朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報

01.朝日連峰エリア:住民学芸員のお話
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お話 長岡幸司さん(太郎)

■朝日の山が大好きだ
 わたしは朝日町太郎生まれで、もう80歳は越したが、今でも毎日山菜採りや、キノコ採りで生活をしている。もちろん冬は休みだが。家の周りにも、山菜やキノコのホダ木があるので、冬もキノコや山菜にかこまれているなあ。もう3、40年は、こんな生活をしている。朝日の山が大好きで、朝日のことなら、どこに何があるか、何でも知っている。俺の庭みたいに思っている。

■山の恵みで生かしてもらっている
 昔は、西五百川にたくさん俺のような人がいたが、今は少なくなった、商売にしている人は、何人もいないな。採ったキノコや山菜は、みな業者に売っている。キノコは、小さな箱に入れて売るのだ。買った八百屋が、市場に行ってセリで売る。その売った代金を後程精算してくれる。何でもそうだが、買ってくれる人がいるのだから、箱に入れるのにも、美しく見えるようにしないとだめだ。ただ決まった量だけ入れているのではだめだ。少しでも高く買ってもらわないと、大切な山の恵みを山から苦労して背負ってきたのだから。
 山に行ったら何でも採るようにしている。もちろん、マイタケ、ブナハリタケ、ナメコはキロ当たり値段が高いのだが、採れないときは、サルノコシカケでも採って来る。サルノコシカケは重いだけで、マイタケの何十分の一の値段しかならない。それでも、山に入って、なにも採れない時は、なんでも採ってこないとだめだ。どれも山からの恵みだから、われわれ商売人はそれで生かしてもらっているのだから。

■山は危険でいっぱいだ
 山には、いっぱい危険もある、よくあるのはスズメバチだな。これに刺されると、腕がしびれてくる。俺はいつもバイクだから、片手でバイク運転してきたこともある。手の回り、3か所刺された時は、山からガラガラ降りて来て、バイクのとこさ来て、ガソリンつけたんだ、さっぱり腫れないのよ。腫れてきてからではだめだ。フキの葉つけるのも良い。ホウの木の皮も良い。刺されたら、まずそこを絞ることだ。いろいろ方法はあるが、今では薬を持っている。ハチ刺されの薬だ。何事も準備が大切だ。

■クマには、18回もあったことがある
 一番おっかないのは、クマだ。おれは一回もかみつかれたことはないが、見たことは18回もある。一番近いのは、2間(3.6m)の所で出会ったことがある。登山道では、3間の所でもあった。あの時は、休んでいたら下から来たのだ。だから、いつも鈴着けている。峰越す時は、鈴鳴らすのよ。鈴鳴らすと、クマがあわててブナの木に登っていったことがある。木に登ったクマはおりてこね。一度は大きなの、2ついて、鈴鳴らすと一つは木に登ったが、もうひとつ大きな黒いの軍用機みたいないたのよ。ハアーて口あいたが、鈴鳴らすと、木に登っていった。鈴のあの「ケンケン」って音は嫌いなのだな。登山者も持っていたほうがよい。今は、山に入る時、爆竹持っていくこともある、奥に行って、この辺は危ないなあと思ったら、爆竹掛けるとおっかなく無い。クマには、どこでも気をつけなければならない、尾根越えるときは、声を出し「オオー」てさなる。腰にいつも鈴をつけていることも大切だ。おれは毎日山で仕事をしているのだ、山にはクマもスズメバチも住んでいる。だからこちらが気をつけなければならない。かかられたら損だ、かかったクマだっていい思いしないだろう。
(No.1203 聞き書き 西澤信雄)

長岡幸司氏(太郎)
昭和5年(1930)生まれ。
農家もしているが、山菜採り、キノコ採りを本業にする。今でも、朝日の山に毎日のように通う。朝日は自分の庭のように詳しく、山岳遭難の時も案内を頼まれ参加する。

