朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報

01.朝日連峰エリア
 磐梯朝日国立公園朝日連峰の主峰が大朝日岳です。標高1870m。大きな花崗岩塊の山で、原始的景観に優れ、高山植物も豊富。急峻で北アルプスに匹敵する山容を持ちアルピニストに人気の山となっています。また、「朝日町」の町名を決めた由来の山でもあります。
※『郷土学習辞典』より抜粋
マップ
※朝日鉱泉より正面に眺めることができます。
※登山の際は、事前に登山情報をお確かめ下さい。
朝日山岳会(PC)
観光協会
観光協会(PC)
朝日鉱泉ナチュラリストの家(PC)
 
 朝日軍道は、上杉景勝の家臣、直江兼続によって開削された全長65kmにわたる日本の歴史の中でも有数の軍事道路です。飛地となっていた庄内の領地と連絡する目的で作られました。大朝日岳をはじめ御影森山や西朝日岳のの斜面に電光形の痕跡を見ることができます。
 全ルートは、長井市草岡 〜 長井葉山 〜 御影森山 〜 大朝日岳 〜 西朝日岳 〜 三方境 〜 以東岳 〜 大鳥池 〜 茶畑山 〜 高安山 〜 八久和峠 〜 鶴岡市鱒渕
※写真は西朝日岳の電光形軍道跡

花山忠夫さんのお話
大朝日岳周辺の朝日軍道
北畠教爾さんのお話
なぜ必要だったか
置賜の史料より
朝日町の史料より

※登山の際は、事前に登山情報をお確かめ下さい。
朝日山岳会(PC)
観光協会
観光協会(PC)
朝日鉱泉ナチュラリストの家(PC)
 朝日鉱泉は、江戸末期に朝日大権現の霊異によって発見・開湯されたと伝わり、昭和40年代までは「朝日館」「古川屋」の二軒の鉱泉旅館がありました。炭酸カルシュームの泉質は、腎臓病、胃腸病などに特効があるとされ、農閑期の湯治客と登山客で賑わいました。特に登山シーズンには浴客が一日300人を越すこともあり、宮宿からの出張売店もあったそうです。
 湯治客が減り登山者も白滝コースの利用が増え、両館共に廃業しますが、昭和50年(1975)に「朝日館」が「朝日鉱泉ナチュラリストの家(西澤信雄氏経営)」として再建されました。昭和61年には大朝日岳を眺望できる現在地に移転し、大朝日岳登山や渓流釣り、山菜・茸採り、自然観察などの基地として利用されています。館内には朝日町エコミュージアムブナの森サテライトの展示コーナーも設置してあります。(見学は要問合せ)
※参考文献 /『朝日町史下巻』、「ランプの朝日鉱泉」文・長岡幸助(昭和30年山形新聞記事)

朝日鉱泉ナチュラリストの家
朝日鉱泉ナチュラリストの家 (PCサイト)
アクセスマップはこちら
 胸高幹周り9.27m。林野庁「森の巨人たち」で日本の巨木100選に選ばれました。上倉山の頂上を越えたあたりの登山道から少し入った所にあります。近くには幹周り8mや6mのクロベもあります。
アクセスマップはこちら
※朝日鉱泉より2時間登山
※登山の際は、事前に登山情報をお確かめ下さい。
朝日鉱泉ナチュラリストの家(PC)
 朝日連峰の猿渡、ヌルマタ沢一帯は県の自然環境保全地域となっている。この一帯はブナやミズナラを主体とする優れた天然林で、原生林地帯としては朝日山地の中でも朝日俣流域とともに最も貴重な原始的自然林地帯です。とくに御影森山、焼野平に向かう緩斜面は樹高25メートルに及ぶブナ極相林が発達し、朝日山系随一の美林となっています。
※『郷土学習辞典』より抜粋
アクセスマップ
※登山の際は、事前に登山情報をお確かめ下さい。
朝日山岳会(PC)
観光協会
観光協会(PC)
朝日鉱泉ナチュラリストの家(PC)
 
