朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報

12.五百川峡谷エリア
 棟札によると、観音堂は安永9年(1780)に願主鈴木忠右エ門が創建したことが分かります。忠右エ門は観音信仰が厚く、西国、四国を始め全国の三十三観音を巡礼した碑が現存し、祭壇には西国88ヵ所の観音像(土製)が祀られてあります。
 また雪谷は、五百川三十三観音の成立に尽力した石橋太郎が、西国88ヵ所を回り終え帰った10年後(1842年頃)、自分の家を最上川対岸に見つけ喜んだ場所として「五百川三十三観音」の最終札所に選んだとされています。(詳しくは縁起を参照)
五百川三十三観音第33番札所。
※参考/『ふるさと朝日町散歩』
五百川三十三観音縁起
五百川三十三観音霊場一覧
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※分かりにくい場所です。事前にエコミュージアムルームまでお問い合わせ下さい。

ガイドブック『五百川峡谷』
五百川峡谷の魅力
五百川峡谷エリア
 明治8年(1875)経費のすべてを地元で負担し、最上川本流で初めての橋「明鏡橋」が架けられました。その後、洪水等で流失が相次ぎますが、昭和12年(1936)ついにコンクリート製のアーチ橋が完成しました。これが「旧明鏡橋」です。六代目明鏡橋が完成するまで、69年間にわたり国道を行き交う人々の往来を支えてきました。平成18年、優れたデザインを理由に選奨土木遺産に指定。橋の写真家平野暉雄氏(京都在住)は「開腹型アーチ橋の中では日本一心和む橋」と絶賛されました。
※撮影/高橋茉莉さん(仙台市)
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平野暉雄さんのお話
心なごむ明鏡橋を見つめて
菅井敏夫さん、志藤正雄さんのお話
旧明鏡橋の思い出
志藤正雄さんのお話
夏の芋煮会“えるか汁”
志藤三代子さんのお話
すいとん入りえるか汁
佐久間 淳さんのお話
明鏡橋の思い出
菅井敏夫さんのお話
明鏡橋物語全12話(PC)
書籍『明鏡橋物語』について

ガイドブック『五百川峡谷』
五百川峡谷の魅力
五百川峡谷エリア
大正6年(1917)
7月26日、父弥太郎、母たけの次男として朝日町大字上郷字宇津野に生まれる。本名巳芳(みよし)。上郷小在学時代の成績は優秀で、三年より卒業まで級長を務める毎年学術優等を受け、卒業の際は町長賞も受けている。
           
昭和7年(1932)
10月上京。東京湯島の前田薬局に、兵隊検査までの約束で住込の店員として勤務この頃より詩作をはじめる。万葉調の和歌も試みる。16才
  
昭和11年(1936)
11月詩誌『モラル』(泉与史朗主宰)の同人となり、「土曜会」に出席するようになる。20才

昭和12年(1937)
7月 壮丁検査を受け第二補充兵となる。前田薬局退職。郷里上郷に居て3ヶ月郷土史の調査。
9月 泉芳朗の世話で東京都板橋区志村連沼金門金属工業所に入所。
12月 山形詩和会の会員となる。21才。

昭和13年(1938)
続々と作品を発表する。山形の詩人たちとも多くの交わりを持つ。
4月 『簇』佐藤総右氏編の同人となり、「職工生活」を発表。
7月 西五百川青年団機関紙『旭華』に郷土史小説「新五百川軍記」を連載。
11月 『詩現実』蒲生直英編の同人となり、一遍発表。22才。      
  
昭和14年(1939)
『詩生活(モラル)』廃刊。最後の4月号に「飢えてみろ」発表。
7月 『新日本詩年鑑』に「錆」を発表。
7月〜8月 教育召集のため青森県弘前連隊に入隊。
同人詩誌の発行を計画するも成らず。23才 

昭和15年(1940)
『旭華』に「奉祝二千六百年」を発表。
双関の関節炎リウマチの疼痛に苦しむ。24才。

昭和16年(1941)
『北の村落』発刊。
2月より編集。5月に日本学芸新聞より発表。高村光太郎に序文を願い、鮫島慶江が編集から発刊まで手助けする。
助膜炎を併発四ケ月休職の後、6月いったん退職。
6月 足不自由なため、記録補として再び同工業所に入所。
亡くなる一週間前までこの仕事を続ける。25才。

昭和18年(1943)
腎臓結核に尿毒症を併発し。5月12日飯田橋日本医科大第一病院で死去。27才。