口の十一面観世音です。三十三番目が、雪谷の如意輪観世音です。なぜこのような順番かといいますと、そこに興味深いいわれが伝わっています。
 『江戸時代朝日山地の鉱山が盛んだった時代、鉱山の水が流れ出て朝日川の水が汚れ、朝日町や左沢の稲が不作になり、これを怒った農民たちと、待定上人(たいじょうしょうにん)が立ち上がり、閉山勧告の廻状を出し朝日権現の麓での鉱山を封鎖するように訴えました。
 しかし、この一揆を怒った庄内松山藩は首謀者と目された水口の長兵衛と待定上人を捕らえようとしました。
 この時、待定上人は長兵衛は見どころのある若者だとして逃がしてやり、自らは捕まって処刑されました。逃げた長兵衛が十年の間、四国八十八箇所など諸国の札所を回って帰ってきたところ、もうないだろうと思っていた水口の実家が、雪谷から見ると残っていました。これも観音様のおかげだと、待定上人の供養も兼ねて五百川三十三観音をつくったということです。』
 三十三観音は、朝日町にくまなく存在しています。そして近くには多くの文化財があります。大沼の浮島、佐竹家、八ツ沼、椹平の棚田、空気神社どれも札所のすぐそばです。五百川三十三観音を巡りながら、朝日町の秋の自然と豊かな文化財を巡りませんか。


日  時 平成26年10月25日(土)〜26日(日)
     午前9時〜午後16時頃
集合場所 朝日町エコミュージアムコアセンター「創遊館」
定  員 20人(※定員になり次第締め切らせていただきます。)
参 加 費 6,600円(交通費・弁当・資料代など実費)
     ※1日のみ参加の場合は4,000円となります。
参加費にご朱印代は含まれません。
別途ご用意ください。(1箇所100円)
申込締切 10月17日(金) 
申込・問合せ先 朝日町エコミュージアムルーム
      ( 9:00〜17:00 月・木曜休館)
■TEL・FAX 0237-67-2128

五百川三十三観音縁起
五百川三十三観音霊場一覧
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 上記村報「いもがわ」昭和29年6月発行の号から、「五百川三十三ヶ所札所の由来」と題して三十三観音の由来が物語のようにシリーズで紹介されていますが、残念ながらこの号しか見つかっていません。このあとの号をお持ちの方はぜひ拝見させて下さい。

 上記↑ダウンロードボタンより大きなファイルを開けます。
今年も9回目の最上川五百川峡谷のごみ拾いが開催されます。カヌーの皆さんは川下りしながら、一般の皆さんは水辺を拾います。最後に芋煮を囲んで恒例の交流会もあります!五百川峡谷をみんなの力できれいにしましょう!

日 時 9月21日(日)午前9時〜
集 合 朝日町カヌーランド(栗木沢)
※保険に入りますのでお申し込み下さい。
主 催 五百川峡谷クリーンアップ大作戦実行委員会
主 管 SDスポーツ
協 力 NPO法人朝日町エコミュージアム協会
お問い合わせは
→カヌー参加 SDスポーツ サイトより
→一般参加 NPO法人朝日町エコミュージアム協会 Tel 0237-67-2128へ
これまでの様子

ガイドブック『五百川峡谷』
五百川峡谷の魅力
五百川峡谷エリア
■大谷獅子踊り保存会
 戦後、後継者難のため解散寸前だった大谷獅子踊りを、昭和47年に浦小路(第4区)の青年たちが、伝統ある郷土芸能の保存継承を決意、幾多の困難を克服して飛躍的に発展させた。その努力と功績が認められ昭和57年(1982)に朝日町無形文化財に、平成三年には山形県無形民俗文化財に指定された。
『大谷郷』(朝日町北部地区郷土資料集編集委員会)より抜粋

角田流大谷獅子踊
大谷の風神祭
小径第15集『大谷風神祭』
 角田流大谷獅子踊りは、江戸後期の文化年間(1804〜1818)に仙台藩の角田(現丸森町)の宗吽院(そううんいん)から、大谷の天満神社神官だった白田外記家に入婿した清安が伝えたとされます。
 宗吽院は、朝日町の大沼浮島神社の山伏神楽を600年前に伊具郡に伝承した歴史を持ちます。さらに、菅原道真の六女みよこ姫が輿入れし中興の祖となった修験寺でもあり、同じ菅原道真の子孫とされる大谷白田家と共通する歴史を持っていることが双方の強いつながりを物語っています。      
参考文献『20年のあゆみ』朝日町大谷獅子踊保存会
    『つどいの庭に降りた神々』丸森町文化財友の会
    『よみがえれ大沼浮島の響き』大沼浮島ものがたり実行委員会