 朝日川と寒河江川上流のブナ林(朝日町・大江町・西川町)は「21世紀に残したい日本の自然100選」(1983年 森林文化協会、朝日新聞社)に選定されています。
 これは、全国から4万5000通の応募、候補地は2000カ所以上の中から選ばれたものです。この選定によって全国的に注目されるようになった自然地がも多く、森林文化協会はその後17年間、10地点で定点観測を続け、自然の変化を追っていました。
 概要: 山形県西川、朝日両町にまたがる磐梯朝日国立公園の一部で、国内でも有数のブナ林が広がる。樹齢は250年から600年で、直径1メートル以上の巨木も多い。ブナ林の根元には、その可憐な姿からオトメユリともよばれるヒメサユリが群生し、桃色や白の花を咲かせ幻想的な美しさを見せる。
※白滝や朝日鉱泉からの登山道を歩くことができます。
※登山の際は、事前に登山情報をお確かめ下さい。
朝日山岳会(PC)
観光協会
観光協会(PC)
朝日鉱泉ナチュラリストの家(PC)
 
 朝日連峰は、昭和25年に指定を受けた磐梯朝日国立公園の中枢をなす山形・新潟県に連なる美しい山です。山容は壮麗なる山肌に、重畳たる山並みの姿ときめ細かな彫りの深い渓谷の顔をもっています。日本海より40kmの隔たりしかなく、冬ともなると直に季節風を受け、主稜西側へ大量の積雪となります。この膨大な雪は水となって流れ、岩を侵食し左右非対称の独特の姿と高山植物やブナ林に代表される豊かな生態系をつくり出しています。
お話 : 西澤信雄さん (朝日鉱泉ナチュラリストの家代表)
※写真提供 : 佐竹伸一さん
 和銅年間(708〜14年)信越地方より、山形県内陸部に多くの移住があり先進的な農業技術と共に大沼浮島周辺に見られる神仏混合の山林宗教が入ってきました。同時代、朝日山箕輪に極楽寺を建て柴灯を焚いて神仏に祈願しています。14年後に鳥原山(十谷ケ原)に二之宿を設け、持統10年(756年)には朝日権現堂を再興しています。その外に八幡社・大黒堂、白滝には弁財天を建立しています。造営と維持には多大の労力と経費が用いられ、それを支える行者や修験者等の人数は極めて多かったことを示しています。

お話 : 西澤信雄さん (朝日鉱泉ナチュラリストの家代表)
※写真/佐竹伸一氏
 生態系の豊富さは、山菜や茸採りで生計をたてた時代も最近までありました。落合の手前にはぜんまい採りの山小屋があり、夫婦で山に入り夫の採ったぜんまいを妻が茹で干して揉んで乾燥させている光景がありました。
 朝日連峰は別名東北アルプスとも呼ばれ、本格的な登山客には喜ばれる山行を提供できる貴重な山でもありました。この山をホームグラウンドにして厳しい登山練習を重ね、昭和44年に朝日分校山岳部男子チームが、尾瀬を会場にした第13回高校総体に参加して優秀な成績を残しています。
 朝日連峰は美しい山と言われるのは、自然の美しさのみでなく朝日山岳会等による清掃登山、登山道や水場の確保に努力していることも大きく貢献しています。
お話 : 西澤信雄さん (朝日鉱泉ナチュラリストの家代表)
※写真/佐竹伸一氏
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お話 : 北畠教爾氏(朝日町史編纂委員)

〔なぜ朝日軍道が必要だったのか〕
 天正年間、庄内地方が上杉家の領地になりました。その後、上杉家は慶長3年(1598)に豊臣秀吉によって、所替えを命ぜられ、越後の国から会津へ移されます。越後・北信濃を削られまして、庄内と佐渡と長井・会津・仙道の方が領地になりました。120万石ということで、石高はぐんと増えて五大老の一人になるんですが、今まで、越後と繋がっていた庄内が切り離されます。それで庄内と置賜の経営にあたっていた直江兼続にとって、両地方を結ぶ連絡路がぜひ必要だということになるわけです。それが朝日軍道ということになります。(地図参照)
 兼続は庄内を治めるために、出羽三山の力を利用しようとして、湯殿山に沢山いろんな物を納めたり、寄進したりしています。さらに、佐野清順という腹心の坊さんを羽黒山に派遣しますが、文禄4年(1595)には寂光寺法頭清順という羽黒の別当に就任し、羽黒全部を押さえたことになります。その後、清順は、関ヶ原合戦の後出羽三山から追われ、朝日軍道を通って米沢へ逃げます。米沢では笹野観音の別当になり、後には定勝の侍者として儒教の先生になっています。

