朝日町エコミュージアム|大朝日岳山麓 朝日町見学地情報

15.大隅遺跡エリア
〈大竹國治さんのこと〉
 國治じいさんは、明治十三年生まれ、大地主の息子で昔は福島の蚕業学校なんか行ってたし、和合の信用組合なんかも作ったり、大正六年からずっと村会議員や町会議員もしていた。昭和十八年前後には宮宿町長なんかもしていたから普通の百姓の人ではなかったらしい。昔は、養蚕の種屋をしていた。この家も総二階で蚕を二階なんかに飼っていたのだろう。種屋は良い種を見つけるのが仕事で、この家の造りもこの土間も広いのは売り買いしていたからだな。

〈國治さんと考古学〉
 國治さん自身は、考古学的なものは何も残していないが、書については興味があったえらしい。歌お膳や何かにも詳しくて近さん(國治さんの息子)が結婚する時は、お膳とか何か輪島の名人に注文していろいろなお花とか鳥とか描いてあって、一枚ずつ違う文様のを取り寄せたりしたこともあった。
東京に行ったときも、三越からお土産を買ってくるような人だった。良いものを見る目はあったのだろう。私は詳しく分からないが、いろいろなものに興味を持った人だったらしい。昭和十二年に明鏡橋の工事があって、その時に自分の畑から出た石を見つけて二階の部屋にとっておいた。二階は、滅多に人の行かないところだから置いておくには良かった。これが大隅の旧石器だった。

〈田原眞稔さんとの関係〉
 國治さんの妹が大井沢に嫁いでいて、その旦那さんは校長先生なんかした人で、その子供が倫子さんで田原さんの奥さんだ。だから、仲人なんかもしたと聞いた。倫子さんの実家は大井沢で、あの当時だと冬は行くのが大変で正月なんかこの家によく遊びに来ていた。それで田原さんが考古学に興味があるからというので見せたのだろう。だからきっと、國治さんは大隅で見つけた石が、石器と分かっていて二階にとっておいたのじゃないか。

〈潤次郎さんも発見した〉
 潤次郎さんは昭和六十二年五十四歳で亡くなったが、区長もしたし森林組合なんかの仕事もしたし、教育委員も務めたんだ。昭和五十四年にまた道路の改修工事があって国道二八七号線の工事をした。この時に潤次郎さんも畑に毎日のように見に行って、自分の畑が削られるときに掘ってまた石器を一個発見したのだな。この石器発見で、はじめて大隅遺跡が発掘された。調査は、この時が初めてらしい。三個くらい見つかったと聞いている。

〈國治さんは偉かった〉
 國治じいさんが偉いと思うのは、戦争に負けてこれからは今までと違って生きなくてはいけないというので、大きな屋敷のこの家のお坪を少し壊してりんごを植えたり柿を植えたりした。この気構えはなかなかできないな。自分が大事にしてきたお坪壊すのだから。その変化は偉かった。雑木林もりんごに換えた。今もそのままりんごを作っている

〈この土地の良さ〉
 ここの大隅の場所のことだけど、この間全国を地質調査に回っているという人が来て、ここは風景も良いし三メートル下は岩盤で地震に強い。排水も良いし井戸水も枯れない良いところだ。ご先祖さんは、良い所を探したなと誉めていた。こんな良い所だから大昔から人も住んでいたのだろう。最上川の段丘には遺跡が多いということらしい。そこは住むにも良いところだ。

〈大隅の旧石器のこと〉
 大隅の旧石器が見つかって、田原さん達が研究したのだけど、長い間放っておかれた。これだけ価値のあるものだと思う人が少なかったのだろう。國治じいさんは、石器は貴重なものであれば私有化してはならない。社会へ提供するべきだといって、全部あげたと聞いている。だから町でこういうものを大切にしてもらえたら、國治じいさんも喜ぶだろう。

お話 : 大竹敦さん

〈小学校三年から石器拾い〉
 田原眞稔が石器や土器に興味を持ったのは、小学校三年くらいからだったと聞いている。その頃だと、この大隅あたりを歩いては、石器や土器を拾いに出かけたらしい。今も残っているが、ボロリュックと巻き尺なんか持って歩いていた。菅井進さんなんかと一緒に歩いたこともある。石器のでる所は、裏に丘陵があって、下は開けているという所だと話していた。そして、こういうところが昔の人が住まいするのだと話してくれた。

