朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報

14.秋葉山エリア:詳細について
大谷往来

 倩、徒然の紛れに、村の風景書き続け候わん。そもそも、大谷村東西南北山続き谷深うして、其の景殊に盛んなり。

 先ず東に古館あり。清々たる最上川の流れ、前に当り帆懸船の往来を詠む。駒の頭に釣垂る人は水辺に居て竿の梢を見る。寔に(まこと)に用山の明神、粧坂の粧い眼下に相見え候。

 後は愛宕山、山の頭に当り、草木の花帯び春の風に綻び落る風情は、秋後の雪の天に飛ぶかとうたがう。御伊勢原の雲雀霞の海に音あり、万世楽を囀る(さえずる)。日光山の鴉(からす)あやふきを告げ松椙に舎る。

 南はかん嵯の鍵蕨寸尺延びて蛍に壱夜の宿を借す。面白岩に愛宕山、老若の男女袖を烈ねて参詣す。狐塚の百合草の花は小首を曲げて色を争う。間木山の残月梢の花清に入る。

 西に当り社あり、大沼山と号す。其の景勝地森々たり、二十丈の松の枝、空吹く風のその音は颯々たり、琴の調べに耳を峙だて沼の浮島は形勢を揃え水浪に遊ぶ。

 瀧の沢の兎子は、嶮岨の山腰を走り飯森山に居す。大暮山の在家夕陽の煙立って高山に登る。初木山の猿猴は杣人の往来を呼ぶ。

 北に社あり、北野天神と号す。峯を登れば谷地山なり、岬伝いに所々に雪降り鹿の子斑に村消え、霞の内の松が枝茂蒼たり。後は、中丸、模様見田、狢森、前は田面打ち続き、西の溜井に鷺立ち、寺山の狼は鵜食沢の落馬を覘う。

(入力中)
 大谷盆地中央の広い平坦な所は、水利に恵まれず、昔から荒地と湿地がほとんどでありました。水田といえば、山田や谷田で小さな溜池や沢水、わずかな清水(涌水)と、天気まかせの天水を利用して細々と耕作していたのです。その田んぼも、日照りになると、田は割れ、稲は枯れてしまい、毎年のように水不足に悩まされてきたのです。そんな時代が何百年と続いてきたのでした。      
 江戸時代になって、初めて大型のため池が二か所つくられました。それは山形藩主鳥井忠政預り支配のとき御普請所(幕府の公費)により、郡中の幕府領内の村々から大勢の人足が出て築かれたものです。内林のため池は寛永三年(1626)、西堤は翌年の寛永四年に完成したのです。     
 それから二十年後、慶安元年(1648)に村人だけの力(自普請)で中丸と猿田のため池二か所を構築したのです。これらの本格的な溜池四か所の完成により、盆地周辺の山裾一帯が新田開発され、耕地面積も倍増しました。しかし、平地を開田するだけの水量はなく荒地のままだったのです。

『水とくらしの探検隊〜大谷大堰編〜』より抜粋
編集 : 平成14年(2002)
 明治16年(1883)より毎年旱魃が続き、特に明治十九年は、歴史に残る大旱魃となったのです。田植後6月18日は一日雨。それより8月22日まで、五5、6回一時的な雷雨があったものの、65日間ほとんど降雨なく、連日摂氏30度以上の猛暑が続き、稲や野菜も枯れはじめ、収穫は半作という悲惨な状況でありました 
 油子沢新堰完成後20年にして、またもや水不足が問題となったのです。そこで衣沢に30日間通水できる大型の溜池築堤を村会で決議、明治新政府の基盤も弱く、国からの助成は困難な状況にありまた、村民に費用の全額を負担させることもできず、苦心相談の結果、村の有力者5人より、田地買上代として150円の寄付を願い、村民の協力で、難工事も順調に進み遂に完成したのが滑の股ため池(通称村堤または衣沢の堤)であります。
 明治23年建立の「滑股溜池碑」に総工費1,593円、総人夫1,050人と刻まれています。 
滑の股溜池碑写真

『水とくらしの探検隊〜大谷大堰編〜』より
編集 : 平成14年(2002)
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 大谷で最初に、大型のため池が御普請所(幕府の公費)によりつくられたのが、内林のため池です。今から377年前のことです。
 現在の潅漑面積は、7,1ヘクタールで内林水利組合が管理運営をしています 堰堤(えんてい)からは、大谷盆地全域を一望でき、春夏秋冬、季節ごとに変わる大谷の美田を楽しむことができます。   
 大谷の周辺には、昔あったものを含め、大小40以上のため池がありました。学校にプールができ、落ちると危ないからと親から注意され、溜池に寄りつかなくなりましたが、昔は溜池がレクリエーションの場でありました。特に、この内林の堤は、大谷地区のプールがわりに、毎日水泳や釣りを楽しんだものです。このように、溜池に関わった人、親しんだ人が大勢いたのです。

『水とくらしの探検隊〜大谷大堰編〜』より抜粋
編集 : 平成14年(2002) 
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