~怒杞憂面人~
政府がどうしても入れたかった、「愛国心」は、「我が国の郷土を愛する態度を養う」という表現で盛り込まれました。現行法の前文には「個人の尊厳・真理と平和・個性豊かな文化の創造」というキーワードがありましたが、改正後は「個人の尊厳・真理と正義・公共の精神・伝統を継承し、新しい文化を創造」となっています。「平和」という言葉がはずされたことが、この「改正=改悪」を象徴しているようにも思えます。 入学式・卒業式その他の学校行事の中で「君が代・日の丸」が強制される動きに対しても、これまでは裁判で勝訴できたはずのことが、今後は「教育基本法」を法的根拠とされ、難しい闘いになるかもしれません。 「愛国心・公共の精神を養い、国のために命を捨てる若者を育てたい」という政府の本音が聞こえてくる思いです。こどもたちの命と平和は国に頼らず、自分たちの力で守っていかなければならないのでしょうか。 ...もっと詳しく |
森永卓郎の戦争と平和講座(マガジン9条)より転載
憲法と平和に関して、2006年に起こった一番大きな変化は、間違いなく9月の安倍総理大臣の誕生だろう。小泉前総理もタカ派だったが、安倍総理は輪をかけてタカ派だ。その安倍総理は就任後、さっそく日本の軍事大国化への道を歩み始めた。まずは、教育基本法案を臨時国会の会期中に、強引に成立させる予定だ。 そもそも臨時国会は、安倍総理のお披露目興業のようなもので、本格的な審議を行う時間的な余裕がもともとなかった。しかも、いじめ問題やタウン・ミーティングでのやらせ質問などが審議の過程で大きな議論となったために、教育基本法の一番の問題点である「愛国心」についての議論がほとんどなされないままになってしまったのだ。もちろん、そうした問題は極めて重要な問題で、審議は必要だったのだが、教育基本法が学校教育の基本を定めるものなのだから、十分時間をかけて、国民のコンセンサスを形成すべきだった。 安倍総理が急いだのはなぜか。それは、教育基本法が憲法改正の前段に位置付けられているからだ。現行憲法でも教育基本法がその前に作られているのだ。 もちろん、憲法改定に向けて、幼少時から思想教育を強めたいという思いはあっただろう。しかし、安倍総理の狙いは、あくまでも憲法改定だ。今年は教育基本法改定で、憲法改定に向けての第一歩を踏み出したことになるのだ。 もう一つの、法律面での大きな変化は、防衛庁の防衛省への「昇格」だ。この法案については、民主党までが賛成をした。庁が省になると、法案の提出権や閣議の招集権が与えられるというのはよく知られているが、外局から省に昇格するということは、あらゆる意味で独立性を確保するということにつながるのだ。 防衛庁というのは内閣府の外局で、総理大臣の管理下に置かれる。私も総理府の外局だった経済企画庁に勤務したことがあるのだが、例えば海外出張ひとつするのにも、長官ではなく、総理大臣の許可印が必要だった。外局というのはそういうものなのだ。 それでは防衛庁を独立性のある防衛省に昇格させると、何が起こるのか。すぐに何が起こるというわけではないが、総理大臣の管理から脱却するので、発言力は強くなり。暴走の可能性も高まると考えるべきだろう。それは、日本の軍国主義化への大きなステップになる。 就任時に70%以上を誇った安倍内閣の支持率はすでに50%を切るところまで下落してきている。郵政造反議員の復党問題や国民への説明があいまいで分かりにくいことが原因とされている。安倍総理はリーダーシップが弱いと批判されることもしばしばだが、こと憲法改定に向けての動きでは、短い臨時国会のなかで教育基本法、防衛庁の防衛省への昇格法案と、2つも大きな法案を通した。安倍総理の関心は、おそらく自分と憲法改定だけに集中している。そして興味のあることに関しては、きっちり仕事をしているのだ。 安倍総理は、5年以内に憲法改定を目指すと明言している。しかし、このスピードを見ると、憲法改定までの期間は、5年もかからないかもしれない。 |
~五十嵐仁の転成仁語より~
