朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報

12.五百川峡谷エリア
 明治8年(1875)経費のすべてを地元で負担し、最上川本流で初めての橋「明鏡橋」が架けられました。その後、洪水等で流失が相次ぎますが、昭和12年(1936)ついにコンクリート製のアーチ橋が完成しました。これが「旧明鏡橋」です。六代目明鏡橋が完成するまで、69年間にわたり国道を行き交う人々の往来を支えてきました。平成18年、優れたデザインを理由に選奨土木遺産に指定。橋の写真家平野暉雄氏(京都在住)は「開腹型アーチ橋の中では日本一心和む橋」と絶賛されました。
※撮影/高橋茉莉さん(仙台市)
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平野暉雄さんのお話
心なごむ明鏡橋を見つめて
菅井敏夫さん、志藤正雄さんのお話
旧明鏡橋の思い出
菅井一夫さんのお話
明鏡橋の傍らで
志藤正雄さんのお話
夏の芋煮会“えるか汁”
志藤三代子さんのお話
すいとん入りえるか汁
佐久間 淳さんのお話
明鏡橋の思い出
菅井敏夫さんのお話
明鏡橋物語全12話(PC)
書籍『明鏡橋物語』について
 明鏡橋近くの高台(上の山)にある桜公園は、地元栗木沢区で整備された憩いの場です。桜咲く頂上からは、五百川峡谷ビューポイントの一つの、新旧二つの明鏡橋が架かる美しい景色を眺めることができます。東屋も整備されていますから、お弁当を広げるおすすめポイントとなっています。

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 昭和53年、用の当時小学6年生だった斉藤正弘君と渡辺政紀君が発見。ヤマガタダイカイギュウは800万年前の海にすんでいたほ乳類で、ステラーカイギュウ(18世紀に絶滅)の祖先にあたるものではないかと考えられています。 海牛類の進化を知る上で世界的に貴重なもので県指定文化財となっています。

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ガイドブック『五百川峡谷』
五百川峡谷の魅力
五百川峡谷エリア
 水面より170mの高さを誇る最上川最大の絶壁が明神断崖(通称:用のはげ)です。江戸時代の舟人も圧倒したと伝えられ、その姿は大朝日岳山頂からも確認できます。黄金の橋や竜神伝説が残り、周辺地域には、ヤマガタダイカイギュウ化石発掘地、上川原山ノ神縄文遺跡などもあり、遥かな歴史を想像できる場所となっています。断崖は最上川を境にした大江町にありますが、朝日町側からその全容を見ることができます。

※朝日町真中地区から眺められます。川岸からの見学地は分かりづらくなっています。エコミュージアムルームにお問い合わせ下さい。

用のはげと周辺めぐり(2008)
辰年!竜神信仰の明神断崖を訪ねる(2013)
フォトギャラリー(PC)
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ガイドブック『五百川峡谷』
五百川峡谷の魅力
五百川峡谷エリア
 明治時代の大土木工事。寒河江市、中山町、山辺町の水田を潤す用水のための取水堤が設けられました。
  四ノ沢頭首工とともに、山形盆地の農地には相当量の五百川峡谷のきれいな水が利用されています。

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※国道287号線から用のはげ下に見ることができます。

ガイドブック『五百川峡谷』
五百川峡谷の魅力
五百川峡谷エリア
 松竹の人気映画『男はつらいよ〜葛飾立志篇〜』(第16作 昭和50年12月制作)の撮影に、舟で最上川を渡るシーンの撮影が「中沢の渡し」で行われました。

『男はつらいよ』公式サイト(PC)
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ガイドブック『五百川峡谷』
五百川峡谷の魅力
五百川峡谷エリア
この松永氏の寄稿(山形新聞)が海野秋芳を改めて紐解くきっかけとなりました。