〈結婚した頃〉
 眞稔さんは、大正十四年生まれで、私は大正十五年生まれです。私は大井沢(西川町)生まれで、父は学校の先生で姉は医者(志田周子)だった。私は、兄が出征して帰るまでの約束で家に帰った。そんな私をみて、叔父が田原との縁談を進めてくれた。どうせ百姓するなら良い場所がいいと思っていたので、家の周辺が畑なのは、働きよいと思った。

〈田原家のこと〉
 眞稔さんもこの土地が好きだった。田原家は、五町歩の御朱印地を持っている神社だった。大谷には、白田外記、内記など御朱印地が多かった。この田原家は、本業は神職で、医業が副業だった。三代前頃は、寺子屋をしていて近隣の子弟を教えていた。兄が医者になる予定だったが、若くして死んだので後を継いだらしい。

〈『縄紋』を出していた頃〉
 考古学が好きだったので、入門書から専門書、までずいぶん多く読んでいたようだ。山形師範では、長井政太郎先生の弟子で、三面部落の調査の時の原稿も自分が書かせてもらった。昭和二十年に師範を卒業すると和合小学校に勤務した。この頃菅井進さんや大竹家と知り合った。私が結婚したのは、昭和二十六年だから、もう『縄紋』も終わりの方だった。今でも多くの人達から来た手紙が残っているが日本中の研究者と連絡していたようだ。後々までいろいろな連絡が来ていた。学校から帰って夜中になると原稿を書いていた。あまり遅くまで起きているので朝はつらかったようだ。学校に遅れて行ったりしていた。あの頃はそれでも勤まったが、今だったら勤められたか分からない。昭和二十二年に『縄紋』第一集出しているけど、あの時は紙の少ない時代で、教員になってからの給料は、ほとんど『縄紋』に使ったと思う。私は、一度も主人の給料を見たことがない。

〈東京大学で講演したことも〉
 日本中で『縄紋』読んでいたみたいで縄紋文化研究会には、日本中に会員がいたようだ。文部省から研究費をもらっていたこともあったが、経済的には大変だった。この研究には、会費とか会議とかいろいろなお金がかかったようだ。学術会議の会員にもなっていて人文学部の選挙権もあった。昭和三十年頃だったと思う。「縄文学の提唱」という題で、東京大学で論文発表してきた頃が、主人としては一番良い気分の時だったと思う。
それ以降、病弱な子がいて、母が病気になったりで、生活に重点を置かざるを得なくなり、学校を辞めたのだと思う。農業で生きられる人ではないと思ったので、私も、私の姉たちも学校を辞めないようすすめたが、言い出したら聞かない人だった。

〈縄文の博物館を作ろうとした〉
 学校を辞めたのが昭和三十二年です。私が畑、主人が給料と二つあるのが良いと思っていたが、りんごを始めていたので、それを本格的にするというので辞めた。学校辞めてりんご作ろうとしたのは「縄文博物館」を作るのが夢だったと話していた。にんごで生活を安定させて夢を実現しようとしたが、現実には思うようには行かなかった。

〈日本のシュリーマンに〉
 体こわしてからも菅井さんなんかが、改めて発掘しようとか誘いに来たけどあまり熱心ではなくなった。シュリーマンの様に大きなことをやりたかった。そのためにはお金が必要で、それで農業で生活の基礎を築きたいと思った。その頃、給料は安いし戦後の食糧不足の時代だったが、和合の方はりんごで景気が良かった。りんごで稼いで本格的に縄文の研究したかったのじゃないかな。大学の非常勤講師もしていたが、農作業が忙しくてそれどころではなくなった

