朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報
12.五百川峡谷エリア
1.霜の季節が過ぎた頃、まばらに伸びた新芽を背丈が揃うようにいったん全て刈る。
2.お盆頃に、根元から刈り取り、葉を取り除く。 3.束にして、水に一晩浸けておく。 4.茎を折り木質の芯を取り除き、皮だけをはぎ取る。 5.専用の板に載せ、鉄製のへらを使って緑色の表皮を取り除き、糸を取り出す。 6.一束ずつ天日に軽く干す。 お話 : 和田新五郎さん(大谷) 取材 : 平成16年(2004) →ガイドブック『五百川峡谷』 →五百川峡谷の魅力 →五百川峡谷エリア |
最上川の荒砥・左沢間は五百川峡谷と呼ばれ、急流で難所が多い上に、昔は峡谷入り口の菖蒲(白鷹町)に黒滝という丈余(約三メートル)の滝があり、船の運航ができなかった。従って米沢藩の全ての物資の藩外輸送は山越えを強いられ、幕領の年貢米は二井宿峠か板谷峠越えで福島まで馬で運び、阿武隈川を船で下り、東回りの回船で江戸まで運んだので、費用がかさんだほか荷痛みがあった。
元禄(約三百年前)の頃、米沢藩の御用商人西村久左衛門は、この黒滝をはじめとする五百川峡谷の難所を開削すれば、荷を藩内から船だけで酒田まで下すことができ、当時河村瑞賢により開発されていた日本海西廻り航路に結びつかれば、航路は下関・瀬戸内海・大阪と長くなるがきわめて安全に荷痛みもなく江戸まで運べると考えた。 西村の本業は青苧商だったが、幸い縁戚に角倉了似という大土木実業家がおり、その援助で間兵衛という優秀な手代を譲り受け、綿密な調査をさせた上、船大工は大石田から、船鍛冶は越後の飛鳥井村から呼び寄せて準備し、藩および幕府の許可を取り付け、元禄六年(一六九三)開削に取り掛かった。 その工法は、川の流れを迂回させて滝を干上がらせ、岩の上で焚き火をして岩を焼き、川水を掛けて岩を割ったり、岩盤の上に高い櫓を建て、重い鉄錐をロープで縛り、大勢で吊り上げて落とす「どん突き工法」を用いたりした。工期は一年三ヶ月、総工費一万七千両(現在で一七億)の巨費を投じて翌七年九月開通。間兵衛船と呼ばれた船は米沢藩米を積んで、五百川峡谷を矢のように下り酒田まで通船したのである。この上下の通船がもたらした恩恵ははかり知れず、まさに水運の革命といえるものだった。 しかし昔のことゆえ、工事の成功や船の安全には神仏の加護を祈ることが第一で、川沿いに神仏に堂宇の再建や鰐口の奉納などの安全祈願が行われた。また、この舟運を持続するため、菖蒲と左沢には船陣屋を置き通船を管理し、途中には通船差配役を置いて、船を曳き上げる綱手道の整備や難破船の濡れ米の処理などをさせた。 五百川峡谷の朝日町域には大滝瀬・どうぎ瀬・三階滝などの難所が多くあり、しばしば船が難破し、その都度濡れ米を引き揚げた。これには川沿いの百姓が頼まれ、引き揚げた米は払い受けて餅をついたそうで「かぶたれ餅」と言われた。 しかし、この舟運は後に訳あって西村から藩運営に変わった。そして後年、陸上交通の発達でその役目を終えた。綱手道も今では殆ど姿を消し見られなくなった。 お話 : 若月啓二さん(西船渡) 平成18年 →ガイドブック『五百川峡谷』 →五百川峡谷の魅力 →五百川峡谷エリア |
