ダリア日記

ダリア日記
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『宇宙』の活躍!

昭和32年の誕生以来、「宇宙」は国内はもとより海外のダリア会に大きなショックをもたらした。湿潤で肥沃に富んだ土壌を有し、温かな地方では二期作までも可能であった日本、「ダリアの天恵国」とまで言われるなかで、名花「宇宙」の誕生は、日本のダリア栽培・改良技術が国際レベルに達したことの象徴となった。

写真は、ベルギーマーチン社のダリアカタログの中に「宇宙」が載ったことを表しています。1966年(昭和41年)のカタログです。なお下欄には「キッド・クライマックス」の文字が見えます。
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『天竺牡丹』から『ダリヤ』へ、そして『ダリア』

ダリアの名前の変遷についてこれまでも取り上げてきました。

アメリカインデアン達は「アココトリ(水の管)」と呼び、ヨーロッパに渡ってからは「ダーリア(植物学者の名前)」、江戸時代に日本へ入ると「天竺牡丹(外国産の牡丹に似た花)」、そして明治の頃には「ダリヤ」「ダリヤス」などと呼ばれるようになりました。

大正から昭和に移ることにようやく「Dahlia」のスペルに順ずる「ダリア」「ダーリア」と呼ばれるようになりましたが、地方の愛好家や園芸家の一部で、永く「ダリヤ」と呼ばれる事になります。

写真は、昭和9年発行の「北海道ダリヤ協会会報・創刊号」と翌年発行の「同・第二号」です。タイトルは「北海道ダリヤ協会会報」であるものの、発行者が「北海道ダリア協会」となっています。当時の混乱を物語っている、非常に珍しい資料である。
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ダリアとジョゼフィーヌ

天竺牡丹日記ではナポレオン1世時代のダリアについて取り上げていますが、ダリアがその研究によって大きく変化し、社会に認められる転機が1800年前後のこの時代です。(天竺牡丹日記Vol.23)

花言葉『移り気』(天竺牡丹日記Vol.24)
ナポレオン妃となった「ジョゼフィーヌ」は、パリ郊外のマルメゾンの邸宅にバラやダリアの珍しい品種や各地から集められた草花を植えていました。
特にダリアはお気に入りで、満開のころにたくさんの客を招いて園遊会を開いていました。ある日のこと、侍女の一人が大きく開いたダリアを指指し、「私に分けてくださいな」と言うのです。
しかし、ジョゼフィーヌは決して一輪の花も分けることはしませんでした。

侍女は諦めません。ダリアを手入れする庭師を買収し(金と色仕掛け?)、まんまとダリアの球根を手に入れる事に成功するのです。侍女は手に入れた球根を育て、自分の庭で見事なダリアの花を咲かせるのです。その噂を聞きつけたジョゼフィーヌは、庭師や侍女、関わった貴族を解雇、破門すると共に、急激にダリアへの興味が冷めてしまいました。
このジョゼフィーヌの気持ちの変化が、ダリアの花言葉のひとつ「移り気」の語源と言われます。

庭師は首になり出て行くときに、「花は多くの人に見られ、愛されてこそ本当の花ではありませんか。独り占めされた花は幸せでしょうか」と言葉を残しました。


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1804年、ナポレオンはフランス皇帝に就任することになります。そして、妻のジョゼフィーヌも皇后(ファーストレディ)の位に立つことになるのです。「まさに、この世の華!」

しかし、ジョゼフィーヌにはこの栄光が重く苦しく圧し掛かるのです。この時ジョゼフィーヌは既に41歳。待望の子供に恵まれず、ナポレオン一族から後継者問題がクローズアップされると共に、国民の英雄となったナポレオンとの間に、いつしか隙間風が吹き、寂しさを感じずにはいられないのでした。