今回、国会に提出された自衛隊法の一部「改正」案のうち、自衛隊の本来的任務への格上げに関する条文は次のようになっています。 第三条第一項中「わが国」を「我が国」に、「当る」を「当たる」に改め、同条第二項を同条第三項とし、同条第一項の次に次の一項を加える。 2 自衛隊は、前項に規定するもののほか、同項の主たる任務の遂行に支障を生じない限度において、かつ、武力による威嚇又は武力の行使に当たらない範囲において、次に掲げる活動であつて、別に法律で定めるところにより自衛隊が実施することとされるものを行うことを任務とする。 一 我が国周辺の地域における我が国の平和及び安全に重要な影響を与える事態に対応して行う我が国の平和及び安全の確保に資する活動 二 国際連合を中心とした国際平和のための取組への寄与その他の国際協力の推進を通じて我が国を含む国際社会の平和及び安全の維持に資する活動 この最後の文章に注目してください。「国際社会の平和及び安全の維持に資する活動」とあるのが、海外での戦争への参加を意味しています。 この文章を含めて、以下のような文章を比べてみてください。 ①国際社会の平和と発展に寄与する態度を涵養する ②国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う ③国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調して行われる活動 ④国際社会の平和及び安全の維持に資する活動 この4つの文章はきわめて似通っています。「国際社会の平和」という部分は、完全に同一の文章です。 上に掲げた文章の最初のものは自民党憲法改正草案大綱(たたき台)(04年11月17日)にあり、2番目のものは今国会で審議されている教育基本法「改正」案で、3番目は自民党新憲法草案(05年11月22日)の第9条に3項として付け加えられている文章です。そして、最後のものが先ほど示した自衛隊法の一部「改正」案になります。 どうして、このように似通った文章になるのでしょうか。それは、目的が似通っているからです。 いや、これらの文章が目指すところのものは、ただ一つでしかありません。それは、「国際社会の平和」のために自衛隊を海外に派兵することです。 この「国際社会の平和」が米軍の戦争によってもたらされると認められれば、「国際社会の平和及び安全の維持に資する活動」とは、米軍とともに戦争することを意味することになります。そのために自衛隊を海外に派兵すること、そのような自衛隊の活動に国民こぞって「寄与する」ことが、これらの文章が目指しているところのものにほかなりません。 また、4つの文章の比較から分かることが、もう一つあります。それは、最初の二つの文章の「国際社会の平和と発展に寄与する態度」が同文であること、後の二つの文章の「国際社会の平和と安全を確保」と「国際社会の平和及び安全の維持」という文章が極めて似通っていることです。 つまり、教育基本法「改正」案のなかには、自民党憲法改正草案大綱(たたき台)(04年11月17日)の文章がそのまま組み込まれ、自衛隊の「省」昇格関連法案のなかには、自民党新憲法草案(05年11月22日)とほとんど同じ文章が入り込んでいるということになります。 この事実は極めて重大です。もともと自民党が憲法を変えることで実現しようとしていた内容が、憲法が変わっていないにもかかわらず、個別法のなかにはめ込まれているからです。つまり、個別法によって憲法が踏み越えられているということを意味します。 これはまさに、法的「下克上」そのものでしょう。マスコミの記者さんも、ボーッとしていないで、これくらいのことはきちんと報道してもらいたいものです。 新聞には、何のために「論説委員」がおり、「解説欄」があるのでしょうか。教育基本法や自衛隊法の「改正」案が出されてからずいぶん時間が経ちますが、ここに書いたようなことを指摘した「論説」や「解説」にはほとんどお目にかかったことがありません。 誠に残念です。ちゃんと「社会の木鐸」としての役割を果たしていただきたいものです。 民主党も民主党です。ここに書いたような問題があることを理解しているのでしょうか。 防衛庁と一緒になる防衛施設庁の「無駄使い」を問題にしていますが、自衛隊の存在自体が無駄なのだということが、どうして分からないのでしょうか。 参院選に向けた「政権政策(たたき台)」で「専守防衛の原則に基づき」との立場を明らかにした以上、この「改正」案には賛成できないはずです。衆院本会議での賛成投票と、その前日に発表した「政権政策(たたき台)」とが真っ向から矛盾しているということに気がつかなかったのでしょうか。 |