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 雄峰朝日連峰磐梯山と共に国立公園として時代の脚光を浴びてから5年になる、朝日連峰は最近、山岳地形、山岳気象、動植物の生態または無尽蔵と称される地上地下資源、電力資源において専門家はもとより一般山岳愛好家の注目を引く様になったのは何より嬉しいことである。
 五百川郷の中心地朝日町(宮宿町)から二十四キロ。トラックを利用して約一時間四十分登山の基地朝日鉱泉に到着する。
 山形から約四時間、始発バスの客となれば、お昼にはすでに俗塵を湯に流して仙境の客人となれるのだ、せんせんと流れる朝日川の左岸一段と高い丘地に二軒の鉱泉旅館がある、朝日館、古川屋がこれである。開湯は明治初年。実に八十余年の歴史ある鉱泉である。朝日大権現の霊異によって発見され、泉質は炭酸カルシューム。胃腸病、腹痛等に特効あるといわれている。浴客実に年間六千人。夏期登山シーズンとなれば遠く関東地方からも訪れ一日三百人を越す時もめずらしくない。登山シーズンには宮宿から出張売店もありサービスにつとめている、しかし五百川郷のそちこちにみられる原始的なランプぐらしだ。
 古川屋の古老、房吉翁はことし六十六歳。十五歳の時から先達をつとめ朝日を跋渉する事、実に五百三十回。全く山の主である翁はいまなおかくしゃくとして大きいどうらんになた。きせるをポンとたたきながら「今の若い者は…」と気焔を上げている。先年若者数名連れて大朝日から全く道なき道をぬうて三面に行っている。旅館は食付一泊三百円、宿泊料一泊百円。下界で想像のつかない安さだ。
(写真・阿部幸作“ランプ生活の朝日鉱泉” 文・長岡幸助)
※山形新聞連載記事「朝日探訪」ランプの朝日鉱泉~山の主・先達つとめる房吉翁~
(昭和30年、掲載日時不明)より全文
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 朝日連峰のブナの原生林や高山植物に魅せられ、「朝日のカモシカ」の異名をとった朝日町が生んだ山岳写真家。 
 昭和24年(1949)より西五百川村常盤に写真店を営むとともに、朝日連峰の写真を撮り始める。昭和26年(1951)に故安斉徹博士(山形大学教授)の磐梯朝日国立公園指定のための調査に同行したのがきっかけで、大朝日岳の美しさ、魅力にとりつかれる。
 「写真技術はいい腕もさることながら、シャッターチャンスだ。動かぬものはともかく、流れのある被写体は2度同じものを撮ることはできない。」(毎日新聞より)と、山には3台のカメラを持って、気象が織りなす大自然をなんとか写真にしようと、毎年十数回、合計300回以上朝日連峰に通い、多くの写真を撮影する。
 特に昭和27年(1952)旧郵政省の磐梯朝日国立公園記念切手シリーズの「朝日岳」「月山」の原画に選ばれた時は、県内の多くの人々が喜んだ。
 昭和57年(1982)に発表した「朝日連峰 四季と植物」(高陽堂書店刊)は朝日連峰最初の本格的な写真集であり、「学術資料としても高く評価されるだろう。」(元県立博物館長 結城嘉美氏談)など多くの方面から関心を呼んだ。
 氏は山岳だけでなく朝日町の原風景や風物も数多く撮影し、3万枚以上の写真を撮ったといわれる。
 趣味も多才で、文筆、焼き物制作、刀剣、骨董などに造形が深く朝日町の文化活動に多くの足跡を残した。

略歴

大正13年(1924) 西五百川村常盤に生まれる。
昭和19年(1944) 海軍を志願、舞鶴海兵団に入隊。
昭和20年(1945) 終戦後、復員する。
昭和23年(1948) 
東京神田の写真館に助手として就職。
昭和24年(1949) 
帰郷後、西五百川村常盤に写真店を開店。(東京へ修業に通いながら)
キヨエさん(西五百川村太郎)と結婚する
昭和25年(1950)12月 
朝日岳の組み写真が全日本観光写真コンクール1位入選。
昭和26年(1951) 
磐梯朝日国立公園指定のための調査に同行し朝日連峰の広大無辺なブナの原生林や高山植物に魅せられる。 日本写真協会観光写真展特選。
昭和27年(1952) 
磐梯朝日国立公園記念切手の原画(大朝日岳と月山)として採択される。
昭和27(1952)~昭和56年(1981) 
この間、朝日連峰に毎年十数回のぼり寝袋とパンとカメラを持って寝泊りして山岳風景や高山植物の写真を1万枚以上撮り続け、県内各地で写真展を開催する。
昭和56年(1981)8月 
産経新聞山形版に「涼線・大朝日岳をゆく」を30回にわたり連載する。
ラ・ポーラギャラリーで「朝日連峰・光と闇」の写真展開催。
この写真展がきっかけとなって、写真集の出版が決まる。
昭和57年(1982) 
「朝日連峰・四季と植物」をA5判高陽堂書店より発刊、県内外の多くの山岳愛好者に好評を博する。
昭和62年(1987) 
長い間の統計調査員の活動に対し「藍綬褒章」を受章する。
平成7年(1995)11月30日  
72歳で死去。撮影総数は3万枚以上にも及ぶ。

