ダリア日記
ログイン
ダリア(天竺牡丹)日記 Vol.395
ダリア (Dahlia キク科)
(花の西洋史辞典より:アリス・M・コーツ 白幡洋三郎・白幡節子訳 八坂書房)
(Vol.392のつづき)
初期のダリアはさほど華やかなものではなかったが、最上流の階級に広まっていった。イギリスに入った最初のダリアは、1798年ブート侯爵夫人からキュー植物園に送られてきたものである。彼女の夫は、当時マドリッド駐在のイギリス大使であった。このダリアは数年後には枯れてしまったが、おそらく、当時その栽培方法がよくわかっていなかったからであろう。これと同じ運命をダリア・コッキネアもたどっている。コッキネア種はチェルシーの種苗商、ジョン・フレイザーが持っていたもので、1804年『ボタニカル・マガジン』に図入りで紹介された。オランダ公夫人はこらら3種類をマドリッドからブオナイウティという人物宛に送っている。ブオナイウティ氏はイタリア人で、オランダ公の司書であった。彼は熱心にこれらを栽培し、その年に花を咲かせ、種子を採ることに成功した。さて、1804年からおよそ10年間にわたるナポレオン戦争には、フランスで多くの新しい園芸種が栽培されており、それらのうちいくつかはマルメゾンでジョゼフィーヌ皇妃が庭に植えていた。最初の塊茎は、彼女が自らの手で植えたと言われる。1814年にヨーロッパが平穏になった後、多くの園芸変種はフランスからイギリスに輸出され、1829年にはダリアは「イギリスでもっとも流行している花であり、……種苗園での栽培面積に拡大は本当に驚くばかりである」とJ.C.ラウドンが『造園辞典』に記すほどの人気の花となった。1823年に種苗商のトーマス・ホッグは、「ダリアの花は小さい庭には大き過ぎる」ので、むしろ「装飾用の低木のすき間を埋めるのに最適である」と考えた。しかし10年後には、ダリアは花屋の扱う重要な花になっていた。1835年には、園芸協会の創始者、ジョン・ウェッジウッドが200種の園芸種を育てており、その中には黒いものやラヴェンダー色のものまで含まれていた。この花に関する大事な文献は1838年にジョゼフ・パクストンが発表したものである。 (つづく)
2013.01.22:
acocotori
:count(2,915):[
メモ
/
ダリアの歴史
]
copyright
acocotori
powered by
samidare
▼コメントはこちら
名前
件名
本文
URL
画像
編集/削除用パスワード
※半角英数字4文字で自由に入力下さい。
手動入力確認イメージ
※イメージ内の文字を小文字の半角英字で入力して下さい。
※ 投稿後、すぐに反映されます。
ダリア検定
ダリアの歴史
ダリアの生理学
ダリアの分類方法
栽培管理の方法
ダリアの切花生産
品種図鑑
ダリアの楽しみ
ダリアの逸品
日本ダリア会
日本や世界のダリア園、組織
ダリアの物語
ケータイサイト
プロフィール
インフォメーション
ALL
メモ
メール
アンケート
カレンダー
ブックマーク
マップ
キーワード
スペシャル
プロジェクト
ログイン
All Rights Reserved by acocotori
powered by
samidare
ケータイサイト
インフォメーション
プロフィール
Powered by
Communications noteβ