〔置賜の史料に見られる朝日軍道〕
 慶長4年(1599)上杉家の家臣である春日右衛門が、朝日軍道の番人頭だと思われる源右衛門にあてた黒印状によると、朝日軍道のことを「庄内すく路」と書いてあります。「直路」と書いて「すぐろ」と言ったのでしょう。また、その小屋番をさせるにあたり、檜材で曲げ物をつくったり、材木を切り出したり、狩猟をするのに係る税金を免除するということと、田地を持たず、百姓でない者がいたなら、だれでも山の小屋に連れて行って番をさせろということを命じております。
 朝日軍道の入り口である長井市草岡の青木家所蔵文書によると、同じく慶長4年に、春日右衛門が、軍道の案内役をしてくれた草岡村の修験者や村人5人に対して、苦労をかけたので役義(租税や課役)を免除した記録があり、その後約200年経った寛政8年(1796)になっても、子孫に対して先祖が貰った褒美をそのまま認めている安堵状の記録もあります。

〔朝日町の史料に見られる朝日軍道〕
 慶長4年(1599)上杉家の家臣である春日右衛門が、朝日軍道の番人頭だと思われる源右衛門にあてた黒印状によると、朝日軍道のことを「庄内すく路」と書いてあります。「直路」と書いて「すぐろ」と言ったのでしょう。また、その小屋番をさせるにあたり、檜材で曲げ物をつくったり、材木を切り出したり、狩猟をするのに係る税金を免除するということと、田地を持たず、百姓でない者がいたなら、だれでも山の小屋に連れて行って番をさせろということを命じております。
 朝日軍道の入り口である長井市草岡の青木家所蔵文書によると、同じく慶長4年に、春日右衛門が、軍道の案内役をしてくれた草岡村の修験者や村人5人に対して、苦労をかけたので役義(租税や課役)を免除した記録があり、その後約200年経った寛政8年(1796)になっても、子孫に対して先祖が貰った褒美をそのまま認めている安堵状の記録もあります。

お話 : 北畠教爾氏(朝日町史編纂委員)
朝日町エコミュージアム20周年記念事業(09'11.08) 
パネルディスカッション「直江兼続が開いた朝日軍道」より

※上記ダウンロードボタンで印刷用のpdfファイルを開けます。
お話 山田栄二氏(西川町)

◆軍道の全体像と踏破の記録

 軍道の全体像としては、用途は情報連絡・物資輸送・藩士往来で、全長は約60キロメートルとされているのですが、我々が歩いた実測値によると約六五キロメートルありましたが、高低差によるものと思われます。旧朝日村の史料によると道幅は九尺で、途中に偉い方が泊まる御殿小屋が二ヶ所あったようです。一つは旧朝日村地名図にある高安山南方の小屋屋敷のところで、もう一つが御影森山か中沢峰の下あたりかと思われます。工期は慶長三年の一夏でつくったということで、工事を担当したのは、庄内口から鱒淵村の農民、米沢口からは草岡村の農民が動員されており、他に奥三面衆が山案内に当たっていたようです。
 朝日軍道が通る連峰の全容は、米沢領から葉山 ―八形峰 ―中沢峰―前御影森山 ―御影森山 ―大沢峰 ―平岩山 ―大朝日岳と来まして、中岳 ―西朝日 ―寒江山―以東岳―オツボ峰―三角峰(三角峰手前までは登山道があります)。その先、戸立山 ―茶畑山 ―芝倉山 ―葛城山 ―高安山―猿倉山―鱒淵、それから飛地庄内領に入ります。
 我々が踏破した記録ですが、平成16年の第一次から21年まで6回の登山を実施しました。(単なる登山ではなく軍道痕跡を探る視点で歩きました。縦走路では悪いとは思いながら、登山道から外れたりしながら結構丁寧に歩いたつもりです。) 途中、平成20年の第5次登山には、NHKが朝日軍道のレポート番組を作るということで同行取材をして、7分位の番組が東北六県で放映されました。