海野秋芳の思想伝える〜農民視点に人間の悲哀〜
詩人/松永伍一氏

 書庫で資料探しをしていたら1冊の珍しい詩集が出てきた。海野秋芳の『北の村落』である。昭和16年に鵡鸚社(東京)から出ている。定価1円70銭。
 記憶は確かではないが、三十数年前に私が『日本農民詩史』を執筆中に古本屋で見つけたものらしい。その中の一遍を取り上げて論評しただけで、出生地もプロフィルもわからぬまま歳月が過ぎたが、こんどこの詩集が偶然書庫から出てきたのは、海野秋芳の名とかれの詩業がこのままでは消えてしまうぞ、との天の警告に思えて私は義務感につき動かされた。そしてこのテーマで「直言」に一文を草し、末尾に「ご存じの方があればプロフィルを教えて欲しい」と書き添えた。
 
 すると本紙編集部(山形新聞)から電話があって、山形県朝日町の出身で、昭和18年に二十七歳で他界しているとのことであった。「あの詩集1冊を残して夭折したのか」との思いが、私の胸を打った。
 『北の村落』は東北農村の凶荒をうたい、土着者の目ではなく離農者の望郷の熱い視線で「村」をあぶり出している。しかもあの時代にあって厭戦のテーマが書かれていたのだ。
 詩集が書かれたのは太平洋戦争勃発の年であり、前年は「皇紀二千六百年」を奉祝する行事がつづき「神国日本」を鼓吹するムードがちまたに満ち満ちていた。「美しの日本」をうたいあげるならいざ知らず、農村の貧困や戦がもたらす人間の悲哀を訴えるとなれば、身の危険すら感じなくてはならなかったろう。
 後に戦争協力の詩を書くことになる高村光太郎が、この詩集に序文を寄せている。「此処には東北の冷害がある。北方の水の災いがある。天をさす稲穂のなげきがある。そして農民の低いが凄い言葉がある」という書き出しで「低く生きて下を深く見ることこそ銃後をまもる者の責任」とも述べている。「凄い言葉」の中身を読みちがえたのか、意図的にぼかしたのか、作者には「銃後をまもる」積極的な意識はなかったはずである。

 つぎに引用する「雲低き日」には「親友Y君の英霊かへる」とサブタイトルがある。
 君は
 僕の側から
 隙間風の様に
 征った
 とほく
 海を越へ
 長江のほとりで
 任務についた
 回転する
 世界も知らず
 好きだつた論説欄も見ずに
 固く銃を握ったまま
 また 秋が来て
 君もかへつて来た
 無言のすがた いたましく
 半旗に護られながら
 いまは
 なににも云へない
 御苦労様
 御苦労様
 
 ほかに厭戦をテーマにした「仏間」(夫を戦死させた姉の狂おしい様を描く)などがあるが、それらの視点が娘を売らねばならなかった農民たちの生存への視点と重なっていることに、私は感じ入った。海野秋芳については本紙の「本の郷土館」シリーズで松坂俊夫氏が触れておられる(平成7年7月8日付)が、この機会に一人でも多くの人々がこの詩人の思想に触れて下さればと、願ってやまない。

(平成  年)山形新聞特別寄稿


松永伍一氏(まつなが ごいち)プロフィール
詩人・エッセイスト。1930年福岡県に生まれる。八女高校を出て中学教師8年、1957年以降文筆生活。文学・民族・美術・宗教など広範囲にわたる評論で知られ、とくに子守唄・農民詩・キリシタン・古代ガラスの研究者として著名。あらゆる文学組織に参加せず。『日本農民詩史』全5巻の大作により毎日出版文化賞特別賞を受ける。テレビ・ラジオ出演も多く、ドキュメンタリー番組の制作にもかかわってきた。趣味の絵画で10回を超える個展を開く。著書には『日本の子守唄』『天正の虹』『散歩学のすすめ』『フィレンツェからの手紙』『老いの品格』『花明かりの路』『快老のスタイル』『金の人生 銀の人生』『感動の瞬間』『モンマルトルの枯葉』など140冊がある。2008年没。

〜祖父の初仕事〜
 私の祖父は、中学を卒業して初めて働いたところが明鏡橋の架け替え工事だったと話します。一番記憶に残っているのは橋脚の土台となる土を玄播山から運んだことと言います。当然ですが工事用のダンプなどは無いため、すべて手作業で運んで大変だったということを昔の思い出話として話してくれました。

