朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報
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五百川峡谷の舟道遺構
五百川峡谷の舟道遺構
佐藤五郎氏(米沢中央高校教頭)
〈舟道の発見〉
毎年の水質調査時に、五百川峡谷の岩盤の所々に切り目が入っているのを不思議に思っていた。白鷹町菖蒲から上郷ダムまでGPS調査をした結果、人工的に堀削した舟道であることが分かった。目測だが左沢まで30kmに渡り同じような工事が成されている。これは、元禄時代の米沢藩御用商人の西村久左衛門が開削した遺構であり、国内最長の舟道といえる。
〈腑に落ちない工期〉
西村が幕府に開削普請の願い状を出したのは元禄5年(1692)。翌6年(1693)の正月に許可が下り、6月に工事着工し、翌7年(1694)の9月には完成している。そしてすぐに、米沢藩の藩米13,700俵を長井市の宮から下している。しかし、30kmに渡る大工事を、たった一年三ヶ月位で出来るわけがない。私も腑に落ちなかった。
〈道開削の本当の歴史(私感)〉
それはやはり表向きであったことが分かった。西村は、左沢の大庄屋海野家に「船は通れるようになったので、船頭の差配や舟屋敷を建てる土地の確保などをお任せしたい」旨を願った手紙を出している。それが幕府から許可が下りる一年前の元禄五年(1692)の正月のこと。これにより大部分の工事はすでに終わり、舟は通れるようになっていたことがうかがえる。
西村は、京都から当時の舟道開削専門のゼネコン“角倉一門”の間兵衛(まへえ)という優秀な技術者を呼び寄せているが、それは船が開通した元禄7年(1694)のおよそ10年も前になる。すぐに開削工事の可否を調査させたのだろう。
そして、貞享4年(1687)。51才の三代目西村久左衛門が引退している。その若さで引退したのはなぜか。おそらく工事が可能ということになり、御用商人の家業は息子に任せ、本人はいよいよ本格的に開削工事に取り組みはじめたことを意味しているのではないか。
翌年の元禄元年には、大石田から舟大工を移住させている。これも開通する五、六年も前のこと。工事の為の舟作りを始めたのではないか。
おそらく、米沢藩の内諾のもと、藩自身も内々に関わり領外の代官にも根回しをし、下流の左沢から上流に向かい工事を徐々に進めていたのだと思われる。そして、最上流部の黒滝を残し、ほぼ完成の状態に近づいたところで、開削普請願いを出したのではないか。黒滝だけの開削なら一年三ヶ月で充分やれただろう。
工事は、平らな所を新たに掘るのではなく、所々にある自然の浸食による深みをうまく繋げるようにした。浅いへりや蛇行して出っ張っている岩盤を砕いてまっすぐにしていった。砕くのには、長さが1m位、太さが10cm位、重さは50kg位の先が尖った鉄のかたまりを4、5mの高さのやぐらから落とした。これは、計算すると水中の岩も砕ける破壊力がある。
工事費は、一万七千両かかったとある。米で換算すると現在の20億円前後とされているが、当時の日当は一人米一升程度。現在の日当一万〜一万五千円とかで計算すれば二百億とか三百億円の額になる。30km区間の大工事も充分可能だったとうなずける。
〈期待される古文書調査〉
朝日町・左沢間は、元禄5年あたりには工事は終わり、船の往来はあったと思われる。左沢はすでに船着き場の最上流地点だったが、朝日町区間は船着き場としての町並みが充実しはじめた頃と言える。関わる資料が残っていないだろうか。その視点でもう一度古文書等を調べ直して欲しい。
取材 : 平成20年7月
佐藤 五郎(さとう ごろう)氏
山形大学教育学部卒業後、昭和44年(1969)米沢中央高等学校教諭着任、副校長を務める。最上川水系の水質調査を同校科学部で指導され、平成5年(1993)からは毎年ゴムボートで流下しながら水質や河川環境の調査を実施。現在は国土交通省最上川水系流域委員会委員、山形県環境アドバイザーなどの各種委員を兼ねている。著者多数。
※写真は明鏡橋下の舟道遺構