~五十嵐仁の転成仁語より~
先週、防衛庁を「省」に昇格させ、自衛隊の海外活動を本来任務へ格上げする防衛庁設置法や自衛隊法などの「改正」案が、衆院安全保障委員会で自民、民主、公明などの賛成多数で可決されました。午後の衆院本会議でも可決され、参院に送られました。 この法案が成立すれば、防衛庁は来年1月上旬にも「防衛省」となり、防衛庁長官は「防衛相」に格上げされる予定で、今まで形式上、首相を経ていた法案提出や海上警備行動発令の承認を得る閣議要求などは、防衛相が直接行うことになります。また、自衛隊の国際緊急援助活動や国連の平和維持活動(PKO)などだけでなく、テロ対策特措法やイラク特措法に基づく米軍支援の活動、周辺事態での米軍に対する後方支援など、海外での軍事行動が国土防衛や災害派遣と同等の本来任務に位置づけられることになります。 この法案の成立は、少なくとも、三つの意味を持ちます。 第1は、日本が軍事に関わる国家機関の縮小ではなく拡大をめざしているというメッセージを国際社会に発することになるでしょう。「軍事大国化をめざしているのではないか」という周辺諸国などの懸念に対して、「その通りです」と答えようとしているのが、この法案の意味です。 第2は、自衛隊の性格を決定的に変え、「専守防衛」の国是を投げ捨てることになります。この法律が成立すれば、自衛隊は海外派兵を「本来任務」とする「外征軍」へと変貌することになるでしょう。 第3は、法的な下克上が生ずるということです。国の基本法である憲法が変わらないのに、その規定に反する法律が堂々と成立することになるからです。 この第3の点については、教育基本法「改正」案の成立についても同様です。個別立法が基本法の規定を踏み越えてしまうからです。 これは、究極の「実質改憲」だといえるでしょう。この点について、もう少し詳しく説明させていただきます。 |
シベリアに抑留された経験を描き続けている画家・渡辺八郎尉門さん(85)(寒河江市高屋)がこのほど、5作目の油彩画を完成させた。渡辺さんは7日、同市内でこれら5作品を展示し、約3年間の抑留生活について講演する。
渡辺さんは東村山郡出羽村(現在の山形市漆山)出身。1939年ごろから画家として生計を立てていたが41年に召集され、中国でソ連軍の捕虜となった。画家だったことがソ連側に知られ、スターリンらの肖像画を毎日描かされた。49年に帰国後は、パリに渡って絵を売るなど画業に専念。白亜美術協会(本部・横浜市)の創立委員にもなり、風景画などを描いてきた。 抑留時代のことは思い出したくもないという時期が長く、抑留生活を描き始めたのは約6年前。戦友の多くが亡くなり、「風化してしまった悲惨な歴史を絵で伝えたい」との思いが強まったからだ。特に、「従軍画家はたくさんの勝ち戦の絵を残したが、負け戦のものはほとんどない」と、自身の原体験でもある抑留生活の悲惨さを伝えることにこだわる。 完成した5作目は、100号の大作「夢『脱走』」。捕虜収容所の壁をよじのぼったり、脱走に失敗して撃たれた抑留者の姿を描いた。故郷の母を表現したチョウを描き、色合いも幻想的だが、細部は悲惨な情景を直視させる。渡辺さんは抑留生活中、仲間から脱走を誘われたが、90人の部下がいたため断り、直接は脱走現場を見ていない。このため、生きるか死ぬかの瀬戸際の表情を描くことに苦労し、通常より3か月ほど長い約7か月を費やした。 講演は、「さがえ九条の会」の呼びかけに渡辺さんが応じ、同会結成1周年を記念して行われ、渡辺さんは「戦争はもう嫌だということを訴えたい」と話している。講演は7日午後2時から、寒河江市中央のハートフルセンターで。「ソ満国境の惨劇」などの作品も展示され、入場料は、資料代として500円。問い合わせは同会の佐藤栄一事務局長((電)090・7074・4213)へ。 (2006年10月2日 読売新聞) |
今行われようとしている自民党総裁選では、本命と目される安倍議員は教育基本法と憲法改正を公言しています。これは正しく戦争を出来る国にすることにほかなりません。