〈何にでも研究熱心だった〉
 学校を辞めてりんごづくりと鳥飼もした。鳥飼したときも『養鶏の日本』なんて本を読んでいた。りんご箱でゲージ(鳥かご)を作って五百羽も飼ったことある。その卵を仙台のお菓子屋に売りに行ったり、塩釜から魚のアラをトラック一杯買ってきたりした。何でも大規模にしたい人だった。研究熱心で鳥のくちばし切ったり、羽根切ったりしてどうしたら効率良く育てられるか研究したりもした。
 りんごも作り始めると青森の渋谷雄三さんの剪定の本を取り寄せて勉強していた。剪定は、教えに行ったこともあるし賞ももらったし、本人も剪定が一番面白いと言っていた。でも、若いときから労働した人ではないから、労働の連続はできなかったのじゃないかと思う。
 大竹の叔父は、大分主人を気に入ったらしく、和合小から送橋に転任になるときなど教育委員会に異議申し立てをしたハガキもある。だから、石器も預ける気になったのだと思う。旧石器のことが次第に知られるようになってくると、山形大学生や石器に興味を持つ人が訪ねてくることが多くなり、仕事に影響するようになっていたし、柏倉先生や加藤稔先生等も見にいらっしゃったのを覚えている。その頃だったと思う。「山形大学に貸してやることにした」と言っていたのを覚えている。どなたと、どんな約束をしたのかは分かりませんが、貸してやったと言っていました。
 この家には、集めてきたいろいろな石器や土器が町から貰った収納箱に残っている。いつかどこかで展示できたら良い。

〈この土地が好きだから〉
 千年近くも続いている家なので、できるだけこの土地を残したいと思っていたのだと思う。ずいぶん苦労もさせられたが、夢のある楽しい人だったと思っている。個人でスプレヤー(消毒などの散布機)を採り入れたのも早かったし、自家用の車を入れたのも早かった。中古で買った牽引車を今も使っている。この土地を残してもらったおかげで、今も働けて何とか生きてこられたのだと思う。
眞稔さんもこの土地が好きだったから、ここでりんごづくりをしたのだろう。小さい時から自分が大きくなったら、この土地に住んでこの土地を守ると話していたらしい。
 本当にこの土地が好きだったのだろう。手相を見る人に、五十代で命に係わる病気をすると言われたと言っていた。四十代半ばで大病をし、五十五までの人生は短すぎたと思う。

お話 : 田原倫子さん
平成8年

〈幸運の重なった発見〉
 大隅遺跡については、本当にいろいろな幸運が重なって起こったのだと思う。明鏡橋の工事、大竹國治さんの発見、田原眞稔さんへの紹介、そして私が田原さんのを見せてもらって実測図を書いた。さらに、「縄紋」第三集に「粗石器に関して」として載せたことなど、幸運が次から次へと続いたのが大きな原因だと思う。

〈田原さんの指導があったからこそ〉
 私が「縄紋」に書いたときは、まだ十九歳で論文の書き方も知らなかったし、どういった説得で論を進めていったらいいのかも分からなかった。しかし、私は石器に興味があったので、いろいろな外国の文献も読んでいたのと、田原眞稔さんという考古学についての専門家が側にいたので、田原さんの助言で可能になったと思う。もともと石器自体も大竹さんから田原さん自身にお渡しになったもので、私の所有ではなかった。だから、この研究をするには、私が田原さん宅に伺って勉強させてもらいながら実測図を作った。

〈私にとり大隅は、考古学のすべてだ〉
 私が今まで考古学に取り組んできたのは、この最初に書いた『粗石器に関して』の論文のいろいろな不備を直すためにやってきたようなもので、これがなかったら今までやってこれなかっただろう。そして、東北大学教授の芹沢先生に目を通してもらい、この『粗石器に関して』の不審な点をなおすように書いたのが『山形県大隅の石器文化』という論文だった。

〈旧石器だと思っていた〉
 粗石器という言葉は、田原さんと私が「粗末な石器」だから粗石器と勝手に名付けたのではないかと思う。ただ表紙に粗製石器という言葉を利用しているのでその略語だったのかもしれない。ただ、私としては田原さんを含め、これは旧石器と思っていたことは確かだと思う。ただ日本では、洪積世のローム層での骨の発見などがなかったので、その頃は、無土器時代、先土器、先縄文時代という名称もできたのだと思う。最近は、もう旧石器という名前にだれもこだわらなくなってきている。