〜父の水遊び〜
 祖父が橋の工事に携わったとすれば、父はその下で遊んだ少年時代の思い出話をしてくれました。明鏡橋付近、最上川の左岸は栗木沢、右岸は大隅、それぞれの子供たちにとって絶好の遊び場でした。栗木沢が橋よりも少々上流、大隅が橋よりも少々下流に泳ぎ場があったといいます。泳ぎに疲れたり、体が冷え切ったときは、水の浅いところで温かくなった水に浸かり体をあぶったということです。最上川を泳いで横断できれば一人前と認められたり、対岸に向かって石を投げたり、栗木沢と大隅それぞれ川の両岸のお隣同士で同じような遊び(ときにはケンカも)をしていたようです。

〜私の少年時代〜
 私の年代になると、もう川で泳ぐものはいませんでしたが、ちょうど二見屋さんの現在の主である遠藤憲一氏の長男が私の弟と同級生で仲がよかったので、私も小学生の頃はよく河岸に遊びに行きました。
 雪解けによる増水が引いた春先ごろは、岸にいろいろなものが落ちていました。釣りに使う浮きや軟式ボール、ゴムボール、靴類からその他の生活雑貨、使えるものから役に立たないものなどあらゆるものがあって、それらを拾って帰るのがうれしかった思い出があります。
 また、梅雨が明けて夏になると、父に連れられて明鏡橋の真下で釣りをしました。以前は近くの沼で浮き釣りしかしたことがなかったので、初めて最上川に行った時はリール竿と吸い込み針を使ういわゆる「ブッコミ釣り」にとてもわくわくした覚えがあります。明鏡橋の下には今でも昔の橋の支柱を立てたと思われる直径50cm、深さ30cmほどの丸い穴が数箇所あり、そこに釣った魚や、稚魚程度の小さな魚を捕まえて放しては楽しんでいました。河岸にはその他にも、明鏡橋の少し上流・中州の手前辺りにちょうどお風呂くらいの四角の穴があったり(昔の岩採り場の跡らしい)して、子供心ながらも何の跡か疑問に思っていました。釣りをしない日でも、中州に行ったり、上流下流両方の河岸をどこまで歩いていけるか散策してみたりと、特に目的がなくとも何気なく遊びに行っていたものです。

お話 : 佐久間 淳さん
あさひまち宝さがし2002(平成14年)

ガイドブック『五百川峡谷』
五百川峡谷の魅力
五百川峡谷エリア
 最上川舟運の盛んだった頃、米や漆などとともに代表的な積荷だったのが「青苧」です。古来からの衣料原料だった青苧の栽培は、江戸時代から明治時代にかけての朝日町の代表的な産業でした。名声を博した奈良晒、越後縮、近江蚊帳の原料は、おもに山形県や福島県で栽培されていた青苧で、その半数は朝日町の「五百川苧」や大江町の「七軒苧」だったそうです。今でもいたる所に自生しています。

和田新五郎さんのお話
和田新五郎さんの青苧
栽培から糸とりまでの作業
志藤富雄さん、
白田千代志さん、
堀敬太郎さんのお話
青苧の栽培と製品化
青苧の使われ方
報告
青苧糸とり体験記

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五百川峡谷の魅力
五百川峡谷エリア


北の村落

なあんだ また雨來るだべ
そうだべな

けふで十日もならうに重すぎる北國の空模様である
この樣に 雨空低くたれ
粟の穂先天を指す秋
それは すざまさしい海浪の迫る豫告ではあるまいか

父(とっ)つあ 行田(なめだ)さ行つて見ろ 穂先 天コふいてるから
俺あ 見たくもない
親も 子も
今年こそと勵ましあひながら
たぎる樣な水田の害草(くさ)をとり 稻株(かぶ)の繁出(もで)を數(かぞ)へたのに
仕方がない大根葉(ひば)を納屋にしまふんだ
それから飮水を汲んで呉れ
冷雨降る日を 木の根などくべて
膏薬をあぶり 疲れた關節(ふしぶし)にはる
おつ母(かあ) 白髪拔いてやるべ
構はないでくれ 針の溝 この暗さでは通らないから――
野良着繕ふ母も老ひたのか
賣薬袋さげた下にうづくまり 振り向きもせず 荒れた
 掌をうごかすのである
野良話は 雨の日を暗くのしかゝつて來る