五百川峡谷の自然の素晴らしさ お話 姉崎一馬氏(自然写真家) 五百川峡谷は、何度かボートで下っているが、とにかく素晴らしい自然が残っている。他の所と違って川岸が切り立った崖なので、人の手が入ってない(入れない)から、自然の迫力や豊かさ、景観の素晴らしさを見ることができる。この魅力は、道路から見下ろしても分からない。実際に川を下りながら見ると、川の持っているパワー、大自然のエネルギーを感じる。「こんなにも違うのか?」と思ってしまう。感動の大きさは数百倍違う。 川岸は変化の大きい自然といえる。崖が崩れたりする不安定な場所は、パイオニア的な植物が多い。ケヤキ類をはじめとして水に強い樹木が多く、大木もけっこうある。切り立った川岸では、太くなりすぎると支えられなくなってしまうので巨木とまではいかないが、それでも太い木はいっぱいある。 なにより人が入れないので、生き物たちのサンクチュアリ(逃げ場)となっていて、とても貴重な場所といえる。 以前、仲間と静かに五百川峡谷を下った時には、アオサギやゴイサギ、ヤマセミなどがたくさんいた。特にゴイサギは、四畳半ほどの柳の茂みから100羽以上も出てきて驚かされた。ヤマセミは、数十メートルに一羽は出てきた。この鳥は奥山に行かないとなかなか見られないから、一般的に憧れの鳥となっている。町の中でこんなに見られるのはとても珍しいこと。鳥を観察する人たちにとっては、とても面白い場所でないか。 日本の自然を象徴できるのは、森と川だと思っている。森がなければ川はないし、川がなければ森が育たない。川は、接してみなければ理解できない自然です。多くの人に、素晴らしい五百川峡谷に接して感動して欲しい。きっと、自然の豊かさ、川の恵み、循環など、我々が生かされている根源の自然を感じてもらえるのではないか。 お話 : 姉崎一馬さん(立木) 取材 : 平成19年 姉崎 一馬(あねざき かずま)氏 昭和23年(1948)京都生まれ。朝日町立木在住。 雑木林から原生林まで日本全国の森林をフィールドとする自然写真家。山形県朝日連峰山麓を活動の中心とした子供のための「わらだやしき自然教室」もボランティアとともに行っている。著書に「はるにれ」(福音館書店)、「はっぱじゃないよ、ぼくがいる」(アリス館)など多数。 →ガイドブック『五百川峡谷』 →五百川峡谷の魅力 →五百川峡谷エリア |
川岸はサンクチュアリ
お話 姉崎一馬氏(自然写真家) 最上川五百川峡谷の川岸は変化の大きい自然といえる。崖が崩れたりする不安定場所は、パイオニア的な植物が多い。ケヤキ類をはじめとして水に強い樹木が多く、大木も結構ある。切り立った川岸では、太くなりすぎると支えられなくなってしまうので巨木とまではいかないが、それでも太い木はいっぱいある。 なにより、人が入れないので、生き物たちの逃げ場となっていて、サンクチュアリとしてとても貴重な場所といえる。 以前、仲間と静かに五百川峡谷を下ったときには、青サギやゴイサギ、ヤマセミなどがたくさんいた。特にゴイサギは、四畳半くらいの柳の茂みから百羽以上出てきて驚かされた。ヤマセミは、数十メートルに1羽は出てきた。この鳥は、奥山に行かないとなかなか見られないから一般的に憧れの鳥となっている。町の中でこんなに見られるのはとても珍しいこと。鳥を観察する人たちにとってはとてもおもしろい場所ではないか。 お話 : 姉崎一馬さん (立木) 取材 : 平成19年 姉崎 一馬(あねざき かずま)氏 昭和23年(1948)京都生まれ。朝日町立木在住。 雑木林から原生林まで日本全国の森林をフィールドとする自然写真家。山形県朝日連峰山麓を活動の中心とした子供のための「わらだやしき自然教室」もボランティアとともに行っている。著書に「はるにれ」(福音館書店)、「はっぱじゃないよ、ぼくがいる」(アリス館)など多数。 →ガイドブック『五百川峡谷』 →五百川峡谷の魅力 →五百川峡谷エリア |