〈藤森栄一さんとの出会い〉
 藤森さんは、当時田原さんがしていた縄紋文化研究会の会員だったので、手紙のやり取りなんかがあった。それで一度私は長野県諏訪市の藤森さん宅に見学に行ったことがある。すると藤森さんは、考古学の研究会を作られていて、お弟子さん三人くらいいたのに紹介する時に「山形からカモがネギ背負ってきたよ。一生懸命勉強したらいいよ。」なんて言われたことがある。これは、旧石器かもしれないというのは、全国そっちこっちにあったと思う。だから全国でいろいろ研究していた人がいたのだ。私の場合、幸運に恵まれたのだと思う。山形県が旧石器の宝庫だったのと、たまたま大隅が最上川の河岸段丘の丘の上にあり、最も人間が住まいするのに適していたということがあって報告できたのではないか。

〈代用教員になった頃〉
 私が代用教員をしていたので、和合小学校で田原さんと一緒に研究できたのです。その代用教員になった時代は、教育委員会でなく先生たちが代用教員を選んだらしい。候補の一人は背の高い人、もう一人は背の低い私だった。先生方の多くは「背の高い先生の方が生徒に示しがつくのでいいじゃないか」と言っていたが、田原さんが「背は低くても菅井がいい」というので、私に決まったという話を後から聞いた。私が代用教員になれたのもこういう幸運があったからだろう。

〈大隅から始まって、大隅に帰ってきた〉
 昔、代用教員で教育に関わって、そしてまた、今も教育委員長という教育の仕事に関わらせてもらっている。また教育に戻ってきたのだ。大隅も同じで、大隅から初めて、大井沢遺跡などの発掘にも関わったが、今また大隅の再発見に関われた。また大隅に帰ってきたのだと思う。

〈旧石器の日本発祥の地という看板でも建てて貰えたら嬉しい〉
 大隅の発掘は、一九七九年に二日間おこなっただけだ。この時はあまりに出土品が少なかった。たった三点だけで、もっと多くの遺物が出土してほしかったが、それでも、石刃の出土位置が地表から九十センチメートル下のローム層の真上のところにあったのを確認できたのは幸いだった。そのまま掘り進んだら撹拌層にぶつかったので、見込みがないというのでやめた。でもあの台地はまだまだ将来発見できる余地はあると思う。
 ただ発掘すればいいというわけでもない。発掘というのは、間違いなく遺跡の破壊でもあると思う。吉野ヶ里遺跡だったか、一度発掘して、風化して駄目になるというので埋め戻したらしい。だから土の中にあと一万年も眠らせておいて、一万年ぐらい先の考古学者に委ねるという手もある。しかし、まだまだ大隅遺跡には可能性がある。できればあの地に「旧石器の日本発祥の地」なんて看板を建てて貰うと嬉しいのだがな。

お話 : 菅井進さん(和合)
平成8年
エリア地区 / 和合大隅地区

(お願い)
 このサイトは、朝日町エコミュージアムがこれまで培ってきたデータを紹介することにより、郷土学習や観光により深く活用されることを目的に運営いたしております。
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・不明な場所につきましては、エコミュージアムルームへお問い合わせ下さい。または、エコミュージアムガイドをご利用下さい。
Tel0237-67-2128(月曜休)
 日本で初めて旧石器の存在を知らせたのが「大隅遺跡」です。昭和11年(1936)大竹国治が明鏡橋工事の際に出て来た石片をただの石ではないと直感し、屋根裏に保存していたものを、昭和24年(1949)菅井進氏が旧石器であるとの確信を持ち、同人誌『縄文』に発表しました。このことは日本での旧石器第一発見とされている群馬県の岩宿遺跡よりも早い発表だったのです。

大竹敦さんのお話
國治さんと潤二郎さんのこと
田原倫子さんのお話
田原眞稔さんの思い出
菅井進さんのお話
幸運の重なった発見
戸沢充則氏(明治大学学長)の講演
岩宿遺跡より早かった大隅遺跡