蕗(ふき)

ながい旅から
ほこり立つ道をゆられ
歸へつて來た

もどかしく
どつと かけ込みたい氣持(こヽろ)を支へて
やきつけられた 日傘

戻らうか
詫びようか

いまさらに 顔のなく歸へつて來て
母を呼ぶこゝろ

うかがへば
しがみつく絆をゆすぶつて
女人が笑つてゐる


北の村落(2)

押し潰されそうな山峡の村落である
今日は下駄屋のよね坊が賣られて行ったそうな‐‐―あれ
 も一年足らずで大きなお腹をかゝえて來るだらうよ
前借に前借を重ねて娘を銘酒屋に沈める貧困な村である
今度は何處の娘が 泣寢のまぶたを覺ますだろうか

大雪が祟って稲穂がつんと立つたきり
收穫(とりいれ)のない秋
淋しい田圃の畔で 爺様たちがこぼしてゐる

―――俺達も長生きするでねがつたなア
―――全くだ 祿な飯も食(くら)へられねいで いつそ
―――まあまあ そう云ふたとて どうにもならないし
來春まで待つだね

齢ぼうけや 女子供寒々と殘り
ひたむきに 若者が出かせぐ都會の魅力

あこがれがあこがれを引いて
義理さへもなく さびれゆく
村落の光なき夕暮である

昭和七年東北地方を苛んだ冷水害は今や忘れられ
ようとしてゐる、忘れてはならない、村を愛す
る心は先祖を愛する心だ―――昭和十五年春――


雲ひくき日に
  -友人Y君の英霊かへる-

君は
僕の側から
隙間風の様に
征つた

とほく
海を越へ
長江のほとりで
任務についた

廻轉する
世界も知らずに
すきだつた論説欄も見ずに
固く銃を握ったまゝ

また 秋が來て
君もかへつて來た
無言のすがた いたましく
半旗に護られながら

いまは
なんにも云へない
御苦勞様
御苦勞様


血型

ながいこと カーキ色の從隊がつゞいた
多くの顎紐をかけた戰闘帽の中から
おまへは 兄さんと呼んでくれた
 章 元氣で行つて來い
握つたおまへの掌は
逞ましくふしくれ 何か どぎついものにおもはれる

前線へ行く兵隊 
百千の旗に歡呼するどよめき
その中で 握ぎりかへすおまへの掌
 章 今日を忘れるな
多くの顎紐をかけた戰闘帽の中に
もつとどぎつい その掌を握らせてくれるまで
私は其の日を待つている
おまへも忘れないでくれ

海山越へて征つても
つながつてゐるものがある
ながれるものがある


飢ゑてみろ

どいつもこいつも 坐りたい車席(クッション)を
總立になつてゆずりあふ手合(てあい)ども
にやにや笑ひながら坐りこんで終ふなら
いっそ立たずにそつぽを向けばいゝでないか

色褪せたそれが道徳か 博愛か-世にすねた盲人(めくら)の仁
 義と云ふものか

金のカマボコ指輪がなんであらう
狐の襟巻きがなんであらう
隣席(となり)のつゝましい勞働者をみるがいゝ
何故のステーブルファイバーか
何故のふしくれ双手(もろて)であるかを

でこぼこの道は 車がゆれるものだ
絶間ない振動が車を壊すのだ
疲れきつた運轉者らがすべての犠牲となる

日毎夜毎 足元から翔けてゆくものの羽叩きを聞け
そいつらの諦めきつた虚空への後姿を見送つてやれ
さってゆく眞白な翼は なぜ灰色の歳月を忘れたか
凍てついた寒月のあたりになぜ神々は新しい子供の産聲
 を聞かねばならぬのか
蒼白い爪を噛んでみろ
なんであらうと 飢ゑてみろ
飢ゑてそのあと血を吐いてみろ




背柱の腐れかゝつた生物のやうに
ありつたけの力をしぼるモートルを据えて
ひとら 油のなかに糧を求める職場である
あの頃の心を いげつなくずらせて
今日もまた十分の休憩を無上の生きがひに待つ心