第一回阿部幸作写真展
『朝日連峰 四季と植物』(高揚堂書店)

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お話 : 花山忠夫氏(宮宿)

〈大朝日岳の軍道について〉
 朝日軍道は葉山から御影森山~平岩山~大朝日岳~中岳~西朝日岳~竜門~と続いている。
 大朝日岳の山頂付近は大変風当たりが強い所で、草もあまり生えず岩も露出している。私は険しい大朝日岳の山頂は通らないで、中腹を迂回したのではないかと考えている。
 中岳の方から見た大朝日岳の斜面に電光形の道跡の線を発見した。そして大朝日岳の避難小屋の裏には、その斜面に至る道跡も見つけた。その辺りの背の低い灌木はだいぶ太くなっているので、近代になってから開削はしていないことが分かる。
 大朝日小屋から中岳に向かう途中に天下の名水”金玉水”があるが、その上部周辺にも地形を平らにしたような痕跡が見受けられる。水場も近いので番小屋があったのかも知れない。ここはもう少し掘って探すとなにか出てくるのかも知れないが、一木一草たりとも採ってはならない「特別保護地域」なので全く手をつけることはできない。

〈西朝日岳の消えた道跡〉
 西朝日岳の斜面に残る電光形の道跡を見ていて、下のほうの道が、一曲り、二曲り位消えていることに気付いた。また、折り返しがこのまま鋭角なカーブでは馬車が通れないので、そこに車回しの形跡があったはず。それも消滅したと考えられる。
 掘削は上から掘ったと思う。下から掘っていくと上から掘削した土でまた埋まってしまう。余った土で車回しを作り、さらに余った土は下の方に盛土をし、その上に道を作ったのではないか。ここは大変雪が積もる場所なので、盛土した所が流され道や車回しが消滅したと推測している。

〈吟味された測量〉
 電光形になっているという事は、馬や荷車を通した証拠といえる。よく見ると測量がきちんと成されている。電光形の道の左へ登るそれぞれの線だけを見ると平行になっており、右へ登る道もそれぞれ平行になっている。かなり吟味したのだと思う。また、地形上全体の掘削できる巾は限られているので、折り返しの数も割り出してから測量を進めていったのであろう。
 このことを考えると、私が迂回していると思っている大朝日岳でも、同じように開削は可能であったのではないかと思う。

〈開削の苦労が見える〉
 山は岩がたくさん出てくる。そこを避け勾配を変えてしまうと馬や馬車が通れなくなるから、実際の開削は大変な苦労があったと思われる。
 道跡を見ると、薮の中に岩を見つけることができるが、よく見ると岩の節にあわせて引き裂いたような剥がし方になっている。もしかしたら火薬を使ったのかも知れない。

朝日町の天地人パネルディスカッション「直江兼続が開いた朝日軍道」(平成21年11月)
※写真は西朝日岳に電光形に残る朝日軍道

花山 忠夫(はなやま・ただお)氏
 昭和25年生まれ 朝日町宮宿在住。平成4年朝日山岳会長に就任。平成4年環境庁自然公園指導委員。平成4年~平成7年自然環境保全地域管理人(ヌルマタ沢野川地域)。平成8年自然公園管理人(朝日地区)。平成16年自然公園の適正利用、安全登山の推進等の功労により、環境省自然環境局長表彰を受賞。朝日山岳会の仲間と登山者の安全確保のため登山道整備や清掃、自然環境保全等の活動に尽力している。

なぜ朝日軍道が必要だったか

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お話 : 北畠教爾氏(朝日町史編纂委員)