心なごむ明鏡橋を見つめて
橋の写真家 平野暉雄氏 (株式会社景観技術センター代表取締役) 〈文化が消えてしまうものづくり〉 私は土木設計会社で10年間設計を学んだ。はじめは手計算だったが、次第にコンピュータの時代になり、「早く・安く・丈夫なもの」を主目的に設計する時代になった。しかし、それだけで作ってはその町の文化が消えてしまうのではないかと思った。34歳の時(1977)に独立し“写真の中に完成する橋のイメージを作る”景観設計の会社を興した。見え方を重視することが美しさになるのではと考えた。 橋の写真を撮り始めたのは、講義する母校の立命館大学の学生達にきれいな写真で橋を見せたかったから。すると、古い橋が素晴らしいと思った。現代の橋は、大きい橋、新しい橋、化粧した橋など、絵にならない違ったイメージを感じ、味気ない橋が多い。 〈日本一心なごむデザインの明鏡橋〉 便利よりも、心なごむ観点から物作りしないと世の中全体が味気ないものになってしまう。土地の人が心なごむ橋がいい。 『日本の近代土木遺産』という文献があるが、この中に橋が1000橋位、写真掲載のほとんどない一覧表で紹介されている。私は大体8〜9割は見てきた。明鏡橋みたいな素晴らしい橋に出会えるのは10橋に一つあったら良いほう。明鏡橋は何度でも来て写真を撮りたくなる橋の一つ。リピートしたくなる橋こそ心なごむ橋といえる。明鏡橋は開腹型アーチ橋では日本一の心なごむ橋だと思っている。 〈明鏡橋の素晴らしさの理由〉 山形県内では、明鏡橋、大江町の最上橋、寒河江市の臥竜橋の三つが一番素晴らしい。2002年4月に朝日のあたる明鏡橋を撮らせていただいた。明鏡橋がなぜ素晴らしいかというと、アーチの曲線(円弧の両下端を結んだ線と円弧の頂部との高さ)が非常に大きく、並列に3本のアーチ(3主構)のきれいな円弧になっている。また、桁と支柱の接合部も円弧で繋がれている。高欄も円弧でデザインが統一されている。最上橋のようにアーチが3径間連続になると高さが低くなる。明鏡橋のほうがアーチの曲線がゆったりしている。 ぺらぺらの定規をアーチに曲げると、両端に力がかかり非常に硬くなる。明鏡橋も臥竜橋も、両岸とも岩でできているからアーチができる。岩場のある所が川の流れは早くなるので、芭蕉の「五月雨を集めて早し最上川」の句は、庄内ではないと思う。アーチにすると大きく架けることができるから、流れの早いところに橋脚を立てる難工事をしなくていい。非常に力学や自然にあった作りになっている。一つの円弧でこれ以上きれいなコンクリートアーチ橋は日本にはほとんどない。 〈思い入れのあるものを守り継ぐ町づくりを〉 昨日、佐竹さんの家(佐竹家住宅)の外観を見せてもらった。他にもあると思うが、この地方の特徴を現した家である。あのような作りの家は他のも残してあげるとこの町の誇りになるのではないか。 現在は安くて丈夫な材料がいっぱい出回っているが、修理される時は、町の景観保全のため(できるだけ元の材料と同じもので」)修理費を出してあげて残して欲しい。 