「さがえ九条の会」は、‘ストップザ憲法改悪’を合言葉に、市民の草の根運動として、昨年秋に結成されました。来る10月7日、結成1周年を記念し、さらに運動の輪を広げていくために「農民歌手鈴木久司 平和を謳う」と題して、歌と戦争体験の講演会を催します。 ぜひお誘い併せのうえ、ご来場をお待ちしております。 ☆10月7日(土)午後2時~4時 ☆寒河江市ハートフルセンター多目的ホール(飼料代500円) |
~最終回~
昭和28年4月頃から、鶴岡炭鉱で働いていた強制残留の日本人は、待ち焦がれていた日本への帰国が出来るようになり、何回かに分かれて次々と日本へ帰国して行きました。 私たちの帰国が何時になるのかと気を揉んでいると、結局一番最後までのこされて、9月 中旬に、二十代後半の独身者百数十名がようやく帰国する事になりました。 鶴岡市の鉱務局と市の人民政府により歓送会と宴会が持たれた。その席上、人民政府の 副市長が祝辞を述べられた。 「終戦1年後の廃坑寸前みたいに荒れ果てた炭鉱の再開に苦労している時、皆さんは劣悪な生活環境で、襤褸切れを継ぎ足した雑巾のような衣服をまといながら、なれない坑内作業を厭わず、中国の工人と共に苦難を分かち合って、愚痴一つこぼさず、中国の工人を励まし頑張ってくれた。鶴岡炭鉱の復興と驚異的な発展は、皆さんの積極的な貢献を抜きにしてはありえなかった。中国人民と日本人民が共に手を取り合って戦争に反対し平和と民主主義のために闘おう。日本人民の平和と民主主義を守る闘いの戦列に加わる君たちの健闘を期待する」 その後副市長さんは、私たちの座っているテーブルを回り一人一人と握手されました。 この祝辞は単なる社交辞令やお世辞でもない本当の気持ちを話してくれたのだと思いました。 鶴岡での7年間の生活を想い起こすと、当時の印象深い情景が次々と甦ってきます。 昭和25年五月下旬頃、日本人の労働組合の幹部から日本への帰国が可能になったと話があり、日本人は帰国の準備のため、坑内の作業を止めて郊外の仕事をすることになりました。私たちはこれまで何回か、日本への帰国について騙された事があるので信用できなかったが、今度は本当らしいと小躍りして喜びました。 でも叉雲行きが怪しくなったのです。寝耳に水のような朝鮮戦争が勃発し、その戦争が拡大の一途をたどり、中国の政府から「朝鮮戦争が終結に向かう兆しがまったく無く、玄海灘の汽船の航行の安全が保証されないので残念ながら今回の帰国は見合わせる」との事で、日本への帰国は暗闇の中に消え去った。 鶴岡には終戦後、北朝鮮から出稼ぎでなく、移住して働くようになる朝鮮人が家族ぐるみで来ていたのが少なくなかった。その中の青年たちが、救国の情熱に燃え、朝鮮人民軍に志願し従軍することになるのです。彼らの乗った列車が私たちの生活していた南山地区の独身寮の直ぐ近くを通り、窓から身をのりだして、手を大きく振り、見送る私たちに「頼むぞ頑張れ」と叫び、私たちも頑張れと声援をおくりました。 坑米援朝運動は全中国人民を巻きこみ、私たちも国際連帯の意気を示そうと、生産を高めるだけでなく、中国人民義勇軍を直接支援しょうと、坑内で仕事をしているものは三日間の工賃を、郊外作業のものは1日の工賃を支援しようと自主的な話し合いで決めました。 私たちでよかったらと中国人民義勇軍に志願しましたが、外国人は駄目だと断られました。でも私たちには、日本の平和と民主主義の闘いに参加しなければとの意思がありました。 色々な事情から昭和28年九月の帰国は出来ず。日本に帰国できたのは、昭和33年4月でした。 竹のカーテンで閉ざされた未知の国から着た私たちを、よく帰って来たと温かく迎えてくれたのは身内だけでした。 10回目で私の戦争体験を終ります。 有難うございました ...もっと詳しく |
~鶴岡炭鉱での七年間 東海林正志~
