朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報

15.大隅遺跡エリア:住民学芸員のお話
〈大竹國治さんのこと〉
 國治じいさんは、明治十三年生まれ、大地主の息子で昔は福島の蚕業学校なんか行ってたし、和合の信用組合なんかも作ったり、大正六年からずっと村会議員や町会議員もしていた。昭和十八年前後には宮宿町長なんかもしていたから普通の百姓の人ではなかったらしい。昔は、養蚕の種屋をしていた。この家も総二階で蚕を二階なんかに飼っていたのだろう。種屋は良い種を見つけるのが仕事で、この家の造りもこの土間も広いのは売り買いしていたからだな。

〈國治さんと考古学〉
 國治さん自身は、考古学的なものは何も残していないが、書については興味があったえらしい。歌お膳や何かにも詳しくて近さん(國治さんの息子)が結婚する時は、お膳とか何か輪島の名人に注文していろいろなお花とか鳥とか描いてあって、一枚ずつ違う文様のを取り寄せたりしたこともあった。
東京に行ったときも、三越からお土産を買ってくるような人だった。良いものを見る目はあったのだろう。私は詳しく分からないが、いろいろなものに興味を持った人だったらしい。昭和十二年に明鏡橋の工事があって、その時に自分の畑から出た石を見つけて二階の部屋にとっておいた。二階は、滅多に人の行かないところだから置いておくには良かった。これが大隅の旧石器だった。

〈田原眞稔さんとの関係〉
 國治さんの妹が大井沢に嫁いでいて、その旦那さんは校長先生なんかした人で、その子供が倫子さんで田原さんの奥さんだ。だから、仲人なんかもしたと聞いた。倫子さんの実家は大井沢で、あの当時だと冬は行くのが大変で正月なんかこの家によく遊びに来ていた。それで田原さんが考古学に興味があるからというので見せたのだろう。だからきっと、國治さんは大隅で見つけた石が、石器と分かっていて二階にとっておいたのじゃないか。

〈潤次郎さんも発見した〉
 潤次郎さんは昭和六十二年五十四歳で亡くなったが、区長もしたし森林組合なんかの仕事もしたし、教育委員も務めたんだ。昭和五十四年にまた道路の改修工事があって国道二八七号線の工事をした。この時に潤次郎さんも畑に毎日のように見に行って、自分の畑が削られるときに掘ってまた石器を一個発見したのだな。この石器発見で、はじめて大隅遺跡が発掘された。調査は、この時が初めてらしい。三個くらい見つかったと聞いている。

〈國治さんは偉かった〉
 國治じいさんが偉いと思うのは、戦争に負けてこれからは今までと違って生きなくてはいけないというので、大きな屋敷のこの家のお坪を少し壊してりんごを植えたり柿を植えたりした。この気構えはなかなかできないな。自分が大事にしてきたお坪壊すのだから。その変化は偉かった。雑木林もりんごに換えた。今もそのままりんごを作っている

〈この土地の良さ〉
 ここの大隅の場所のことだけど、この間全国を地質調査に回っているという人が来て、ここは風景も良いし三メートル下は岩盤で地震に強い。排水も良いし井戸水も枯れない良いところだ。ご先祖さんは、良い所を探したなと誉めていた。こんな良い所だから大昔から人も住んでいたのだろう。最上川の段丘には遺跡が多いということらしい。そこは住むにも良いところだ。

〈大隅の旧石器のこと〉
 大隅の旧石器が見つかって、田原さん達が研究したのだけど、長い間放っておかれた。これだけ価値のあるものだと思う人が少なかったのだろう。國治じいさんは、石器は貴重なものであれば私有化してはならない。社会へ提供するべきだといって、全部あげたと聞いている。だから町でこういうものを大切にしてもらえたら、國治じいさんも喜ぶだろう。

お話 : 大竹敦さん

〈小学校三年から石器拾い〉
 田原眞稔が石器や土器に興味を持ったのは、小学校三年くらいからだったと聞いている。その頃だと、この大隅あたりを歩いては、石器や土器を拾いに出かけたらしい。今も残っているが、ボロリュックと巻き尺なんか持って歩いていた。菅井進さんなんかと一緒に歩いたこともある。石器のでる所は、裏に丘陵があって、下は開けているという所だと話していた。そして、こういうところが昔の人が住まいするのだと話してくれた。

〈結婚した頃〉
 眞稔さんは、大正十四年生まれで、私は大正十五年生まれです。私は大井沢(西川町)生まれで、父は学校の先生で姉は医者(志田周子)だった。私は、兄が出征して帰るまでの約束で家に帰った。そんな私をみて、叔父が田原との縁談を進めてくれた。どうせ百姓するなら良い場所がいいと思っていたので、家の周辺が畑なのは、働きよいと思った。

〈田原家のこと〉
 眞稔さんもこの土地が好きだった。田原家は、五町歩の御朱印地を持っている神社だった。大谷には、白田外記、内記など御朱印地が多かった。この田原家は、本業は神職で、医業が副業だった。三代前頃は、寺子屋をしていて近隣の子弟を教えていた。兄が医者になる予定だったが、若くして死んだので後を継いだらしい。