ジョゼフィーヌはパリの宮殿に居を据えますが、一方でパリ郊外にマルメゾン館を有し(皇后になる以前に購入)、戴冠後はここに身を置くことが多くなります。子供のいない寂しさか、ナポレオンが離れてゆく寂しさか、庭造りに没頭し、世界各地から珍しい花の種子・球根・苗を取り寄せては栽培し、我が子のように可愛がります。中でもジョゼフィーヌは有数なバラコレクターとして知られています。そのフラワーコレクションの中に、ダリアの花達も含まれ庭園を彩るのでした。




日本のプロ野球もセ、パ両リーグが開幕した。
WBCで日本が優勝したことで大変な盛り上がり、野球の人気も復活しそうな勢いである。
日本の優勝には、その実力を誰もが認めることだろうが、日本の運命を変えたメキシコチームの活躍にも感謝しなければならない。

さて、「ダリアのふるさとメキシコ!」
熱帯(中央)アメリカでの探検を進めているフンボルトの活躍に戻りたいと思う。(天竺牡丹日記 Vol.18)
ある日、メキシコシティーから西にある鉱山の調査に出掛けた一行の前に、一面に野生しているダリアの姿が現れます。発見されたところは熱帯ながらも海抜1500mの地方であり、このことによりダリアが冷涼な高地産のものとして初めて認識されるのです。

1804年フンボルトはヨーロッパに帰ると、数多くの報告を行いますが、その中に「ダリアが冷涼な土地を好む花として」発表されるのである。(球根か種子を持ち帰ったとの記録もあり)
温室栽培によって枯渇させて頭を悩ませていた植物学者、この報告・発表によりダリアの本格的な研究の始まるのである。

それにしても、メキシコには感謝、感謝、感激!




ダリアのヨーロッパでの夜明けは、間違った見識により苦しみに満ち溢れていた!しかし、その復興にドイツを代表する一人の地理学者が貢献するのである。

アレクサンダー・フォン・フンボルト(1769年、ドイツのベルリン生れ)
フンボルトは、ペルー沖を流れる[フンボルト海流」(エルニーニョ現象の観測地)や南極大陸のアイドル「フンボルトペンギン」で有名!?
財産家の次男として生れた彼は、私財を投げ打って熱帯(中央)アメリカの研究に没頭するのです。

1799年6月から1804年8月までの5年2ヶ月間、熱帯アメリカ(メキシコ〜ブラジル北部)を歩き、地理学、気象学、植物学それぞれの観点から同地域をくまなく探索し、世界にその姿(豊かな国土や植物、人類、文化)を知らしめるのでした。(スパイ説:侵略や地下資源の発掘のため探索したのではないかとの、推測もある)

そんな探検のある日、メキシコ山岳地帯のある都市で見事に開花する「ダリア」を発見するのです。




1800年初め、ダリアはパリに届く。マドリッドからパリの王室自然博物館へ!同じ頃、イギリスやベルリンに届けられるのです。

ダリアの原産国はメキシコを初めとする中南米、緯度では北緯0〜20度の地帯です。
このエリアは熱帯に分類され、とても暑く、現在でも海のリゾート地帯として広く知られ、中でもメキシコ合衆国のアカプルコやカンクンなどは、ビーチリゾートとして多くの日本人が訪れる場所です。ヨーロッパは北緯40〜55度、ほとんどの国が日本よりも北に位置します。

また、ダリアの研究が各地で進むにつれ、ヨーロッパではよく開花するが、晩秋の霜や凍みに弱く、冬季間には球根が凍結し、生物としての価値が失われることが知られるようになります。

これらのことから「ダリアは熱帯の花であり、高温で栽培しないとだめである」と言った発表(誤解)がなされ、温室等での栽培研究が始まるとダリアは急激に勢いを失い、枯渇してゆくのです。

写真:カンクンリゾート




快進撃を続けるナポレオン!
心の支えは、6歳年上のパリでも有名な美貌を誇る未亡人「ジョゼフィーヌ」
激戦下でも、遠くパリにいる愛しい彼女に手紙を出し続けるのです。