◆朝日軍道の痕跡を探して

 草岡の登山口、初夏は草茫々なんですが、ここから葉山にかけてのあたりが一番軍道の痕跡らしさが残っているように思います。
 藪の中に古い石積みがあるのですが、普通に歩いていると気が付きません。また途中にわざわざ石を鏨(たがね)で砕いたような痕も見られます。おけさ堀付近までは、道幅二メートル位の電光型の軍道と見られる道が顕著に残ってます。葉山から八形峰を通って焼野原を降った先に中沢峰鞍部の水場がありますが、ここだけ樹齢何百年かのブナ残っており、傍に水場があり周りは広く、誰が考えても休み場として最適な所だなという感じです。
 中沢峰を降って途中にも電光型の道があるのですが、これがなぜ軍道じゃないかと思うというと、登山道であればこの短い区間をこんなに曲がる必要がないんですね、例えば、山にキノコ採りや山菜採りに行くにしても、峰まで真っ直ぐ登って行くのが普通で、登山でもかなりの急斜面なら別ですけれども、真っ直ぐですね。
 御影森山の手前に、怪しげな棚状の樹林がありますし、大朝日岳から西朝日岳にかけても、軍道の痕跡と思われる所があります。それから、三方境から狐穴小屋の先中先峰の所にも電光型の軍道跡が見られます。
 以東岳から先、三角峰に行く途中にオツボ峰という所があるのですが、史料によると、ここには御壷石(この下に人骨を埋めたと推測。)という二間四方の石があるとありますが、この辺りでいくら探しても、手前で見つけた約二間四方の石以外にはありませんでしたので、これが御壺石に違いないと確信しています。石の下には何かあるはずです。地元人たちは更に調査してほしいと思っています。
 次の登山で戸立山を目指したのですが、この先は登山道も無く藪が密集しており、泊まり荷物を担いでの登山は体力的に無理だと判断して、軍道の痕跡がある程度判り、さらに歩きやすい残雪期に調査することとしました。
 そして、戸立山の先茶畑山山頂付近に不自然な切り通しを見つけました。幅が六尺を超えるものですが、50m位の区間ですが明らかに人の手が入ったような痕跡があります。やったと思いました。
 先の高安山、兜岩には当時明神様が祭られていたようですが兜岩はいかにも明神様にふさわしく堂々とした岩山です。探したのですが社跡などは確認できませんでした。
 猿蔵山から鱒淵に下りて庄内に出るのですが、途中に岩魚沢という所があり、ここが軍道だったと史料にあります。また、鱒淵集落の中に山神社がありますが、ここは当時、軍道の完遂を祈願したとされていますが、集落の人に確認はしていません。

朝日町エコミュージアム20周年記念事業
パネルディスカッション「直江兼続が開いた朝日軍道」(2009)より一部抜粋


山田栄二(やまだ えいじ)氏
昭和26年(1951)生まれ 西川町間沢在住。登山暦約40年。
岩根沢清川仙人会所属(月山 清川行人小屋及び岩根沢、本道寺からの登山道管理団体)。月山清川行人小屋管理(年数回)。朝日軍道については、現地軍道痕跡を目的とした一貫した報告・資料等がみあたらず、朝日連峰山麓に住む者として一度朝日軍道を歩いて見ようということになり、平成16年、清川仙人会員及び他の山仲間と痕跡調査登山開始し6年目で区切りとなる。
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ひとつひとつ描かれた木々
力強い山の稜線
"シン"という音がみえる空気と空

長岡さんの絵を初めてみせていただいた時、
「あ、山だ。これは朝日町の山だ。」
という言葉が私の口から流れ出ました。

長岡昴司さんは、長沼で生まれ
現在は太郎に居を構えています。
鳥原山の山小屋で働き、朝日連峰を
日々みつめて暮らされています。

絵には人がそれぞれ生活で培ってきた
視点がでます。

ある春の日、栃の木を観察されている
長岡さんにお会いしました。
陽の傾きと共に在りようを変えていく
葉の様子を、刻々と観察し、その変化に
感嘆の声をあげながら紙に描きとめて
いらっしゃいました。

長岡さんの描かれる絵に、描いているモチー
フにプラスされた、静謐とした
静かな時間の流れを感じるのは、
こういった視点をお持ちの方が描いたから
ではないでしょうか。

「山にいるといろんな人との関わりがあって
楽しい。町にいる時は声を かけない。
山では会話がある。それが楽しい。」
「山は川より体に”くる”ものがある。」
という、それそのままの視点が、描いているも
のひとつひとつをなぞる
活き活きとした視点となって観ている人に
伝わってくるのです。