〈『縄紋』を出していた頃〉
 考古学が好きだったので、入門書から専門書、までずいぶん多く読んでいたようだ。山形師範では、長井政太郎先生の弟子で、三面部落の調査の時の原稿も自分が書かせてもらった。昭和二十年に師範を卒業すると和合小学校に勤務した。この頃菅井進さんや大竹家と知り合った。私が結婚したのは、昭和二十六年だから、もう『縄紋』も終わりの方だった。今でも多くの人達から来た手紙が残っているが日本中の研究者と連絡していたようだ。後々までいろいろな連絡が来ていた。学校から帰って夜中になると原稿を書いていた。あまり遅くまで起きているので朝はつらかったようだ。学校に遅れて行ったりしていた。あの頃はそれでも勤まったが、今だったら勤められたか分からない。昭和二十二年に『縄紋』第一集出しているけど、あの時は紙の少ない時代で、教員になってからの給料は、ほとんど『縄紋』に使ったと思う。私は、一度も主人の給料を見たことがない。

〈東京大学で講演したことも〉
 日本中で『縄紋』読んでいたみたいで縄紋文化研究会には、日本中に会員がいたようだ。文部省から研究費をもらっていたこともあったが、経済的には大変だった。この研究には、会費とか会議とかいろいろなお金がかかったようだ。学術会議の会員にもなっていて人文学部の選挙権もあった。昭和三十年頃だったと思う。「縄文学の提唱」という題で、東京大学で論文発表してきた頃が、主人としては一番良い気分の時だったと思う。
それ以降、病弱な子がいて、母が病気になったりで、生活に重点を置かざるを得なくなり、学校を辞めたのだと思う。農業で生きられる人ではないと思ったので、私も、私の姉たちも学校を辞めないようすすめたが、言い出したら聞かない人だった。

〈縄文の博物館を作ろうとした〉
 学校を辞めたのが昭和三十二年です。私が畑、主人が給料と二つあるのが良いと思っていたが、りんごを始めていたので、それを本格的にするというので辞めた。学校辞めてりんご作ろうとしたのは「縄文博物館」を作るのが夢だったと話していた。にんごで生活を安定させて夢を実現しようとしたが、現実には思うようには行かなかった。

〈日本のシュリーマンに〉
 体こわしてからも菅井さんなんかが、改めて発掘しようとか誘いに来たけどあまり熱心ではなくなった。シュリーマンの様に大きなことをやりたかった。そのためにはお金が必要で、それで農業で生活の基礎を築きたいと思った。その頃、給料は安いし戦後の食糧不足の時代だったが、和合の方はりんごで景気が良かった。りんごで稼いで本格的に縄文の研究したかったのじゃないかな。大学の非常勤講師もしていたが、農作業が忙しくてそれどころではなくなった

〈何にでも研究熱心だった〉
 学校を辞めてりんごづくりと鳥飼もした。鳥飼したときも『養鶏の日本』なんて本を読んでいた。りんご箱でゲージ(鳥かご)を作って五百羽も飼ったことある。その卵を仙台のお菓子屋に売りに行ったり、塩釜から魚のアラをトラック一杯買ってきたりした。何でも大規模にしたい人だった。研究熱心で鳥のくちばし切ったり、羽根切ったりしてどうしたら効率良く育てられるか研究したりもした。
 りんごも作り始めると青森の渋谷雄三さんの剪定の本を取り寄せて勉強していた。剪定は、教えに行ったこともあるし賞ももらったし、本人も剪定が一番面白いと言っていた。でも、若いときから労働した人ではないから、労働の連続はできなかったのじゃないかと思う。
 大竹の叔父は、大分主人を気に入ったらしく、和合小から送橋に転任になるときなど教育委員会に異議申し立てをしたハガキもある。だから、石器も預ける気になったのだと思う。旧石器のことが次第に知られるようになってくると、山形大学生や石器に興味を持つ人が訪ねてくることが多くなり、仕事に影響するようになっていたし、柏倉先生や加藤稔先生等も見にいらっしゃったのを覚えている。その頃だったと思う。「山形大学に貸してやることにした」と言っていたのを覚えている。どなたと、どんな約束をしたのかは分かりませんが、貸してやったと言っていました。
 この家には、集めてきたいろいろな石器や土器が町から貰った収納箱に残っている。いつかどこかで展示できたら良い。

〈この土地が好きだから〉
 千年近くも続いている家なので、できるだけこの土地を残したいと思っていたのだと思う。ずいぶん苦労もさせられたが、夢のある楽しい人だったと思っている。個人でスプレヤー(消毒などの散布機)を採り入れたのも早かったし、自家用の車を入れたのも早かった。中古で買った牽引車を今も使っている。この土地を残してもらったおかげで、今も働けて何とか生きてこられたのだと思う。
眞稔さんもこの土地が好きだったから、ここでりんごづくりをしたのだろう。小さい時から自分が大きくなったら、この土地に住んでこの土地を守ると話していたらしい。
 本当にこの土地が好きだったのだろう。手相を見る人に、五十代で命に係わる病気をすると言われたと言っていた。四十代半ばで大病をし、五十五までの人生は短すぎたと思う。