私たちの義勇隊開拓団から鶴岡炭鉱に強制残留させられた仲間は、10名でした。その中から、身体の衰弱による結核で二名が帰らぬ人となり、一名が酸欠事故、もう一人の仲間は落盤で犠牲となりました。鶴岡には、最初の列車で千数百人が強制残留させられ、その後、元奉天、元薪京、ハルピン、鶏西、中国人民解放軍に従軍していた日本人が復員してきました、その合計人数は三百人近くおりました。ですから、鶴岡には、千六百人を超える日本人がおりました。 明確な統計は出ておりませんが、身体の衰弱による病死、落盤、酸欠事故などによって四百名近くの死者が出ているのではないかと思います。 鶴岡に強制残留させられた日本人は、夏服の着たきりでした、それに精神的に、日本に帰国できると信じていたのが、なんと、帰国の見とおしは消え、賠償の見かえりで、何の期限もつけない炭鉱労働で一生扱き使われるのではないかとの不安にさいなまれていました。でも生きて日本に帰るためには、働き食を得なければならないと、自問自答し働き始める。 当時の鶴岡炭鉱は、戦前の日本人経営者から受けついた、採炭夫の安全をまったく無視した採炭法による採炭が行われていた。日本の炭鉱の炭層は、二メートルと言えば、最も炭層が厚いほうで、それ以下のところがほとんどでした。ところが鶴岡の炭層は六メートルもあるので私たちもびっくりしました。六メートルの炭層の底辺から掘進で縦横二メートルの切羽を二十五メートルぐらい掘り進み、そこが採炭現場の切羽で、炭壁に発破を掛けて、広げて行くと、四メートル四方ぐらい広がると天盤を坑木で抑えていないので、天盤が落ちてきます。そのようにして切羽が広がって行き、六メートルの炭層が落ちて石の天盤が見えてくると、そこの切羽の採炭は終わりです。 切羽が広がって行くと何時なんどき落盤があるかわかりません、大きな落盤がある時は必ずバラバラと小さな石炭が落盤の前ぶれとして落ちてくるのです。その前ぶれを見逃すと落盤の下敷きになるのです。ですから、私たちは緊張し、全神経を集中しておるのですが、スコップや鶴嘴を使い、夢中で働いているのですから、前触れに気ずかず、落盤の犠牲になるのです。 採炭の切羽で、十二畳ぐらい広がった切羽で厚さが一・二メートルぐらいの炭層が落ちて、三名の仲間が下敷きになり即死でした。そこには断層があって、前触れが無かったみたいなのです。 当時を振り返ると、八時間の仕事が終って、坑外に上がってくると、「やれやれ今日も生延びることが出来た」とほっとします。本当に大げさではありませんが、戦場におる時とおなじように、坑内に入れば何時何処で身の危険が待っているのかわからないのです。 当時は、終戦後、次の年から内戦に突入し、中国共産党の八路軍と国民党軍との死闘が展開されておりましたので、私たちだけでなく中国人も坑内で精一杯働いても食っていくだけのようでした。 私たちも、鶴岡で3年間働き、昭和24年初め頃、ソ連制の毛布を買うことが出来て、それまでの着どころ寝から解放されて、のびのびと寝る事ができるようになりました。 鶴岡では落盤による死者が事故関係では最も多かったのです。私も落盤で下顎骨折と裂傷で気を失い、病院で負傷したことに気づきました。幸いな事に日本の歯医者さんがおりましたので、下顎の骨折を直してくれました。その後遺症で現在でも、指が二本口に入るくらいしか口が開かないのです。 |
~鶴岡炭鉱での七年間 東海林正志~
私たちの義勇隊開拓団から鶴岡炭鉱に強制残留させられた仲間は、10名でした。その中から、身体の衰弱による結核で二名が帰らぬ人となり、一名が酸欠事故、もう一人の仲間は落盤で犠牲となりました。鶴岡には、最初の列車で千数百人が強制残留させられ、その後、元奉天、元薪京、ハルピン、鶏西、中国人民解放軍に従軍していた日本人が復員してきました、その合計人数は三百人近くおりました。ですから、鶴岡には、千六百人を超える日本人がおりました。 明確な統計は出ておりませんが、身体の衰弱による病死、落盤、酸欠事故などによって四百名近くの死者が出ているのではないかと思います。 鶴岡に強制残留させられた日本人は、夏服の着たきりでした、それに精神的に、日本に帰国できると信じていたのが、なんと、帰国の見とおしは消え、賠償の見かえりで、何の期限もつけない炭鉱労働で一生扱き使われるのではないかとの不安にさいなまれていました。でも生きて日本に帰るためには、働き食を得なければならないと、自問自答し働き始める。 当時の鶴岡炭鉱は、戦前の日本人経営者から受けついた、採炭夫の安全をまったく無視した採炭法による採炭が行われていた。