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※大隅遺跡は説明板があるのみです。
 明治8年(1875)経費のすべてを地元で負担し、最上川本流で初めての橋「明鏡橋」が架けられました。その後、洪水等で流失が相次ぎますが、昭和12年(1936)ついにコンクリート製のアーチ橋が完成しました。これが「旧明鏡橋」です。六代目明鏡橋が完成するまで、69年間にわたり国道を行き交う人々の往来を支えてきました。平成18年、優れたデザインを理由に選奨土木遺産に指定。橋の写真家平野暉雄氏(京都在住)は「開腹型アーチ橋の中では日本一心和む橋」と絶賛されました。
※撮影/高橋茉莉さん(仙台市)
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平野暉雄さんのお話
心なごむ明鏡橋を見つめて
菅井敏夫さん、志藤正雄さんのお話
旧明鏡橋の思い出
菅井一夫さんのお話
明鏡橋の傍らで
志藤正雄さんのお話
夏の芋煮会“えるか汁”
志藤三代子さんのお話
すいとん入りえるか汁
佐久間 淳さんのお話
明鏡橋の思い出
菅井敏夫さんのお話
明鏡橋物語全12話(PC)
「岩宿遺跡より早かった大隅遺跡」
 明治大学学長 戸沢 充則 氏

二十一世紀を先取りするまちづくり

 忙しい日程を差し置いても、朝日町に伺いたいと思っていました。エコミュージアムの理念に基づく町づくりに、積極的に取り組んでいることに、心から共感を覚える気持ちが非常に強くありました。この町が、将来に向かってどのようになるかということを是非学びたい気持ちがあったからです。私は「トトロの森ふるさと基金」でナショナルトラスト運動の代表委員の一人になっています。その土地にある歴史遺産、自然環境というものをまちづくりに生かす仕事に多少関わってきました。この観点からも大変関心があります。
 人類が永遠に生存し続けるには、人と自然が共存する二十一世紀の地球環境をみんなで急いで作らなければいけない時期だということを訴えてきました。そして今こそ、人間の心を大切にする教育、すべての国民が、一生を通じて心豊かな文化や学問に接しられ喜びを感じられる生涯教育を、積極的に導入することが必要であると痛感しています。エコミュージアムを理念とした様々な試みは、まさに二十一世紀を先取りする一つの地域づくりの実践であると思います。この町で一年ぶりに考古学の話をさせていただくことを大変光栄に思います。

研究誌『縄紋』は日本の旧石器の研究史上重要な文献資料

 岩宿遺跡と大隅遺跡の発見というところに焦点を絞りながら話を進めたいと思います。1949年(昭和24年)菅井進さんが考古学研究誌『縄紋』に「粗石器に関して」という論文を発表しました。当時150〜200部刷っていたようです。この中で大隅遺跡の発見の経過が紹介されています。二ページにわたる短い論文ですが、日本の考古学の学史、旧石器の研究を語る上で非常に重要な文献資料です。
 大隅遺跡発見の石器に関して具体的な事実の記載があります。「大隅発見の粗石器」と書いてあるところです。山形県西村山郡、当時は「宮宿町大字和合字大隅で粗石器が発見」されたと書いてあります。
 考古学というのは、どういう地層からどういうものが出たか。その地層が、いつ頃のものかが、どの時代のものかの決め手になるかなり大きな要素になりますが、そのことが書いてあります。
 地層の概略を言いますと一番上の畑を作っている黒土の「表土が約三十センチメートル」、赤土の「ローム層が約八十センチメートル」、「それより下は砂利および礫塊による洪積層である」。この地域は最上川の段丘になっています。段丘は川が流してきた泥や砂、石が積もってできた地層です。地盤の隆起で段を作っていく地層ですから、一番下は砂利および礫層からなる洪積層です。そういう地層の中で、大隅の粗石器といわれる石器はどういう地層から出たのだろうか。これは工事の時に出て、実際に菅井さんが発掘したものではありませんから、地層の中に埋まっている状態では確認できなかったわけです。
 しかし、「どうやらロームの赤色土と同じらしいので、私はロームより出土したものと推定している」と書いている。菅井さんは、きちんと観察してローム層より出土したものであると書いています。
ローム層というものは、火山が噴火して溜まった火山灰の土壌といわれています。ですから、この大隅遺跡が発見される時期や岩宿遺跡等の発掘で確認される以前は、ローム層という火山灰が降るような所に人が住んでいるわけがない。人が使った石器や土器が出てくるはずがない。火山灰が降ってくるようなところでは、人間は死んでしまうと当時は言っていたのです。そのローム層の中から大隅の石器が出たらしい。出たことは発掘では確認できなかったけれども、石器に着いた土からそう言った。これは大変大きな観察の成果です。