〔なぜ朝日軍道が必要だったのか〕
 天正年間、庄内地方が上杉家の領地になりました。その後、上杉家は慶長3年(1598)に豊臣秀吉によって、所替えを命ぜられ、越後の国から会津へ移されます。越後・北信濃を削られまして、庄内と佐渡と長井・会津・仙道の方が領地になりました。120万石ということで、石高はぐんと増えて五大老の一人になるんですが、今まで、越後と繋がっていた庄内が切り離されます。それで庄内と置賜の経営にあたっていた直江兼続にとって、両地方を結ぶ連絡路がぜひ必要だということになるわけです。それが朝日軍道ということになります。(地図参照)
 兼続は庄内を治めるために、出羽三山の力を利用しようとして、湯殿山に沢山いろんな物を納めたり、寄進したりしています。さらに、佐野清順という腹心の坊さんを羽黒山に派遣しますが、文禄4年(1595)には寂光寺法頭清順という羽黒の別当に就任し、羽黒全部を押さえたことになります。その後、清順は、関ヶ原合戦の後出羽三山から追われ、朝日軍道を通って米沢へ逃げます。米沢では笹野観音の別当になり、後には定勝の侍者として儒教の先生になっています。

〔置賜の史料に見られる朝日軍道〕
 慶長4年(1599)上杉家の家臣である春日右衛門が、朝日軍道の番人頭だと思われる源右衛門にあてた黒印状によると、朝日軍道のことを「庄内すく路」と書いてあります。「直路」と書いて「すぐろ」と言ったのでしょう。また、その小屋番をさせるにあたり、檜材で曲げ物をつくったり、材木を切り出したり、狩猟をするのに係る税金を免除するということと、田地を持たず、百姓でない者がいたなら、だれでも山の小屋に連れて行って番をさせろということを命じております。
 朝日軍道の入り口である長井市草岡の青木家所蔵文書によると、同じく慶長4年に、春日右衛門が、軍道の案内役をしてくれた草岡村の修験者や村人5人に対して、苦労をかけたので役義(租税や課役)を免除した記録があり、その後約200年経った寛政8年(1796)になっても、子孫に対して先祖が貰った褒美をそのまま認めている安堵状の記録もあります。

〔朝日町の史料に見られる朝日軍道〕
 慶長4年(1599)上杉家の家臣である春日右衛門が、朝日軍道の番人頭だと思われる源右衛門にあてた黒印状によると、朝日軍道のことを「庄内すく路」と書いてあります。「直路」と書いて「すぐろ」と言ったのでしょう。また、その小屋番をさせるにあたり、檜材で曲げ物をつくったり、材木を切り出したり、狩猟をするのに係る税金を免除するということと、田地を持たず、百姓でない者がいたなら、だれでも山の小屋に連れて行って番をさせろということを命じております。
 朝日軍道の入り口である長井市草岡の青木家所蔵文書によると、同じく慶長4年に、春日右衛門が、軍道の案内役をしてくれた草岡村の修験者や村人5人に対して、苦労をかけたので役義(租税や課役)を免除した記録があり、その後約200年経った寛政8年(1796)になっても、子孫に対して先祖が貰った褒美をそのまま認めている安堵状の記録もあります。

お話 : 北畠教爾氏(朝日町史編纂委員)
朝日町エコミュージアム20周年記念事業(09'11.08) 
パネルディスカッション「直江兼続が開いた朝日軍道」より

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お話 山田栄二氏(西川町)

◆軍道の全体像と踏破の記録

 軍道の全体像としては、用途は情報連絡・物資輸送・藩士往来で、全長は約60キロメートルとされているのですが、我々が歩いた実測値によると約六五キロメートルありましたが、高低差によるものと思われます。旧朝日村の史料によると道幅は九尺で、途中に偉い方が泊まる御殿小屋が二ヶ所あったようです。一つは旧朝日村地名図にある高安山南方の小屋屋敷のところで、もう一つが御影森山か中沢峰の下あたりかと思われます。工期は慶長三年の一夏でつくったということで、工事を担当したのは、庄内口から鱒淵村の農民、米沢口からは草岡村の農民が動員されており、他に奥三面衆が山案内に当たっていたようです。
 朝日軍道が通る連峰の全容は、米沢領から葉山 ―八形峰 ―中沢峰―前御影森山 ―御影森山 ―大沢峰 ―平岩山 ―大朝日岳と来まして、中岳 ―西朝日 ―寒江山―以東岳―オツボ峰―三角峰(三角峰手前までは登山道があります)。その先、戸立山 ―茶畑山 ―芝倉山 ―葛城山 ―高安山―猿倉山―鱒淵、それから飛地庄内領に入ります。
 我々が踏破した記録ですが、平成16年の第一次から21年まで6回の登山を実施しました。(単なる登山ではなく軍道痕跡を探る視点で歩きました。縦走路では悪いとは思いながら、登山道から外れたりしながら結構丁寧に歩いたつもりです。) 途中、平成20年の第5次登山には、NHKが朝日軍道のレポート番組を作るということで同行取材をして、7分位の番組が東北六県で放映されました。