日本の炭鉱の炭層は、二メートルと言えば、最も炭層が厚いほうで、それ以下のところがほとんどでした。ところが鶴岡の炭層は六メートルもあるので私たちもびっくりしました。六メートルの炭層の底辺から掘進で縦横二メートルの切羽を二十五メートルぐらい掘り進み、そこが採炭現場の切羽で、炭壁に発破を掛けて、広げて行くと、四メートル四方ぐらい広がると天盤を坑木で抑えていないので、天盤が落ちてきます。そのようにして切羽が広がって行き、六メートルの炭層が落ちて石の天盤が見えてくると、そこの切羽の採炭は終わりです。 切羽が広がって行くと何時なんどき落盤があるかわかりません、大きな落盤がある時は必ずバラバラと小さな石炭が落盤の前ぶれとして落ちてくるのです。その前ぶれを見逃すと落盤の下敷きになるのです。ですから、私たちは緊張し、全神経を集中しておるのですが、スコップや鶴嘴を使い、夢中で働いているのですから、前触れに気ずかず、落盤の犠牲になるのです。 採炭の切羽で、十二畳ぐらい広がった切羽で厚さが一・二メートルぐらいの炭層が落ちて、三名の仲間が下敷きになり即死でした。そこには断層があって、前触れが無かったみたいなのです。 当時を振り返ると、八時間の仕事が終って、坑外に上がってくると、「やれやれ今日も生延びることが出来た」とほっとします。本当に大げさではありませんが、戦場におる時とおなじように、坑内に入れば何時何処で身の危険が待っているのかわからないのです。 当時は、終戦後、次の年から内戦に突入し、中国共産党の八路軍と国民党軍との死闘が展開されておりましたので、私たちだけでなく中国人も坑内で精一杯働いても食っていくだけのようでした。 私たちも、鶴岡で3年間働き、昭和24年初め頃、ソ連制の毛布を買うことが出来て、それまでの着どころ寝から解放されて、のびのびと寝る事ができるようになりました。 鶴岡では落盤による死者が事故関係では最も多かったのです。私も落盤で下顎骨折と裂傷で気を失い、病院で負傷したことに気づきました。幸いな事に日本の歯医者さんがおりましたので、下顎の骨折を直してくれました。その後遺症で現在でも、指が二本口に入るくらいしか口が開かないのです。 |
第2部は、山形大学名誉教授(羽陽学園短大講師)土屋和恵さんから「九条の功徳」と題して、日本国憲法が果たしてきた役割、とりわけ九条効用について、辛口にユーモアを交えてタップリ1時間話しされました。
戦後、現憲法が与えられたものとはいえ、今日の平和があるのも九条のおかげ、それが小泉政治の手によって変質されようとしている。格差社会の増長やあくなき軍備増強、教育基本法の改悪など、すべて憲法改悪にリンクしていることから、草の根から改悪を許さない運動の高揚を…と締めくくりました。 その後、「国民投票反対!」「憲法改悪反対署名の取り組み強化」など、アッピールを採択し閉会しました。 |
「コンサートと講演の夕べ」だ採択されましたアピールを紹介します。
アメリカがイラクで戦争を開始して3年がたちました。 そして、自衛隊が、サモアに派兵されています。 戦後60年、日本は戦争に巻き込まれることはありませんでした。 これは、日本国憲法の平和主義・戦争放棄を定めた第九条があるからです。 明治憲法(大日本帝国憲法)で戦争して、結果的に太平洋戦争では、日本人300万人、アジアで2000万人、世界で5000万人以上の人のいのちが奪われました。これらの尊い犠牲のうえに、日本国憲法(平和憲法)が制定されました。そして、それは21世紀の世界のあり方を示すものとして平和を希求する国内外の厚い支持を集めています。 憲法は、国のあり方を定めるものです。 いま私たちにとって、もっとも大事な憲法が変えられようとしています。 その最大の目的は、第九条を変えることにあります。 第九条を変えることは、「戦争をしない国」から「戦争をする国」になることです。 戦争は、国家が人類に対して犯すもっとも残酷な、もっとも破壊的な、そしてもっとも不幸な大罪です。 日本国憲法、とりわけ憲法第九条を変えることを許さないために、声をあげるときです。それは、いま直接政治に発言できない、未来を背負う子どもたちのための、大人の責任です。 