報告/田中敦子 あとりえマサト代表
東北芸術工科大学日本画コース副手
平成20年(2008)


長岡昂司(ながおか・こうじ)氏
プロフィール
1959年朝日町長沼版画家阿部功雲の分家に生まれる。
大工歴33年。
年間、鳥原山に約30回、大朝日岳に5〜6回登る。
朝日山岳会理事。朝日町山岳遭難救助隊員。
朝日町太郎在住。

※写真の絵は建築業の端材に描いた木川ダムの風景です。
※上記ダウンロードボタンで印刷用のpdfファイルを開けます。
 リンゴ、キハダ、トチノキ、ニセアカシヤ、夏の草花の蜜を採っている。やっぱり一番は六月に咲くトチノキだね。全ての花が蜜源だったらいいんだけれど、採蜜できるほど大量の花蜜を出してくれる植物は数えるほどしかないんだ。今となっては、東北地方のようなトチやニセアカシヤを抱えている山は最も恵まれた蜂場だね。
 採蜜は、朝早くて大変だ。朝の3時に起きて現場に向かい、夜明けと共に始める。花から集めてきたばかりの蜜は、まだジュースみたいにトロトロしている。蜂たちは、一昼夜かけて羽であおいだり、口移しで伸ばしあったりして、発酵しない濃度になるまで水分を蒸発させるんだ。だから、まだ蜂が働きに出て戻らない朝一番に採蜜しなければならないんだ。
 まず、ハチミツの入っている巣をそっと巣箱から抜き出して、思いっきり上下に振って蜂を振り落とす。落ちないでくっついている蜂は、刷毛を使ってそっと払い落とす。たまっている巣だと、一枚に一升もたまっているから重労働だね。一箱で七?八枚抜き出したら、トラックに積んである遠心分離機に持っていって、専用の蜜刀で「蜜ぶた」を切る。蜜が濃縮されると蜂たちはふたをしてしまうんだ。それから巣枠の外側に作った無駄巣も切り除く。そして遠心分離機に入れて回す。昔は手回しだったけれど、今はモーターで回している。新しい巣は、壊れないように加減して回すんだ。すると遠心力で、どんどん蜜がふっとばされて出てくるんだ。洗濯機の脱水と同じ原理だね。蜜を金網でろ過して、一斗缶に詰めて持って帰る。トチノキの季節に一箱で五升以上の採蜜を三回できたら、大収穫だな。
お話 : 安藤光男さん(宮宿)
取材 : 平成6年(1994)
 木のうろなどから、収穫してきた山蜂(ニホンミツバチ)の巣は、手でしぼったんだ。布で袋を作ってハチミツの入った巣を粉々にぶっかいで入れて、ぎゅーっとしぼんなよ。これが一番しぼりでいい蜜だ。そして二番絞りは、袋さ残ったのを鍋に少し水をいれて煮るんだ。巣の蜜ろうを溶かして浮き上がらせるんだ。冷めると固まったら取り除くのだけど、それは水が入った薄いハチミツだから、早く飲まんなねがった。料理に使ったりもした。今でもハチミツしぼりなんて採蜜のことを呼ぶのはそのなごりだべな。

お話 : 安藤チヨミさん
取材 : 平成6年(1994)
 ハチミツの他にも、ローヤルゼリー、花粉、プロポリス、蜂の子、蜜ろうなどの生産品がある。どれも少量しか採れないけどね。
ローヤルゼリーは、女王蜂だけに与えられる王乳を人工の王台(女王の育つ大きな巣穴)をたくさん仕掛けて集める。
 花粉は、両足につけてくる花粉だんごを巣門(入り口)にやっとくぐれる穴のついた器具を仕掛けて、むりやりくぐると足から外れて落ちる仕組みにして集める。
 プロポリス(蜂やに)は、ミツバチが巣を補強したり、殺菌したりするのに集めてきた樹木のヤニとミツバチの出す酵素を混ぜ合わせて作られるもの。巣枠にはりついたものや、換気窓のところに金網を仕掛けておいて、そこに付けたものを削りとって集める。
 蜂の子は、蜜を集めない雄のさなぎを収穫して、醤油とみりんで油炒めして食べる。香ばしくておいしいんだ。残念ながら自家用だけだね。

お話 : 安藤光男さん(宮宿)
取材 : 平成6年(1994)