大隅と岩宿の旧石器研究

 私は、昭和五十二年に季刊誌『どるめん』に書いた論文『岩宿へのながい道』の中で「陽の目を見なかった大隅の粗石器」と書きました。陽の目を見なかったと、当時大変申し訳ないことを書いてしまったと思っています。
 群馬県の岩宿遺跡が、日本の旧石器文化を最初に確認した場所だと一般的に言われています。岩宿遺跡で最初に確認したことは何か。一つには、新発見の石器は「それまで研究者の間で、無遺物層であるといわれた関東ローム層に包含されていること」。岩宿でもローム層中に石器があるということが最も大事な最初の発見です。
 菅井さんは、岩宿が発見される以前、ローム層の中に遺物は無いという学会の常識の中で、大隅の石器にはローム層の土が付いており、ローム層から出たらしいということをいっている。これは、大変大きな発見であったと思います。
 岩宿の発見の大事なことの二つ目として「土器を全く伴わないこと」です。当時日本では旧石器が発見されるまで、石器時代の遺物といえば縄文時代のものという時代でした。縄文時代の遺物というkとになると、当時縄文時代の土器が一緒に出るということです。岩宿では、いくら掘っても土器は伴わない。
 岩宿より半年早い『粗石器に関して』という論文は、ハッキリ土器があるとか無いとか書いていませんが、採取された遺物は全て石器ばかりであると書いてあります。きちんとした石器の形をしたものが出てこない。日本の研究者が今まで見たことのないような粗末な形、だから粗石器という名前を付けたのでしょう。土器が無いと具体的に断定はしていませんが、「石器や石片だけが発見された」という記述があります。
この二つの事が、旧石器を確認する最も大きな決め手であった。今でも、そう言われています。全く〃ことが、大隅遺跡で確認されていた。発掘を伴わない報告ですから確認といえるかどうか多少問題があるにしても、石器についての観察では岩宿遺跡と殆ど同じことを言っていたことは、記憶に留めておいてよいことだと思います。
 岩宿遺跡が発見された当時は、東京の中央の学者というのは権威ある人が揃っていて、それをヨーロッパの旧石器と比較したら間違いだという。学者らしい厳密さと言えば層ですが、心の狭い人が多かった。岩宿遺跡がヨーロッパや中国のどういうものと似ているというのがタブーだったわけです。当初、発見された後も旧石器とは言わずに「無土器文化の石器」(土器を持っていない時代の石器)と言いました。しばらく経ってから「先土器時代の石器」と言いましたが、旧石器とは言いませんでした。菅井さんの論文では、ヨーロッパの旧石器のことがとうとうと述べられています。「旧石器時代のムステリアン意以降のナイフを想起させるにふさわしい」ということ、ハッキリとある種のヨーロッパの石器と似ているということを書いています。この点では、岩宿よりきちんとした記述であったと言ってよいと思います。