一昨年6月、井上ひさし氏らの「九条の会」アピールに呼応して、全国各地で4千を超える地域・職場・学園に「九条の会」が結成され、憲法第九条を守る運動が広がっています。 寒河江市でも昨年10月、日本国憲法第九条を守る一点で「さがえ九条の会」が結成されました。 一人でも多くの方々と力を合わせて、憲法九条を守り、この願いを世界に発信して、子どもたちに平和な未来を引きつぎましょう。 そのために、一人ひとりができる、あらゆる努力を今すぐ始めましょう。 ○憲法改悪に道を開く国民投票法案に反対しましょう ○憲法改悪に反対する署名活動に取り組みましょう 2006年4月13日 さがえ九条の会 コンサートと講演の夕べ |
♡本日の講演・コンサートはいかがでしたか
1.大変豊かな気持ちにさせられました。曲の中に平和へのメッセージこめられていてよかったです。 2.池田さんの曲の解説は大変すばらしい語りでした。演奏とともに。憲法の持つ力を確かめ合って運動の輪を広げることに喜びを感じる。 3.ヴァイオリンのコンサートは初めてでしたが、知っている曲もあり楽しく聴かせていただきました。ファンになりそうです。またの機会も聞きたいと思います。曲についての説明も良かった。 4.バイオリンははじめてでしたが、とてもすばらしかったです。 5.寒河江ですばらしい演奏がきけて感激しました。望郷のバラードや鳥の唄など、この寒河江で聞けるとは思いませんでした。今日は聞けてよかったです。 6.講演、ずばっとした社会批判にすがすがしい思いになりました。コンサートは心洗われなごませて頂きました。 7.久しぶりになまの音楽をききましたが、大変感動しました。 8.とてもとても素敵でした。お誘い下さり誠にありがとうございました。 9.ポピュラーな曲の構成で、音楽にうとい私でも楽しめました・・・(謝)。反骨あふれるトークに、りゅういんが下がる思いでした。こんなステキな音楽を資料代だけで聴けるなんて申し訳ないようようでした。 10.よかったです。 ♡今後この会が、憲法第9条を守るためにどんなことをしたら良いか、あなたのご意見をお聞かせください。 1.土屋先生の話がわかりやすくよかったと思います。 2.1人が1人へのよびかけを! ☆九条をバッグに刺繍し持ち歩く吾娘よ平和は守らねばならぬ 今日の話は実に痛快であった。ありがとうございました。 3.国民が知らない間に「国民投票法(案)」が着々と進められている。改憲阻止の運動とセットで推進を! 市民の目にふれる常設大看板の設置を検討されたい。 4.具体的にはよく分かりませんが、カザルスには及びませんが、若輩者のチェリストとしてやはり「鳥の歌」や「アメージング・グレース」などを平和のために引き続けていきたいです。 5.寒河江はいろんな会を頻繁に開いてがんばっていると思います。 6.年代をこえてみんなが興味と関心をもってもらえるとよいと思います。それには、九条の大切さを一人ひとりがまた色々な人に語ることが大切と土屋先生の話で感じました。 7.話が少しむずかしいし、よく理解することができませんでした。体調悪いのにご苦労様でした 8.土屋先生の話は、自慢話を基本にした吹聴型で、今日の集会には似合わない方でした。コンサートの良さを打ち消された話でした。 9.辛口のお話にユーモアこめて私達がこれからどんな気持ちでこの運動を取り組んでいくべきか教えてもらいました。 |
「憲法を変えて戦争へ行こう!」そんな世の中にしないために、「再び過ちを繰り返さない」ために草の根から憲法を守る運動を提唱している「さがえ九条の会」主催の“コンサートと講演の夕べ”が4月13日ハートフルセンターで開かれ、年度始めという時期にもかかわらず100名を越える市民がかけつけました。
夕べは、呼びかけ人の高橋寛さんの軽妙な司会ではじまり、第1部は、池田敏美さんのバイオリンと田中奈織美さんのピアノデュオ。オープニングは「踊る人形」、「望郷のバラード」「トルコ行進曲」など次々と繰り出される素晴らしい音色の競演に、館内はしばし酔いしれました。 今の平和があるからこそ「素敵な音楽も楽しめる」そんな思いをあらたにしたひと時でした。 ~続く~ |
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