角田流大谷獅子踊
大谷の風神祭
小径第15集『大谷風神祭』

二百十日の稲作について

お話 志藤富男さん

 稲は、二百十日から二百二十日までの間が一番大切なんだ。実の入り始めだからね。ここで嵐が来て、ぺたっと倒されたら実が入らなくなって全滅になってしまう。熟むれてしまうから、縄や草履作る藁にもならなかった。そこが過ぎれば実が入るから影響は少ないなだ。
 同じ時期にスズメの被害もある。二百十日がくる前に案山子を立てるのも仕事だった。固くなる前の実のつゆを吸いにくるんだ。うまいなだべ。ピシャピシャ、ピシャピシャと吸って行く。腹くっつくなんねから、なんぼでも吸うんだな。すると黒くなってダメになる。

大谷の風神祭
小径第15集『大谷風神祭』
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 風神祭を網羅した巡行マップと見所を作りました!これがあれば、駐車場・トイレはもちろん見逃した屋台を次にどこで見られるか、串花のもらい方、神輿の参拝方法、行列の役割や意味までを知ることができます。ぜひこのリーフレットをポケットにお出かけ下さい。
↑上記ダウンロードボタンよりpdfファイルを開けます。

※大谷のみなさんのお話をもとに作られた朝日町エコミュージアムの小径第15集『大谷風神祭』から抜粋し作りました。

〔屋台と代々神楽(大獅子)について〕
 代々神楽(大獅子)は各区の当番制となっていますので、当番となった区では屋台は出さないことが多いです。26年は立小路(第一区)が当番となっていますので屋台は出しません。

大谷の風神祭
露店について
                   お話 白田都一郎さん

■90年以上続く松谷屋の露店

 松谷屋は、大正11年の帳簿を見たことがあるので、9年か10年頃に両親が結婚した時に始めたのだと思う。風祭りで店の前に露店出すようになったのも、その時からだから90年以上経つね。
 うちでは毎年、玉こんにゃくと饅頭を売っている。玉こんにゃくは、いい匂いするから買ってもらえる。みそ饅頭や笹饅頭は、風祭りを見に来た人達のみやげとして買ってもらえるんだ。風祭りの日は、人手が足りないから朝早くから手伝いを頼むがった。今でもうちの親戚は手伝って行くけど「招待されたんだか、手伝いに来させられたんだか分からね」なんて言っていくなー。(笑)
 天気は心配だね。天気悪いと人が出なくて売れなくなるからね。昔に一度、饅頭がたくさん売れ残ってしまって、栗木沢とか売り歩いたことがあったな。

■戦前戦後の露店

 昔は、店の前の通りに露店が並んで賑やかだった。白田栄一さんの角から今の白田米屋さんまで並ぶんだっけ。でも、戦前はせいぜい十店くらいだったな。賑やかになってきたのは戦後だね。
 戦争の前後頃で、特に印象に残っているのは、寒河江から来る「だるませともの屋」だったな。お祭りの次の日も店出すっけね。せとものは、当時の経済状況からしても、おいそれと買えないものだったから、魅力あったんだべな。
 おもちゃ屋も人気だった。子供が多かったから売れたんだべ。なにしろ、当時の大谷小学校は600人位いた。おれの同級生も男女合わせて90人位いたったけからね。
 当時は、今みたいな「たこ焼き」とか「焼きそば」とかの食べ物屋はなかったね。金魚屋も植木屋もなくて、簡単な店ばっかりだった。
 戦争の時は、俺は海軍の兵隊になった。舞鶴で主計兵として三ケ月教育を受けて鹿児島へ行った。主計兵は事務担当と調理担当と2つに分かれていたけど、俺は兵隊達に料理を作るほうだった。お菓子屋出身だったからだべな。
 昭和20年の終戦後は、すぐに帰って来れたけれど、砂糖とかの原料がなんにもなかったからお菓子は作れなかった。少ししてアメリカの放出品の砂糖が配給になったので、農家を回って少しずつ砂糖を売ってもらって飴類を作ったね。少しずついろんな材料を買えるようになったのは昭和23年頃だな。風祭りで露店を出せるようになったのはいつだったかな。うちは田圃も畑もなかったから、仕事なくて東京に2年位、働きに行っていたからはっきり覚えていないな。