長すぎる作業のあとの休憩ベルが鳴る
必死の廻轉に太息する機械の沈默がある
よごれきつた少年工のはしたない談笑が崩れて
おれは習ひかけた語學を落し書きする
まるであの頃母の白髪を見つけた つまらない感情に似
 てゐる

窓ごしにちらつく特務工手の視線にふれて
いつかしぼんだ可憐なグルッペの無駄話
今は追ひ詰められたぎりぎりの一日にゐる彼等である
夜があけて 乘りなれた割引電車 はつとする始業の                    
ベル 工長がやけに意張るのだ
――ニグロを使ふ奴等のやうに

味氣ない日課がおまへらのやうにある俺だ
いつそ叩きつけたい書類などもある
磨滅させて終ひたいバイト ドリール
それがおめおめ今日も犬齒をかんでこらへた
やつぱり俺は意氣地がないか 意固地だか

ベルが鳴る 始業 油に蝕まれる一日がある
グッとスイッチを入れた二十五馬力のモーター
あか錆びて シャフトが プーリーが ベルトが廻轉する

工場の 機械の 汚れた菜ッパ服の仲間ら
聞くがいゝ あの古びたモートルのせつない獨白を
なに故の 所詮は束縛(しば)られたものの地團駄であらうか

※海野秋芳詩集『北の村落』より抜粋
夭折の詩人 海野秋芳


此處には東北の冷害がある。北方の水の災が
ある。天をさす稲穂のなげきがある。そして
農民の低いが凄い言葉がある。人の決して忘
れてならないものがある。世を擧げて一つの
方向に全力を致せねばならぬ時、國に心の和
を最も貴しとして必ず之を守り通さねばなら
ぬ時、上ばかりを見て無思慮の強引を重ねる
のは危険である。低く生きて下を深く見る事
こそ銃後をまもる者の責任であり、しかも其
の透徹の甚だ難いことが嘆ぜられる。詩人は
機微を見る。寸言片語の間に底邊の全生活を
も把握する。この詩集の特殊の色調に人は目
をみはるであろう。人をして目をみはらしめ
る力を此の詩集が持ってゐる事を信ずる。
一冊の詩集も斯かる時深い洞察への道を人に
開くのである。

高村光太郎

※海野秋芳詩集『北の村落』より抜粋
※写真は原稿です。
夭折の詩人 海野秋芳
 山形県の大江町と朝日町、寒河江市の、最上川の一部とその支流、月布川とその支流、朝日川とその支流を管轄河川とする漁協です。遊漁券の販売や釣り情報の提供を行っています。
朝日町宮宿1184-8 電話0237-67-2207
ホームページ(PC)
 朝日町出身(山形市在住)の柴田謙吾氏が長年続けられてきた最上川舟運に関わる研究の集大成。
著者:柴田謙吾 出版社:大風印刷出版局 価格:2,381円 出版日:2001年8月29日
※朝日町立図書館で借りられます (朝日町エコミュージアムコアセンター「創遊館」内)

 最上川舟運の主な積荷の一つだった「青苧(あおそ)」とはいったい何?
青苧栽培と糸とりの技を大谷浦小路にお住まいだった故和田新五郎さんに密着取材いたしました。 平成19年度山形県視聴覚コンクール優秀賞受賞。
取材・構成/宮森友香 編集・発行/NPO法人朝日町エコミュージアム協会 平成19年(2007)全15分 
※エコルームで販売しております。1枚1500円(郵送も致します)
 電話0237-67-2128(月・木休館)  

〈朝日町の青苧について〉
 古来からの衣料原料だった青苧の栽培は、江戸時代から明治時代にかけての朝日町の代表的な産業でした。名声を博した奈良晒、越後縮、近江蚊帳の原料は、おもに山形県や福島県で栽培されていた青苧であり、その半数は朝日町の「五百川苧」や大江町の「七軒苧」だったそうです。
西船渡区の歴史を正確に記して後世に残そうと編集・発刊されました。八ッ沼城と西船渡のかかわりをはじめ、最上川水運、寺社、産業、行事、思い出話まで、近世から現代までの歴史が詳細に記録されています。
編集・発行/西船渡区史編纂委員会 発行日/平成6年3月31日
※町立図書館で借りられます。