日本の文化を次の世代に残すのは大変な苦労がいること。私は京都生まれだが約1200年間の歴史があって守り継がれてきた。守るのは新しいのを作るより大変な努力がいる。特に今の時代はどちらかというと新しいほうが好まれているが、そうではない。そこに思い入れがあることによって日本の文化が守られるのではないか。特に、土地の「言葉」「食べ物」「見るもの」を大切にできたら心なごむ町が出来上がっていくと思う。 お話 : 平野輝雄(ひらの・てるお)氏 プロフィール 1943年京都市に生まれる。1968年立命館大学理工学部卒業。会社勤務を経て,1977年〜株式会社景観技術センター代表取締役社長、1992年〜2006年立命館大学非常勤講師、1988年明石工業高等専門学校非常勤講師、日本写真協会会員、土木学会フェロー会員、キャノンクラブ会員。著書に写真集『日本の名景 橋』『橋を見に行こう〜伝えたい日本の橋〜』がある。 ※写真は『橋を見に行こう〜伝えたい日本の橋〜』より抜粋しました。 景観技術センター公式サイト(PC) →伝えたい日本の橋 →ガイドブック『五百川峡谷』 →五百川峡谷の魅力 →五百川峡谷エリア |
最上川の荒砥から左沢間のおよそ25kmは、古くから“五百川峡谷(いもがわきょうこく)”と呼ばれてきました。最上川の中で唯一ここだけが連続する“瀬”を持っていますが、その流れは特異な水質浄化力を持ち、上流部で汚れた水を回復させ、常に最上川の中で最もきれいな水質を保っています。
ここは、かつての最上川舟運にとって最大の難所でした。江戸時代には、米沢藩が峡谷全体を掘削し通船を可能にした革命的な歴史があり、日本最長といわれるその舟道遺構が峡谷全体に残っています。 昭和40年頃までは、瀬を利用した簗漁(やなりょう)が盛んに行われ、その数は最上川で一番を誇っていました。現在は、峡谷の新鮮で豊富な苔が育てる“巨鮎”を求めた友釣り愛好者たちの人気スポットとなっています。 また、断崖の自然美と激しい流れは、カヌー愛好者たちにとって絶好の場所となっており、その優れた自然は、町の中心部でありながら鳥など生き物たちのサンクチュアリになっていることも確認されました。 さらに、最上川にはじめて架橋されたのが「明鏡橋」ですが、五代目のコンクリートアーチ橋はデザインや土木技術が認められ選奨土木遺産に指定されています。 ▽五百川峡谷エリアをもっと探る______ →詳しくはこちら →見学場所(中・西部)はこちら →見学場所(北部)はこちら →住民学芸員のお話はこちら →関係団体・書籍はこちら →五百川峡谷ビューポイント →事業報告はこちら →フォトギャラリー(PC) →アクセスマップはこちら ▽お問い合わせはこちら_______ 〒990-1442山形県西村山郡朝日町大字宮宿2265 朝日町エコミュージアムコアセンター「創遊館」 エコミュージアムルーム内 TEL:0237-67-2128 eco@town.asahi.yamagata.jp ▽飲食・宿泊情報はこちら_______ 朝日町観光協会サイト →朝日町観光協会サイト →朝日町観光協会サイト(PCサイト) |
毎年9月の第3日曜日に、カヌー愛好家や地元有志らが集い川下りをしながらゴミを拾うイベントが開かれています。毎年、軽トラ2台分程のゴミを拾います。終了後の芋煮会も人気です。ぜひご参加下さい!