旧石器発見へつながる三つの流れ

 きちんとした大発見にも関わらず、大隅遺跡が、一歩岩宿より何故遅れてしまったのでしょうか。学問の歴史という冷厳な部分を見つめて、今後この大隅遺跡発見の意義を、学問の中にどう生かしていくか考えることが必要だと思います。岩宿発見以前に日本では旧石器文化の研究、発見がどのようであったのかを少し振り返ってみたいと思います。
①典型学派の仕事
 旧石器という概念は、フランス等を中心としたヨーロッパで発見されて日本にも知識として入ってきました。イギリスの地質学者マンローが、日本にも旧石器はあるといっています。日本考古学史上重要な浜田耕作は、今では岩宿遺跡発見後の日本の代表的な旧石器の遺跡として見直されている遺跡を発掘した結果、一九八九年『河内国府石器時代遺跡発掘報告』の中で、旧石器の存在を否定している。
 否定している理由が大変面白い。日本書紀とは古事記の神話の歴史で、神武天皇、天照大神以前は神様しかいなくて、猿のような人間は日本にいては困るという歴史が通用した時代です。浜田博士も、そういう歴史伝説からいっても日本列島に旧石器人がいたわけはないと、せっかく手にした旧石器を旧石器でないと否定することがありました。また、旧石器時代のことを研究するときには、日本の国体(国の考え方)に触れるから慎重にしなさいというので、日本における旧石器を否定するというのもありました。
一九三二年「まぼろしの明石原人」を発掘して、これが日本人の祖先であると初めて報告した直良信夫先生がいます。科学的に日本の古い人類のことを研究しようとした直良先生も、当時の学会全体の雰囲気の中で遂に世にでることはありませんでした。未だに、研究の結果が本当に正しいのか検証しないまま戦争の前の時代を過ぎてしまうのです。
 これらは、典型学派の仕事として代表的な例を挙げたに過ぎず、こういう方がたくさんいたのです。要するに、ヨーロッパの旧石器の研究のことを知識としてたくさん持っていた。しかし、日本のことになると手をださない。研究を延ばすということをしなかった。西欧の研究について豊富な知識を持ちながら、典型や先入観に捕らわれ、日本の実際を正しくつかみきれなかったのです。
②編年学派の仕事
 芹沢長助先生は、大隅遺跡の発見に関わって、いろいろな指導をしたことで皆さんご存じと思います。先生は編年学派に属する人です。日本の考古学の中で旧石器が発見される以前、石器時代の研究は、縄文時代に関する研究でした。縄文時代の研究の中で、戦前主流を成していたのは、土器の編年研究です。縄文時代は、草創期、創期、前期、中期、後期、晩期と時代区分がなされています。その中に、何々式土器というのが、東北だけでも一〇〇位形式があります。それぞれ特徴のある土器が使われていたわけですが、どれが古いかどれが新しいかということ、年式の序列を決める研究が編年研究というもので編年学派といわれる人達がやった仕事です。日本の考古学の歴史の中で世界に誇る一つの大きな業績といえます。
 山内清男先生とか甲野先生、芹沢先生といった方が、戦前中心を担っていたわけです。その編年学派が、旧石器の発見にとってどんな役割を果たしたか。土器の模様を詳しく調べるかとか、どういう地層から出たかとか細かく観察する実際の資料に基づくという着実な実証方法により、一歩一歩縄文文化の上限を追いつめていった。縄文土器のある時代を一番古い時代まで遡っていくと、いずれは土器が無くなるかもしれない。そしたら、その前に何があるだろうかということを視野に入れながら、縄文文化の一番古いものを探し求めていったということです。編年学派という人たちは、縄文時代の一番古いものを追いつめていく中で、旧石器時代の存在に手が掛かろうとしていたのです。
③中間学派(細石器学派)の仕事
 戦争直後の1936年、八幡一郎、斉藤米太郎、豊元国先生という典型学派と編年学派の間の中間学派と言われる研究者がいます。細石器学派と言ってもよい。八幡一郎先生は、日本の縄文時代の創期には、細石器という特徴的な石器が縄文時代の古い方には、よく一緒に出てくる。北海道とか東日本にはよく出てくるということを書いています。各地から発見される多くの縄文離れした石器、細石器とか菅井さんが一九四九年に問題にする石器も、今考えると、発見した六十年前は、八幡先生が問題にした頃は知られていた石器です。縄文離れした、普通なら石屑だと思って捨ててあるような石器を八幡論文をきっかけとして、たくさんの人たちが目を付け始めたわけです。
 岩宿で旧石器が確認された後、各地からそういう資料が報告されるようになって、日本の旧石器研究は十年位の間に全国で何百という多くの遺跡が発見される急成長の発達を遂げるわけです。そういう意味で中間学派は、縄文という常識の中で、見慣れてきた研究者に、縄文とは違う石器が日本の石器時代の石器の中にあるということを意識させた。そういうものを採集してしまっていたのが、本当に不思議なことですが、中央の研究者、学者でなくて、地域で普段考古学の研究や採集をしている研究者であったことです。この町の大竹國治さんもその一人でなかったのではないでしょうか。