■現在の露店

 露店が今みたいにたくさん出るようになったのは、昭和30年代からだな。露店商の人に、「大谷の風祭りはとにかく売れるから人気あるんだ」と聞いたことがある。このあたりの夜祭りでは一番売れるらしいね。
 子供たちにとっては、露店とお祭りは一緒だもね。夕方露店が出ていると「お祭りしったけはー」というのが子どもらの昔からの言葉だ。露店とお祭りは付きものなんだよね。
 以前は、露店の場所割りを露天商の中に親方みたいな人がいて仕切るんだっけな。集めた場銭の一部をお祭りに寄付ということで持ってくるものだった。15年位前、不公平にならないようにとのことか商工会でするようになった。
 昭和58年頃に、浮島線の大きな道路ができたのだけれど、その何年か後に、露店の場所が田中屋さんのほうに移ったんだ。きっと理由はバスの関係だったと思う。バスも大きくなったからね。それで、きっとこちらの通りは寂しくなるだろうし、みんなと同じようにさんなねと思って、一度だけそっちで店を出したことがあったけ。ところがあんまり売れなかったので、それからは、また自分の店の前で出すようになったんだ。変わらず賑やかで売れたっけ。
 みそ饅頭は、うちの名物にしたいと思って本格的に作ったのが昭和45年だった。「これはうまい」と思ってもらえるように、その日に作ったものしか売らない方針にしてきた。おかげさまでよその町からも買いに来てくれる。ありがたいことだね。 
 暴れお神楽(獅子)が来ると、饅頭のパックを口の所さ持って行くんだ。すると、中にいる人は口をぱかっと開けて手を出して持ってく。見ている人達が面白おかしくて大笑いする。それも一つの「笑わせ」「お客様喜ばせ」だね。大抵毎年やるようになったな。

(取材/平成26年3月)

白田都一郎(しらた・といちろう)さん
大正13年3月生まれ 91歳 松谷屋菓子店の二代目当主。

大谷の風神祭
小径第15集『大谷風神祭』

提灯行列の思い出

畑 俊美さんのお話

 子供の頃は、提灯の持つ棒が長かった。六尺とかあったから、子供たちの頭よりもぐっと高い所に提灯の灯りが見えて、遠くから見るときれいだった。今は長いと重たくて大変だからということで、だんだん短くなったんだ。昔の子供のほうが体力も力もあったんだべな。
 あの頃は、田中から中道っていう田んぼ道を通って元の学校の方に向かったんだけど、家がなかったから、どこまでも見えて見事な眺めだった。提灯だけで百メートルは繋がるっけね。子供は大勢いたからね。それに、今よりみんな信心深かったから、子供のいない家でもご利益あるようにと、じいちゃん達が提灯たがきに出てくるもんだっけ。おらだは中学生まで提灯たがったな。各部落に最低でも子供は三十人いたから、二百人近く行列作るんだった。
 がぐど(いたずら)もしたね。行列スタートする前に、人の提灯ば自分の提灯で引っ掛けて倒すと紙さ火付くのったな。あの頃、行列出る前に、紙ぺろっとなくなる子供がいっぱいいたっけたな。(笑)

昭和14年(1939)生まれ。
建築業に55年従事。元朝日町建設労働組合長。田中在住。


柏倉 儀一さんのお話

 提灯行列に大谷以外の子供も参加していると聞いたけど、とてもいいことだと思う。近頃は、屋台が大変盛り上がっていていいけれど、提灯行列が寂しくなってきている。やっぱり風祭は提灯行列が伝統だから、なんとか大切にして欲しいものだね。
 子供達の提灯を見ていると上手な絵も多いので、青森のねぶたのようにコンテストにして、優秀な作品は表彰してあげたらどうだろう。金賞・銀賞・銅賞とか。連合区長賞とか氏子会長とかでもいいな。絵も益々上手になるだろうし、行列に参加したくなる子供も増えるのでないか。

昭和4年(1929)東京生まれ。
農業。戦後父方の大谷に移り住む。毎年高木区の田楽提灯と高木天満宮の絵馬を描いている。高木在住。

(取材/平成26年3月)

田楽ちょうちんを作ろう!
大谷の風神祭
小径第15集『大谷風神祭』
消防団の役割
                         お話 榊 寿太さん


 風神祭そのものは、消防団と連合区と商店会の三仕組で会場設営などにあたったけれど、監督・指導の総指揮としての一番の実力者は昔から消防団だったね。
 風神祭実行委員会の折に、消防団の若者が「なんで消防団が風祭りをさんなねんだ?」と、実行委員長に食ってかかってきたことがあった。確かに普通考えると、お祭りに消防は関係ないもね。
 でも、それはとても関係あったんだ。昔の風祭りは、要所要所にもっとローソクの提灯が多いお祭りだった。子供達の田楽提灯も現在の何倍も多かったし、各道路道路には、屋根の付いた提灯が設置されていた。各区でも、ローソクを数本も入れる扇形の大きな祭り専用の提灯も掲げたしね。風が吹いたりするとローソクは危ないし、時々消えるので、その管理を消防団が責任を持って当たっていた。防火上と、治安維持に大切な役割を担っていたんだ。
 その後、だんだんと電気で安全に明るくなり、ローソクの提灯は少なくなり、ローソクの係も無くなり、消防団とお祭りの関係は、今日的役割として重責を担っているのが分かりづらくなってしまったんだな。
(取材/平成二十六年三月)

榊 寿太(さかき じゅた)氏
大正12年(1923)生まれ。朝日町役場議会事務局長、社会福祉協議会専門員、朝日町商工会事務局長、空気神社奉賛会事務局長等を歴任。

大谷の風神祭
小径第15集『大谷風神祭』