→第2回2007年の様子(PC) →第3回2008年の様子(PC) →第5回(2010)の様子 →問合せはSD SPORTSサイトより(PC) |
九月はじめ一枚のCDが届いた。その一週間ほど前の山新に、朝日町が生んだ詩人海野秋芳の詩を、町の有志グループ「燭の会」が朗読しCDに収めたという記事が出ており、早速朝日町エコミュージアムを通して取り寄せたのだった。
海野秋芳については、『やまがた現代詩の流れ-2006/やまがたの詩の存在-』で、鈴木直子氏による紹介文を通してはじめて知った。大正六年(1917)生まれの海野秋芳は十六歳で小学校高等科を卒業し上京、薬局の住み込み店員となる。詩に目覚めたのはこの頃だが、その後泉與史郎に師事し本格的に詩作に取り組み、精力的に作品を発表する。薬局を退職後金属工業所の職工として働くが、腎臓結核で太平洋戦争のさ中、昭和十八年(1943)二十六歳の若さで夭折した。 今回CDとして世に出されたのは、詩人25歳の時に発刊された、唯一の詩集『北の村落』の朗読。町で五年前に開催された「海野秋芳シンポジューム」の参加者の中から数人が集まり「秋芳の詩を読む会」を結成、「燭の会」と名づけ、月一回の集まりで彼の作品を読み解く活動を重ねてきたとのこと。CDには高村光太郎から寄せられた序文と34編の作品すべてを載せたブックレットも添えられている。朗読は、11人の会員がそれぞれ3〜4編を担当しているが、最年少のメンバーは秋芳の大甥にあたる青年で、詩人が亡くなったときとほぼ同じというのも縁のように思われる。 CDからはじめに流れてくるのは、どこか懐かしい想いにつつまれるメロディー。電子音楽による手作りの曲は朝日連峰の裾野を吹きすぎる風のようだ。集中何度か挿入され特注ののテーマ・ミュージックといったところ。 高村光太郎の序文に続いて詩の朗読がはじまる。ふるさとの風景や情景、当時の貧困にあえぐ寒村の様子、その故郷への思慕、労働にたずさわる者の思索、そして戦争への複雑な感情-、様々なテーマの作品が、淡々と、読み続けられる。ドラマティックな展開やパフォーマンス的な表現はほとんどない。感情移入も極力抑えられているように思われる。演劇や朗読のプロ、あるいはセミ・プロ的な人が読めば、ずっと違った〈作品〉に仕上がったであろう。率直に言わせてもらえば、いわゆる‘上手な朗読’とはいえないものもある。また‘正しいアクセント’や‘イントネーション’などにこだわって、注文をつけようと思えばいくらでもつけることはできるかもしれない。が、そんなことはここでは瑣末なことだと思わずにいられない。読み手は、生半可な色などつけずに、それぞれの詩のことば一つひとつをていねいに、いとおしむように読んでいる。むしろそれ故に聴き手は自分なりの秋芳の世界をイメージすることができるといってもいい。 小さな町で制作された素朴な一枚のCDから、海野秋芳はわたし(たち)の宝物」という、会の人々の熱い想いがまっすぐに伝わってきて、手放しで嬉しく、同時に詩人生誕100年にあたる2017年の、詩集『北の村落』復刻版の出版を心から応援したい気持ちでいる。 最後に短い作品をふたつ紹介しよう。 故園 あの頃のほころびを 木綿針でつついて 日向ぼっこの婆さんがいる 土 この生活(くらし)になれても 苔むした無縁墓石に 何の希(ねがい)をかけようか 都会がへりの人見れば ゆらぐこのこころ 聞かないでくれ 粧ひのまぶしさ 百千の金 何になろう 稲穂天を指す秋 一杯の粥すすりあふても しぶとく生き抜いて 俺ら みのりする秋を知っている 『E詩14号』( E詩の会 2009.10発行)より抜粋 |
平成19年、佐藤五郎氏により五百川峡谷に30kmに渡り人工的に掘削した舟道があることが確認されました。これは元禄時代の米沢藩御用商人西村久左衛門が開削した遺構で国内最長の規模を誇ります。この大工事により、最上川舟運と北前船による西回り航路がつながり、米沢藩はもちろん流域に大きな産業をもたらしました。