お話 : 田原倫子さん
平成8年

〈幸運の重なった発見〉
 大隅遺跡については、本当にいろいろな幸運が重なって起こったのだと思う。明鏡橋の工事、大竹國治さんの発見、田原眞稔さんへの紹介、そして私が田原さんのを見せてもらって実測図を書いた。さらに、「縄紋」第三集に「粗石器に関して」として載せたことなど、幸運が次から次へと続いたのが大きな原因だと思う。

〈田原さんの指導があったからこそ〉
 私が「縄紋」に書いたときは、まだ十九歳で論文の書き方も知らなかったし、どういった説得で論を進めていったらいいのかも分からなかった。しかし、私は石器に興味があったので、いろいろな外国の文献も読んでいたのと、田原眞稔さんという考古学についての専門家が側にいたので、田原さんの助言で可能になったと思う。もともと石器自体も大竹さんから田原さん自身にお渡しになったもので、私の所有ではなかった。だから、この研究をするには、私が田原さん宅に伺って勉強させてもらいながら実測図を作った。

〈私にとり大隅は、考古学のすべてだ〉
 私が今まで考古学に取り組んできたのは、この最初に書いた『粗石器に関して』の論文のいろいろな不備を直すためにやってきたようなもので、これがなかったら今までやってこれなかっただろう。そして、東北大学教授の芹沢先生に目を通してもらい、この『粗石器に関して』の不審な点をなおすように書いたのが『山形県大隅の石器文化』という論文だった。

〈旧石器だと思っていた〉
 粗石器という言葉は、田原さんと私が「粗末な石器」だから粗石器と勝手に名付けたのではないかと思う。ただ表紙に粗製石器という言葉を利用しているのでその略語だったのかもしれない。ただ、私としては田原さんを含め、これは旧石器と思っていたことは確かだと思う。ただ日本では、洪積世のローム層での骨の発見などがなかったので、その頃は、無土器時代、先土器、先縄文時代という名称もできたのだと思う。最近は、もう旧石器という名前にだれもこだわらなくなってきている。

〈藤森栄一さんとの出会い〉
 藤森さんは、当時田原さんがしていた縄紋文化研究会の会員だったので、手紙のやり取りなんかがあった。それで一度私は長野県諏訪市の藤森さん宅に見学に行ったことがある。すると藤森さんは、考古学の研究会を作られていて、お弟子さん三人くらいいたのに紹介する時に「山形からカモがネギ背負ってきたよ。一生懸命勉強したらいいよ。」なんて言われたことがある。これは、旧石器かもしれないというのは、全国そっちこっちにあったと思う。だから全国でいろいろ研究していた人がいたのだ。私の場合、幸運に恵まれたのだと思う。山形県が旧石器の宝庫だったのと、たまたま大隅が最上川の河岸段丘の丘の上にあり、最も人間が住まいするのに適していたということがあって報告できたのではないか。

〈代用教員になった頃〉
 私が代用教員をしていたので、和合小学校で田原さんと一緒に研究できたのです。その代用教員になった時代は、教育委員会でなく先生たちが代用教員を選んだらしい。候補の一人は背の高い人、もう一人は背の低い私だった。先生方の多くは「背の高い先生の方が生徒に示しがつくのでいいじゃないか」と言っていたが、田原さんが「背は低くても菅井がいい」というので、私に決まったという話を後から聞いた。私が代用教員になれたのもこういう幸運があったからだろう。

〈大隅から始まって、大隅に帰ってきた〉
 昔、代用教員で教育に関わって、そしてまた、今も教育委員長という教育の仕事に関わらせてもらっている。また教育に戻ってきたのだ。大隅も同じで、大隅から初めて、大井沢遺跡などの発掘にも関わったが、今また大隅の再発見に関われた。また大隅に帰ってきたのだと思う。

〈旧石器の日本発祥の地という看板でも建てて貰えたら嬉しい〉
 大隅の発掘は、一九七九年に二日間おこなっただけだ。この時はあまりに出土品が少なかった。たった三点だけで、もっと多くの遺物が出土してほしかったが、それでも、石刃の出土位置が地表から九十センチメートル下のローム層の真上のところにあったのを確認できたのは幸いだった。そのまま掘り進んだら撹拌層にぶつかったので、見込みがないというのでやめた。でもあの台地はまだまだ将来発見できる余地はあると思う。
 ただ発掘すればいいというわけでもない。発掘というのは、間違いなく遺跡の破壊でもあると思う。吉野ヶ里遺跡だったか、一度発掘して、風化して駄目になるというので埋め戻したらしい。だから土の中にあと一万年も眠らせておいて、一万年ぐらい先の考古学者に委ねるという手もある。しかし、まだまだ大隅遺跡には可能性がある。できればあの地に「旧石器の日本発祥の地」なんて看板を建てて貰うと嬉しいのだがな。

お話 : 菅井進さん(和合)
平成8年