◆朝日軍道の痕跡を探して

 草岡の登山口、初夏は草茫々なんですが、ここから葉山にかけてのあたりが一番軍道の痕跡らしさが残っているように思います。
 藪の中に古い石積みがあるのですが、普通に歩いていると気が付きません。また途中にわざわざ石を鏨(たがね)で砕いたような痕も見られます。おけさ堀付近までは、道幅二メートル位の電光型の軍道と見られる道が顕著に残ってます。葉山から八形峰を通って焼野原を降った先に中沢峰鞍部の水場がありますが、ここだけ樹齢何百年かのブナ残っており、傍に水場があり周りは広く、誰が考えても休み場として最適な所だなという感じです。
 中沢峰を降って途中にも電光型の道があるのですが、これがなぜ軍道じゃないかと思うというと、登山道であればこの短い区間をこんなに曲がる必要がないんですね、例えば、山にキノコ採りや山菜採りに行くにしても、峰まで真っ直ぐ登って行くのが普通で、登山でもかなりの急斜面なら別ですけれども、真っ直ぐですね。
 御影森山の手前に、怪しげな棚状の樹林がありますし、大朝日岳から西朝日岳にかけても、軍道の痕跡と思われる所があります。それから、三方境から狐穴小屋の先中先峰の所にも電光型の軍道跡が見られます。
 以東岳から先、三角峰に行く途中にオツボ峰という所があるのですが、史料によると、ここには御壷石(この下に人骨を埋めたと推測。)という二間四方の石があるとありますが、この辺りでいくら探しても、手前で見つけた約二間四方の石以外にはありませんでしたので、これが御壺石に違いないと確信しています。石の下には何かあるはずです。地元人たちは更に調査してほしいと思っています。
 次の登山で戸立山を目指したのですが、この先は登山道も無く藪が密集しており、泊まり荷物を担いでの登山は体力的に無理だと判断して、軍道の痕跡がある程度判り、さらに歩きやすい残雪期に調査することとしました。
 そして、戸立山の先茶畑山山頂付近に不自然な切り通しを見つけました。幅が六尺を超えるものですが、50m位の区間ですが明らかに人の手が入ったような痕跡があります。やったと思いました。
 先の高安山、兜岩には当時明神様が祭られていたようですが兜岩はいかにも明神様にふさわしく堂々とした岩山です。探したのですが社跡などは確認できませんでした。
 猿蔵山から鱒淵に下りて庄内に出るのですが、途中に岩魚沢という所があり、ここが軍道だったと史料にあります。また、鱒淵集落の中に山神社がありますが、ここは当時、軍道の完遂を祈願したとされていますが、集落の人に確認はしていません。

朝日町エコミュージアム20周年記念事業
パネルディスカッション「直江兼続が開いた朝日軍道」(2009)より一部抜粋


山田栄二(やまだ えいじ)氏
昭和26年(1951)生まれ 西川町間沢在住。登山暦約40年。
岩根沢清川仙人会所属(月山 清川行人小屋及び岩根沢、本道寺からの登山道管理団体)。月山清川行人小屋管理(年数回)。朝日軍道については、現地軍道痕跡を目的とした一貫した報告・資料等がみあたらず、朝日連峰山麓に住む者として一度朝日軍道を歩いて見ようということになり、平成16年、清川仙人会員及び他の山仲間と痕跡調査登山開始し6年目で区切りとなる。
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ひとつひとつ描かれた木々
力強い山の稜線
"シン"という音がみえる空気と空