背が低くブ男、訛りのきつい田舎者の「ナポレオン」に対して「ジョゼフィーヌ」は、さほど魅力を感じていなかったものの、32歳になり美貌も衰え始めてきた彼女は「時代の風雲児・ナポレオン」の将来性に賭け、結婚を決意するのです。

それから9年たった1804年、ナポレオンはフランス皇帝となり、ジョゼフィーヌも皇后になるのです。この時ジョゼフィーヌは41歳、ナポレオンは35歳。権力を手に入れた女好きなナポレオン、二人の中には微妙なスキマが生まれてゆくのでした。

さて、ヨーロッパ各地に広がり行くダリア。同時に各地の研究者によってその研究が進められて行くのですが、大きな問題が生まれていたのです。





食用として成就しなかったダリア(Vol.10)

ダリアが再び現れたのは1790年。
前年にメキシコの植物園よりスペイン王室植物園へ送られたダリア(まだアココトリと呼ばれた)の種子が花を咲かせた。(半八重咲の紫色花、一重裂きのローズ色花)
これが、ヨーロッパにおける「ダリア」の誕生である。
(「アココトリ」が「ダリア」と名付けられるのは1791年)

これの誕生を機に、ダリアはヨーロッパ各地に広がってゆくのです。

この時代ヨーロッパは大きな変革期を迎えていた。フランス革命を中心とした封建社会からの脱出である。そして、英雄ナポレオンが生まれるのです。

ナポレオン軍がヨーロッパを駆け巡るが如く、ダリアも各地に伝わって行くのです。
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ダリアはもともと食料!

アステカの人々はダリアの球根を食用としていました。
球根は、芽を出させ、枝葉を生長させ花を咲かせる(最低限の)エネルギー(養分)を蓄えた優れた器官。ダリアをはじめとする球根植物は、苛酷な環境でも花を咲かせること(子孫を残すこと)が可能な高度な植物です。

さて、コロンブスの新大陸(アメリカ)発見後、ヨーロッパの探検家は南北アメリカから多くの物を持ち帰ります。アステカやインカ帝国のお宝から鉱物資源、植物、食料等など

そんな中に植物としては、ジャガイモ、サツマイモ、トマト、カボチャなどがあり、ダリアもその一つです。食用としてヨーロッパに渡ったダリアですが、食味が好まれず食料としての成功は見られませんでした。
なお、ヨーロッパで最も成功したのはジャガイモと言われています。

写真はジャガイモ「インカのめざめ」(北海道農業試験場のパンフより)

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ダリアの和名は、このタイトルのとおり『天竺牡丹』です。

ダリアが日本にやってきたのは江戸時代後期の1841年(天保12年)となっています。
長崎の出島を経由して江戸に届いた八重咲きの赤い花、名もなきこの花はいつしか「天竺牡丹」と呼ばれるようになりました。

さて、天竺とはご存知のとおりインドのこと。
現在もTV(月曜日)で放送していますが、孫悟空一行が旅する「西遊記」で有名ですね。
当時、海外から国内に入ってきたものには「南蛮・・・」とか、「天竺・・・」とかと名前を付け、呼んだようです。
ダリアについても「海を渡り外国から届いた牡丹のような美しい花」と言うことで、「天竺牡丹」という呼び名になったのです。

写真は「ネリー ブルム ヘッド」藤色のポンポン咲き。
大正時代に発行されたダリア専門書にも紹介されている、生まれて100年の時を過ごしている品種である。




中南米出身のDahliaがヨーロッパで進化を遂げることに。ダリアの最大の魅了である多種多様な花形は、1800年代にほぼ確立されています

また、園芸研究家の中で花径の巨大化の競争も激化!30cmを超える「巨大花」も生み出されてくることになります。

なお、写真は「ダリア・コッキネア」ダリアの原種の一つで、赤の一重咲きのこの花は、コスモスのようにとても可憐な花である