朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報
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大谷風神祭の屋台の思い出
■白田辰雄さん(峯壇)
昭和十年頃に「肉弾三勇士」の屋台が出たっけな。これは、昭和7年の満州事変で、敵陣の鉄条網を破るために、3人の兵隊が細長い爆弾を抱えて自爆するという実際にあった美談だ。
峯壇の白田綱右エ門さんと、長岡重雄さんは、満州事変に実際に兵隊で行って来た。その2人が帰って来て、長岡五郎八さんもまざって、その武勇伝を屋台にしたんだ。生きていたらみんな百歳くらいだな。
車がなかった頃だから、五郎八さんの仕事で使っていた馬車車に乗って人が引っぱったんだ。新聞かなんかで、7尺くらいの爆弾を作って、その馬車車の上で突っ込むのを寸劇にして演じていた。綱右エ門さんは、親子で金鳩勲章もらったんだ。
それから、「天野屋利兵衛」も覚えている。赤穂浪士を武器で応援していた商人利兵衛が奉行の取り調べで拷問を受けて、しまいに「子供を火あぶりにするぞ」と脅されるけれど屈しなかったという武勇伝だ。長岡寛治さんが小学校1年生位の時に、その利兵衛の子役で屋台さ乗ったんだ。寛ちゃんは今77、8歳だから、70年位前になるね。
■榊寿太さん(立小路)
戦前の私が子供の頃は、もの凄い大きな祭りだと感じていた。
おしろいや紅をつけて衣装も着せてもらって踊らんなねがった。それは、選ばれて出るので、出られた子供はとても誇らしかった。
屋台は飾りをつけた馬車車を子供達が引っ張った。子供はいっぱいいたからね。「わっしょい、わっしょい」と声かけ合ったり、「うさぎ うさぎ 何見てはねる 十五夜お月さん 見てはねる」なんて、歌ったりしてみんなで引っ張って歩いた。
「養老の滝」の屋台なんかは記憶あるね。親孝行の息子が父親のために滝を流れる酒をヒョウタンにくんでくるという昔話だけど、その物語風景を杉皮なんかを使って屋台に作るんだ。滝は下に洗濯するたらいを置いて、行列している間、上から水がちょろちょろと流れるような細工がしてあった。人形も作って置いた。田中にはそういうのを得意な人達がいてよく作るんだっけ。金をかけないで作るんだ。田中が今も昔話をいろいろ演出して上手にしているのはそういう立身的な背景があるからだと思うね。
■堀敬太郎さん(立小路)
この辺では昔から「屋台」と言っている。普通一般的にはお店という意味になるべな。でも、「山車」と呼ぶと何だか大げさで「屋台」と言ったほうが庶民的でいいなよ。おらだはずーっと使っているから、そのほうがいいな。
白田八十二さんの本には、大正時代から屋台を出していたとあるけれど、おらだは戦争頃からのことしか分からないな。きっと、屋台はしていた時もあり、途切れた時もあり、また復活したというようなことを繰り返してきたのではないか。
戦後は、子供達が引っぱった荷馬車を舞台にして、各区それぞれの持ち唄や踊りを披露した。立小路は「おいとこ」、峯壇は「徳利踊り」、浦小路は「村は土から」、東は「消防踊り」などだった。特に「村は土から」は新しい発想の踊りで大好評だったことを覚えている。しかし、この手踊り屋台も長続きはしなかったね。
立小路(第1区)では、平成元年にテレビで流行っていた志村けんの「バカ殿」したのが始まりだった。町報の表紙に載ったんだけど、その記事見ると、屋台が峯壇と立小路と田中と高木の風神太鼓と4台出はったと書いてある。風神太鼓は、学校の先生に作曲してもらって、高木の子供たちが教わって、ずーっと今まで続けているんだ。
各区の練習や準備は、盆すぎあたりからだね。夜公民館でやっている。みんな勤めているから夜の7時半とか八時頃からする。その頃は、どこの公民館も賑やかなんだ。屋台の組み立ては、盆過ぎの最初の日曜日あたりの昼にする。
各区とも、準備も練習も色々なアイデア出して面白おかしくするんだけど、みんなまとまるんだ。区民の融和が、風祭りの果たす役割ってこともあるね。
この屋台が出るようになったのは、各区に公民館ができたのもあるのでないか。昔は、お神楽出すのでも、大きい小屋を借りらんなねがった。練習したり、枠作ったり拠点となる場所が必要だからね。花火屋の小屋を借りて提灯書きした覚えもある。
昔は、風祭りを見学する親類縁者がどこの家でも泊まりがけで来たなよね。だから女の人は、ごちそう作ったり接待さんなねくて、風祭りの行事一切は男だけがしてきたんじゃないかと思う。男が女役しているんだよね。化粧とか、着付けとかは、若妻や婦人会の人がしてくれる。でも、だんだん人手不足でやって行けなくなるので、決まりはないのだから若い女の人も出てくれるといいんだげどね。
(取材/平成26年3月)
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大谷の風神祭