長岡さんの絵を初めてみせていただいた時、
「あ、山だ。これは朝日町の山だ。」
という言葉が私の口から流れ出ました。

長岡昴司さんは、長沼で生まれ
現在は太郎に居を構えています。
鳥原山の山小屋で働き、朝日連峰を
日々みつめて暮らされています。

絵には人がそれぞれ生活で培ってきた
視点がでます。

ある春の日、栃の木を観察されている
長岡さんにお会いしました。
陽の傾きと共に在りようを変えていく
葉の様子を、刻々と観察し、その変化に
感嘆の声をあげながら紙に描きとめて
いらっしゃいました。

長岡さんの描かれる絵に、描いているモチー
フにプラスされた、静謐とした
静かな時間の流れを感じるのは、
こういった視点をお持ちの方が描いたから
ではないでしょうか。

「山にいるといろんな人との関わりがあって
楽しい。町にいる時は声を かけない。
山では会話がある。それが楽しい。」
「山は川より体に”くる”ものがある。」
という、それそのままの視点が、描いているも
のひとつひとつをなぞる
活き活きとした視点となって観ている人に
伝わってくるのです。

報告/田中敦子 あとりえマサト代表
東北芸術工科大学日本画コース副手
平成20年(2008)


長岡昂司(ながおか・こうじ)氏
プロフィール
1959年朝日町長沼版画家阿部功雲の分家に生まれる。
大工歴33年。
年間、鳥原山に約30回、大朝日岳に5~6回登る。
朝日山岳会理事。朝日町山岳遭難救助隊員。
朝日町太郎在住。

※写真の絵は建築業の端材に描いた木川ダムの風景です。
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 リンゴ、キハダ、トチノキ、ニセアカシヤ、夏の草花の蜜を採っている。やっぱり一番は六月に咲くトチノキだね。全ての花が蜜源だったらいいんだけれど、採蜜できるほど大量の花蜜を出してくれる植物は数えるほどしかないんだ。今となっては、東北地方のようなトチやニセアカシヤを抱えている山は最も恵まれた蜂場だね。
 採蜜は、朝早くて大変だ。朝の3時に起きて現場に向かい、夜明けと共に始める。花から集めてきたばかりの蜜は、まだジュースみたいにトロトロしている。蜂たちは、一昼夜かけて羽であおいだり、口移しで伸ばしあったりして、発酵しない濃度になるまで水分を蒸発させるんだ。だから、まだ蜂が働きに出て戻らない朝一番に採蜜しなければならないんだ。
 まず、ハチミツの入っている巣をそっと巣箱から抜き出して、思いっきり上下に振って蜂を振り落とす。落ちないでくっついている蜂は、刷毛を使ってそっと払い落とす。たまっている巣だと、一枚に一升もたまっているから重労働だね。一箱で七?八枚抜き出したら、トラックに積んである遠心分離機に持っていって、専用の蜜刀で「蜜ぶた」を切る。蜜が濃縮されると蜂たちはふたをしてしまうんだ。それから巣枠の外側に作った無駄巣も切り除く。そして遠心分離機に入れて回す。昔は手回しだったけれど、今はモーターで回している。新しい巣は、壊れないように加減して回すんだ。すると遠心力で、どんどん蜜がふっとばされて出てくるんだ。洗濯機の脱水と同じ原理だね。蜜を金網でろ過して、一斗缶に詰めて持って帰る。トチノキの季節に一箱で五升以上の採蜜を三回できたら、大収穫だな。
お話 : 安藤光男さん(宮宿)
取材 : 平成6年(1994)
 木のうろなどから、収穫してきた山蜂(ニホンミツバチ)の巣は、手でしぼったんだ。布で袋を作ってハチミツの入った巣を粉々にぶっかいで入れて、ぎゅーっとしぼんなよ。これが一番しぼりでいい蜜だ。そして二番絞りは、袋さ残ったのを鍋に少し水をいれて煮るんだ。巣の蜜ろうを溶かして浮き上がらせるんだ。冷めると固まったら取り除くのだけど、それは水が入った薄いハチミツだから、早く飲まんなねがった。料理に使ったりもした。今でもハチミツしぼりなんて採蜜のことを呼ぶのはそのなごりだべな。