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舟道(明鏡橋下)
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佐藤五郎氏(米沢中央高校教頭)
〈舟道の発見〉
毎年の水質調査時に、五百川峡谷の岩盤の所々に切り目が入っているのを不思議に思っていた。白鷹町菖蒲から上郷ダムまでGPS調査をした結果、人工的に堀削した舟道であることが分かった。目測だが左沢まで30kmに渡り同じような工事が成されている。これは、元禄時代の米沢藩御用商人の西村久左衛門が開削した遺構であり、国内最長の舟道といえる。
〈腑に落ちない工期〉
西村が幕府に開削普請の願い状を出したのは元禄5年(1692)。翌6年(1693)の正月に許可が下り、6月に工事着工し、翌7年(1694)の9月には完成している。そしてすぐに、米沢藩の藩米13,700俵を長井市の宮から下している。しかし、30kmに渡る大工事を、たった一年三ヶ月位で出来るわけがない。私も腑に落ちなかった。
〈道開削の本当の歴史(私感)〉
それはやはり表向きであったことが分かった。西村は、左沢の大庄屋海野家に「船は通れるようになったので、船頭の差配や舟屋敷を建てる土地の確保などをお任せしたい」旨を願った手紙を出している。それが幕府から許可が下りる一年前の元禄五年(1692)の正月のこと。これにより大部分の工事はすでに終わり、舟は通れるようになっていたことがうかがえる。
西村は、京都から当時の舟道開削専門のゼネコン“角倉一門”の間兵衛(まへえ)という優秀な技術者を呼び寄せているが、それは船が開通した元禄7年(1694)のおよそ10年も前になる。すぐに開削工事の可否を調査させたのだろう。
そして、貞享4年(1687)。51才の三代目西村久左衛門が引退している。その若さで引退したのはなぜか。おそらく工事が可能ということになり、御用商人の家業は息子に任せ、本人はいよいよ本格的に開削工事に取り組みはじめたことを意味しているのではないか。
翌年の元禄元年には、大石田から舟大工を移住させている。これも開通する五、六年も前のこと。工事の為の舟作りを始めたのではないか。
おそらく、米沢藩の内諾のもと、藩自身も内々に関わり領外の代官にも根回しをし、下流の左沢から上流に向かい工事を徐々に進めていたのだと思われる。そして、最上流部の黒滝を残し、ほぼ完成の状態に近づいたところで、開削普請願いを出したのではないか。黒滝だけの開削なら一年三ヶ月で充分やれただろう。
工事は、平らな所を新たに掘るのではなく、所々にある自然の浸食による深みをうまく繋げるようにした。浅いへりや蛇行して出っ張っている岩盤を砕いてまっすぐにしていった。砕くのには、長さが1m位、太さが10cm位、重さは50kg位の先が尖った鉄のかたまりを4、5mの高さのやぐらから落とした。これは、計算すると水中の岩も砕ける破壊力がある。
工事費は、一万七千両かかったとある。米で換算すると現在の20億円前後とされているが、当時の日当は一人米一升程度。現在の日当一万〜一万五千円とかで計算すれば二百億とか三百億円の額になる。30km区間の大工事も充分可能だったとうなずける。
〈期待される古文書調査〉
朝日町・左沢間は、元禄5年あたりには工事は終わり、船の往来はあったと思われる。左沢はすでに船着き場の最上流地点だったが、朝日町区間は船着き場としての町並みが充実しはじめた頃と言える。関わる資料が残っていないだろうか。その視点でもう一度古文書等を調べ直して欲しい。
取材 : 平成20年7月
佐藤 五郎(さとう ごろう)氏
山形大学教育学部卒業後、昭和44年(1969)米沢中央高等学校教諭着任、副校長を務める。最上川水系の水質調査を同校科学部で指導され、平成5年(1993)からは毎年ゴムボートで流下しながら水質や河川環境の調査を実施。現在は国土交通省最上川水系流域委員会委員、山形県環境アドバイザーなどの各種委員を兼ねている。著者多数。
※写真は明鏡橋下の舟道遺構
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