日本の旧石器研究は、大隅のような基礎研究の成果

 整理しますと、一九四九年菅井先生の論文がでる。岩宿の発掘が成功する。その以前に、日本の旧石器を研究する動きはあった。研究の動向として、典型学派と編年学派と中間学派があった。この三つの流れが学史的にあったということです。こうした戦前からの研究があって、一九四九年九月に発掘調査された岩宿遺跡では、三人の研究者が関わっています。岩宿遺跡発見者の相沢忠洋、この人は細石器学派です。自分の活動範囲にある赤城山麓で、八幡先生のいう細石器を探すという、石器らしからぬ石器に鋭い採集の目を向けていたのです。芹沢長助先生は、当時若手の縄文編年研究の最先端の研究を明治大学でしていた編年学派の先生です。杉原荘介先生は、ヨーロッパの旧石器のことを盛んに勉強されていた。岩宿遺跡の発掘に立ち会ったこの三人の先生は、岩宿発見以前の研究の歴史的な背景を背負っていた人たちです。
 当時、宮宿町の大隅は、岩宿よりは中央(東京)の学会から遠かったということ。それから、学史的な背景を持った研究を進められなかったという点が残念であったと思います。だからといって、会話した中でよく考えてみれば分かると思いますが、旧石器の発見は岩宿であり、旧石器の研究は岩宿だけから始まったということでは決してありません。そんな一つ二つの事柄で学問には、大きな全体の体系がある。旧石器の研究だって、確かに岩宿の発掘が大きな契機となっていますが、基礎を作った研究が大隅のみならず全国に広くたくさんあった。そのことが現在の日本の旧石器研究の大きな進展、発達を支えているんだということを考えるべきであると思います。
 学問を愛する人、特に地域みんなで共同して学問を進めるという動きの中から、本当の学問の大きな発展というものがあると思います。
 1949年、問題提起の早かった菅井さんの方が、岩宿遺跡に学史的に遅れをとるということになっていますが、決してそのことが大隅の旧石器の発見の意義を消すことではないと改めて考えてみることが大事だと思います。
 人類が自然と共生する時代をつくる。それが二十一世紀へ向かっての新しいまちづくりの志であるとするならば、六十年前の大隅に負けないような大発見が、いずれこの地に起きるでしょう。その時こそ初めて、日本列島の国民の文化は、この朝日町から始まったといえるのではないでしょうか。そのためにみんなで力を合わせて、いいまちづくりをやっていったら良いと思います。私も及ばずながら、皆さんのこれからのいろんな活躍を期待したいと思います。

平成8年 大隅遺跡シンポジウムにて
 五百川三十三観音第21番札所。大巻観音地蔵堂には寛永六年(1629)に立てられた町内で最も古い金毘羅権現の石碑があります。金毘羅権現は舟乗りやその家族が安全を願い信仰していたものです。『朝日町の石佛』(朝日町長寿クラブ発行)によると、町内には象頭山・金毘羅権現の石碑が21基もあります。江戸時代末期のものが多く、大巻観音地蔵堂には寛永六年(1629)に立てられた町内で最も古い石碑があります。石碑の多さは最上川舟運が栄えたことを現しているのだそうです。

横山昭男さんのお話
金毘羅・象頭山信仰と舟運
五百川三十三観音縁起
五百川三十三観音霊場一覧
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※集落内の神社は山ノ神社です。大巻観音地蔵堂はさらに奥にあります。
 日本で初めて旧石器の存在を知らせたのが「大隅遺跡(おおすみいせき)」です。昭和11年(1936)大竹国治が明鏡橋工事の際に出て来た石片をただの石ではないと直感し、屋根裏に保存していたものを、昭和24年(1949)菅井進氏が旧石器であるとの確信を持ち、同人誌『縄文』に発表しました。このことは日本での旧石器第一発見とされている群馬県の岩宿遺跡よりも早い発表だったのです。


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 朝日町エコミュージアムコアセンター「創遊館」
           エコミュージアムルーム内
 TEL:0237-67-2128
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エコミュージアムの小径 第4集。大竹国治が保存していたものを、菅井進氏が粗石器として同人誌『縄文』に発表しました。これは旧石器第一発見とされている群馬県の岩宿遺跡よりも早い発表だったのです。
A5版 編集・発行/旧石器シンポジウム実行委員会 
※エコルームで販売しております。(郵送可)500円