お話 : 安藤チヨミさん
取材 : 平成6年(1994)
 ハチミツの他にも、ローヤルゼリー、花粉、プロポリス、蜂の子、蜜ろうなどの生産品がある。どれも少量しか採れないけどね。
ローヤルゼリーは、女王蜂だけに与えられる王乳を人工の王台(女王の育つ大きな巣穴)をたくさん仕掛けて集める。
 花粉は、両足につけてくる花粉だんごを巣門(入り口)にやっとくぐれる穴のついた器具を仕掛けて、むりやりくぐると足から外れて落ちる仕組みにして集める。
 プロポリス(蜂やに)は、ミツバチが巣を補強したり、殺菌したりするのに集めてきた樹木のヤニとミツバチの出す酵素を混ぜ合わせて作られるもの。巣枠にはりついたものや、換気窓のところに金網を仕掛けておいて、そこに付けたものを削りとって集める。
 蜂の子は、蜜を集めない雄のさなぎを収穫して、醤油とみりんで油炒めして食べる。香ばしくておいしいんだ。残念ながら自家用だけだね。

お話 : 安藤光男さん(宮宿)
取材 : 平成6年(1994)
 昭和42~43年頃、木川のキジコ沢の奥にあったたくさんトチノキが伐られ始めたなよ。影響はあるね。あの頃は、俺のダットサンのトラックで何回も運ばなんねほど採れたんだから。チェーンソー出たなで、どんな太いのでも切れるようになった。トチノキなんか太いから、手ではなかなか切れないものだったんだ。みんなチップ材にしたんでないかな。
 キハダ蜜もずいぶん採れた時代があった。キハダは蜜が黄色いからわかる。キハダは薬になっから、皮をはいで重ねて背負って行くものだっけ。今でもそういう人はいるけど、昔の人と違って、ぐるっと剥いてしまうから枯れてしまう。我々の知らない奥のほうがどうなっているか心配だね。
 トチノキの花房は、昭和四十六、七年までもっと長かったような気がするな。酸性雨なんかとも絡んでいるんでないべかね。
お話 : 多田光義さん(太郎)

 バリ、バリ、バリって、直径二mもあるトチノキを目の前で切られた時は残念だったな。まだ花がいっぱい咲いていてな。簡単なんだ。あの頃、チェーンソ?の音があっちこっちで聞こえたね。太いトチノキを、トラックに縦に一本だけ積んで持って行くものだっけ。
 切られてばかりでだめだっていうので、養蜂協会では毎年、蜜源樹の植栽をしているんだ。朝日町でも昭和四十九年に、町から勝生山を借りて五町歩にニセアカシヤやトチノキを植えた。
重い苗担いで大変だった。その後も毎年下刈りやって来たけど、ニセアカシヤにとっては、あまりいい場所ではなかったようだ。育ちが悪いね。なかなか難しいものだ。
お話 : 安藤光男(宮宿)

 戦後、ソ連に抑留されて帰ってきた弟の話によると、あっちでは伐採作業の時、蜜源植物は絶対切らせなかったそうだ。意識が違うんだべな。日本でもこれからは、スギばっかりでなく、蜜源樹のような違った生産性のある植物にも目を向けて欲しいもんだね。
お話 : 峯田憲一さん(西船渡)

取材: 平成6年(1994)

 昭和十年ごろの二十五歳ぐらいの時、すでに飼っていた渡辺仕立て屋さんに教えてもらって飼い始めたんだ。
 その頃は、大谷の田んぼ一面にナタネもレンゲもあったし、田んぼのまわりは一面クローバーで真っ白だったなよ。ミツバチを飼っている人も少なかったから、一箱で二斗もハチミツ採れっかった。レンゲは青刈りして、切って、田んぼさまいたんだ。今みたいに肥やしを買わんにがったからな。ナタネは、自家用の油取るためと、田んぼで使う牛の飼料代わりにした。どだな狭いところにも植えたんだ。何でも今は買ういがら、いらないんだは。すばらしくきれいな風景だった。
 戦争中は、召集二回受けた。もったいなくて、十群あるうち一つだけ残して戦争さ行った。そしたら渡辺さんが見ていてくれて、なんとか生かしておいてくれたっけ。
 戦争直後は砂糖がないから、ハチミツはえらい貴重だった。店で売る氷水に、砂糖とハチミツ混ぜたのをかけてた。香りも違うから売れたのったな。「亀屋の氷水はハチミツ入りだ」っていうなで、えらい有名だったんだ。わざわざ隣町からも食べに来るもんだっけ。
 戦後、大谷の役場に「農会」っていうのがあって、養蜂を副業にすることを奨励していた。
将来、果樹の受粉にもいいっていうなで、先生呼ばったり、共同のハチミツを採る「遠心分離機」を買ってくれたりして、けっこう採っている人いたんだ。
 もちろん、ハチミツを採った分だけ砂糖も食わせらんなねがった。たいがい、一箱に一貫目(約4㎏)食わせた。
 トラック持っていねがら、家の裏から移動しないで飼っていたんだけど、一番困ったなは、田んぼにヘリコプターの消毒するべ。土手さあるクローバーにも、みな撒かれるものだから、いつのまにか蜂がだんだん減ってしまうなだ。みな死んでしまうんだ。そして、これはダメだと思って蜂飼い止めだなよ。昭和六十三年頃だな。