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小径第15集『大谷風神祭』
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昭和十年頃に「肉弾三勇士」の屋台が出たっけな。これは、昭和7年の満州事変で、敵陣の鉄条網を破るために、3人の兵隊が細長い爆弾を抱えて自爆するという実際にあった美談だ。
峯壇の白田綱右エ門さんと、長岡重雄さんは、満州事変に実際に兵隊で行って来た。その2人が帰って来て、長岡五郎八さんもまざって、その武勇伝を屋台にしたんだ。生きていたらみんな百歳くらいだな。
車がなかった頃だから、五郎八さんの仕事で使っていた馬車車に乗って人が引っぱったんだ。新聞かなんかで、7尺くらいの爆弾を作って、その馬車車の上で突っ込むのを寸劇にして演じていた。綱右エ門さんは、親子で金鳩勲章もらったんだ。
それから、「天野屋利兵衛」も覚えている。赤穂浪士を武器で応援していた商人利兵衛が奉行の取り調べで拷問を受けて、しまいに「子供を火あぶりにするぞ」と脅されるけれど屈しなかったという武勇伝だ。長岡寛治さんが小学校1年生位の時に、その利兵衛の子役で屋台さ乗ったんだ。寛ちゃんは今77、8歳だから、70年位前になるね。
■榊寿太さん(立小路)
戦前の私が子供の頃は、もの凄い大きな祭りだと感じていた。
おしろいや紅をつけて衣装も着せてもらって踊らんなねがった。それは、選ばれて出るので、出られた子供はとても誇らしかった。
屋台は飾りをつけた馬車車を子供達が引っ張った。子供はいっぱいいたからね。「わっしょい、わっしょい」と声かけ合ったり、「うさぎ うさぎ 何見てはねる 十五夜お月さん 見てはねる」なんて、歌ったりしてみんなで引っ張って歩いた。
「養老の滝」の屋台なんかは記憶あるね。親孝行の息子が父親のために滝を流れる酒をヒョウタンにくんでくるという昔話だけど、その物語風景を杉皮なんかを使って屋台に作るんだ。滝は下に洗濯するたらいを置いて、行列している間、上から水がちょろちょろと流れるような細工がしてあった。人形も作って置いた。田中にはそういうのを得意な人達がいてよく作るんだっけ。金をかけないで作るんだ。田中が今も昔話をいろいろ演出して上手にしているのはそういう立身的な背景があるからだと思うね。
■堀敬太郎さん(立小路)
この辺では昔から「屋台」と言っている。普通一般的にはお店という意味になるべな。でも、「山車」と呼ぶと何だか大げさで「屋台」と言ったほうが庶民的でいいなよ。おらだはずーっと使っているから、そのほうがいいな。
白田八十二さんの本には、大正時代から屋台を出していたとあるけれど、おらだは戦争頃からのことしか分からないな。きっと、屋台はしていた時もあり、途切れた時もあり、また復活したというようなことを繰り返してきたのではないか。
戦後は、子供達が引っぱった荷馬車を舞台にして、各区それぞれの持ち唄や踊りを披露した。立小路は「おいとこ」、峯壇は「徳利踊り」、浦小路は「村は土から」、東は「消防踊り」などだった。特に「村は土から」は新しい発想の踊りで大好評だったことを覚えている。しかし、この手踊り屋台も長続きはしなかったね。
立小路(第1区)では、平成元年にテレビで流行っていた志村けんの「バカ殿」したのが始まりだった。町報の表紙に載ったんだけど、その記事見ると、屋台が峯壇と立小路と田中と高木の風神太鼓と4台出はったと書いてある。風神太鼓は、学校の先生に作曲してもらって、高木の子供たちが教わって、ずーっと今まで続けているんだ。
各区の練習や準備は、盆すぎあたりからだね。夜公民館でやっている。みんな勤めているから夜の7時半とか八時頃からする。その頃は、どこの公民館も賑やかなんだ。屋台の組み立ては、盆過ぎの最初の日曜日あたりの昼にする。
各区とも、準備も練習も色々なアイデア出して面白おかしくするんだけど、みんなまとまるんだ。区民の融和が、風祭りの果たす役割ってこともあるね。
この屋台が出るようになったのは、各区に公民館ができたのもあるのでないか。昔は、お神楽出すのでも、大きい小屋を借りらんなねがった。練習したり、枠作ったり拠点となる場所が必要だからね。花火屋の小屋を借りて提灯書きした覚えもある。
昔は、風祭りを見学する親類縁者がどこの家でも泊まりがけで来たなよね。だから女の人は、ごちそう作ったり接待さんなねくて、風祭りの行事一切は男だけがしてきたんじゃないかと思う。男が女役しているんだよね。化粧とか、着付けとかは、若妻や婦人会の人がしてくれる。でも、だんだん人手不足でやって行けなくなるので、決まりはないのだから若い女の人も出てくれるといいんだげどね。
(取材/平成26年3月)
→大谷の風神祭
→小径第15集『大谷風神祭』