※写真は渇水すると現れる明鏡橋下の舟道遺構 佐藤五郎さんのお話 →五百川峡谷の舟道遺構 →ガイドブック『五百川峡谷』 →五百川峡谷の魅力 →五百川峡谷エリア |
栗木沢地内の川原に、小山のような白っぽい砂岩が長く連なっていて、その先に青々とした最上川の清流が見える。こんな景観を面白岩と言ったのだろう。
大正3年(1914)頃、大隅の菅井長蔵という人が、面白岩を使って養蚕用の暖炉を考案し、「安全だんろ」の名で新案特許を取り、大量生産をはじめた。養蚕が盛んな時代だったので、注文が殺到し、年間3000個以上販売し、石工が18人もいたと言われていた。県内一のかまどの産地として有名になったそうだ。 以前は左岸側を水が流れておらず、昭和40年の羽越水害から現在の流れになった。 お話 : 堀敬太郎さん 平成20年 ※写真は志藤富男氏所有の安全だんろ(縦33cm、横60cm、高28cm) →ガイドブック『五百川峡谷』 →五百川峡谷の魅力 →五百川峡谷エリア |
最上川最大の狭窄部の五百川峡谷は、最も大きな浄化力・蘇生力を持ち、最上川の心臓部と呼ばれています。白く波の立つ瀬は、酸素を充分に水に溶け込ませ、プランクトンや水生昆虫、魚に至るまで、いろんな生物を活発にし、汚れが餌となり浄化されます。上流部で汚れた水を蘇生させる五百川峡谷がなかったら、現在の最上川の水質は維持できていなかったそうです。
佐藤五郎さんのお話 →五百川峡谷の水質浄化力 →ガイドブック『五百川峡谷』 →五百川峡谷の魅力 →五百川峡谷エリア |
五百川峡谷は、川岸が切り立った崖になっているために人の手が入らず、豊かな自然が残り、様々な生き物たちのサンクチュアリ(逃げ場)になっています。特に鳥類が多く、奥山に生息するヤマセミも度々見かけることができます。バードウォッチングに最適な場所と言えます。
姉崎一馬さんのお話 →五百川峡谷の自然の素晴らしさ →ガイドブック『五百川峡谷』 →五百川峡谷の魅力 →五百川峡谷エリア |
昭和39年(1964)最上川で初めての吊り橋として、今平〜大瀬の渡船場に、朝日・白鷹両町により架橋されました。大瀬の「大」と今平の「平」の字を使って「大平橋」と名づけられたそうです。500枚以上の渡り板が貼られた橋上からは、スリルと共に美しい五百川峡谷の風景を眺められ、人気のスポットとなっています。昭和の終わりにはNHKテレビの人気ドラマ「おしん」の撮影にも使われました。
→アクセスマップはこちら →ガイドブック『五百川峡谷』 →五百川峡谷の魅力 →五百川峡谷エリア |
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古来からの衣料原料だった青苧の栽培は、江戸時代から明治時代にかけての朝日町の代表的な産業でした。
和田さんの栽培している青苧は、昭和10年(1935)、15歳のときに祖父の元治さんと植えたものを残しておいたものだそうです。糸をとる「青苧はぎ」は、母ふみえさんの仕事で、収穫したものは馬具用の縄をなったりするのに使っていたそうです。
八月、刈り取りや青苧はぎを見せていただきました。和田さんは背丈ほども伸びた枝を一本一本刈り取ると、手のひらで茎をぎゅっと掴み、手前に引き、葉っぱを見事に扱き落としました。私も真似をしてみましたが、柔らかな手のひらではとても痛くてできませんでした。また、糸をとるために、一晩水に浸けた茎に鉄製のへらを押しあてて引っ張り、青い表皮をはぎとる作業は弱くするととれず、強すぎると糸が切れそうになったりしました。大変でしたが楽しく体験させていただきました。
手のひらに付いた茶色い染みは四、五日消えませんでしたが、昔の青苧職人と同じと思うとうれしくなりました。
報告 宮森友香(エコミュージアムルーム職員 2004)
和田新五郎さんのお話
→栽培から糸とりまでの作業
→DVD『和田新五郎さんの青苧』
志藤富雄さん、白田千代志さん、堀敬太郎さんのお話
→青苧の栽培と製品化
→青苧の使われ方
報告
→青苧糸とり体験記
→ガイドブック『五百川峡谷』
→五百川峡谷の魅力
→五百川峡谷エリア