お話 : 桜井新三郎さん
(大谷 明治四十四年生まれ 農業と商店「亀屋」経営)

エコミュージアムの小径『みつばち』(1994年発行)より抜粋
 秋にスズメバチが来るのはひどいね。亀蜂(キイロスズメバチ)も来るけど、ひと回り大きい熊蜂(オオスズメバチ)も来る。数匹でかがって二時間くらいで皆殺される。
 ガマガエルも来る。よく箱の下からくぐって出てきて、静かにじっとして蜂を食っている。けっこう食っているんだ。かわいそうで殺せないから、用の橋の向かいさ置いてきても、三日も経つとちゃんと戻ってきている。(遠藤理さん/栗木沢)

 熊には最近、特にやられる。猟友会へ有害駆除をお願いしたりするんだ。採蜜期にやられるのはどうしようもない。巣箱を移動するにも近いと戻ってしまうから、蜜源を一ヵ所あきらめることになるんだ。最近はやられそうな場所は、あらかじめ牛用の電気牧柵を使うようになった。(安藤光男さん/宮宿)

取材/平成6年(1994)
 もともと、うちのりんごを受粉させるのが一番の目的で飼った。人工授粉では全部くっけるのは大変だからね。さくらんぼに置くようになって、なり過ぎて困るほどなった。(設楽弥八さん/和合平)

 ミツバチの花粉交配は、メロンには絶対になくてはならないものだね。蜂以外ではだめだ。人工受粉にしても、百つけて五つ位だけど,蜂だったらまず百発百中だね。(遠藤 理さん/栗木沢)

 スイカは人工受粉はできない。なるべく葉っぱが根っこから数えて10枚以上のところに実をならせたいけど、その時期には成長が止まらないから、どの花を受粉させたらいいか見当つかねなだ。着果して4、5日してピンポン玉から野球の球ぐらいになった所で調整して摘果するんだ。(長岡寛治さん/上郷)

 ミツバチを飼う前は、マメコバチを花粉交配用に飼っていた。取ってきた葦を仕掛けておくと、花粉を運んできて卵を産むんだ。次の年の春にそこから生まれて働く仕組みだね。寒い時も飛ぶからいいんだけども、リンゴの花の時に出てくれる確実性がないし、蜂数もミツバチと比べるとまるで少ないからね。(渡辺進太郎さん/送橋)

 イチゴ、メロン、スイカ、ナシ、サクランボ、モモ、リンゴと、今はポリネーション(花粉交配事業)が増えたね。人間の手は花の成熟が分かってないけども、蜂はちゃんと分かっているんだ。自然界はそうなっているから虫のほうが確実なだ。(多田光義さん/太郎)

 ミツバチは花の少ない季節以外は、独特の限定訪花性を持っているから、同じ種類の花だけをめぐって働いているんだ。りんごだったらりんご、タンポポだったらタンポポだけを訪花している。足に付けてくる花粉だんごを見ると一色だから分かる。植物にとってはありがたい習性だったなね。自然はうまくできているんだね。(安藤光男さん/宮宿)

取材/平成6年(1994)
 
 冬越しは寒くないように、箱の回りに、わらをぐるっと囲んで、その上からむしろを被せてやっている。(遠藤理さん/栗木沢)

 25年程前から千葉県の南房総へ行っている。11月頃に出かけて,秋に減った蜂数を一箱で3万とか3万5、6千匹にして帰ってくるんだ。(多田光義さん/太郎)

取材/平成6年(1994)
  
2025/04/08=197
2025/04/07=2,169
2010/02/24~9,011,786